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2022年11月の聖書タイム「暗闇を生き抜く」

by 山形優子フットマン

山形優子フットマンの執筆・翻訳 by 「いのちのことば社
新刊「季節を彩るこころの食卓 ― 英国伝統の家庭料理レシピ
翻訳本:
マイケル・チャン勝利の秘訣」マイク・ヨーキー著
コロナウィルス禍の世界で、神はどこにいるのか」ジョン・C・レノックス著
とっても うれしいイースター」T・ソーンボロー原作
おこりんぼうのヨナ」T・ソーンボロー原作

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ
ーーーコヘレトの言葉12:1

秋も深まり、日が短くなりました。夕方4時ともなれば、電気をつけなければなりません。英国でさえそうなのですから、北極圏に住む人たちはどうでしょう。BBCラジオ放送の「越冬の知恵について」という番組で、エスキモーの男性のインタビューを聞いたことがあります。彼は言いました。「とにかく四六時中、真っ暗ですからメリハリをつけた生活をするよう心がけています。活動的に過ごすことが肝心で、月がある時はアザラシ狩に出かけます」と。暗い中で活動的に振る舞うのは、なかなか大変だと思いました。

人生の秋も、つるべ落としのように突然やってきます。部屋の電気が消えてしまった時のように、手探りで、すり足で歩く時です。若い時にはなんとも思わなかったことが、億劫になったり、デジタル化の波について行くのが以前は全く問題なかったのに、ストレスになったりです。もちろん、人それぞれではありますが、どの人も「年を重ねる」ことには変わりなく、また老いを迎えること自体にあきらめが着くまでは、受け入れられずに一人相撲を取るようです。

旧約聖書の「コヘレトの言葉」の終わりの章を、表面的にさらっと読むと、全く嫌になり、聖書を読めば元気が出るはずなのに、ここだけは鬱々としてしまいそうです(読んでみてください)。そして、第1章の出だしからして、以下のようです。

コヘレトは言う。なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。

ーーーコヘレトの言葉1:2

どこかで聞いたことのある言葉だと思いませんか? 平家物語の冒頭、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」に似ていませんか? 祇園精舎とは古代インドにあった僧房だったそうです。鐘とは、お寺の鐘付き堂の、除夜に鳴らされるゴーンという鐘の音ではありません。いまわの時を迎えようとする病人の指に糸で縛られている鈴の音で、鳴る時の音はチリチリチリだそうです。これも書いていて、嫌になります。

秋になって森の中を散歩すると、たくさんの不思議な姿のキノコが、ニョキニョキと生えているのを見かけます。けれども、次に行った時には、同じ場所にあったはずのキノコは跡形もなく、また別の種類のキノコが生えていたりです。人間も、このキノコと同じように、生えては消えていく存在なのでしょうか。もしそうだとしたら、本当に人生は空しいです。

知恵者ソロモンであるコヘレトはまた、次のように言っています。

ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間を真っ直ぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる
ーーーコヘレトの言葉7:29

皆さんは、どう思われますか? 複雑な考え方をしていますか?

複雑な考えとは、自分の知恵を絞り出して考えることかもしれません。または、この世の価値感かもしれません。自分や自分の子供、住む家、資産の有無、自己イメージ、それらに満悦し、ほっとし、安心し、密かに自慢に思ったりしていませんか? いや、そう思っているはずです。なぜなら、私たちは全員「神の言葉」だけを大切にしていないで、自分中心に生きる罪人だからです。

コヘレトは、神がいなければ人生は空しく、人間の小さな奢りが落とし穴だと言っているのです。冒頭の聖句、

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」
ーーーコヘレトの言葉12:1

を再読してみましょう。この聖句の前である11:10には「若さも空しい」とあります。また、12:1「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」の続きは「苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた曇が戻って来ないうちに」とあります。

人間には限界があります。コヘレトの結論は「神を畏れ、その戒めを守れ。」です。そしてまた、彼はこうも言っています。

神は全てを時宜(とき)にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と。私はこの「永遠を思う心を人に与えられる」という箇所が大好きです。私たち人間は、本当は造り主である神を慕っています。神を否定している人も、薄々、神が存在することに実は、かんづいているはずです。

コヘレト=ソロモンの父親だったダビデ王が書いた詩篇139篇11~12を見てみましょう。

「わたしは言う。『闇の中でも主はわたしをみておられる。夜も光がわたしを照らし出す。』闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない」

エスキモーの男性のインタビューを思い出してください。暗闇でも少し努力すれば、なんら変わりない日常となると彼は言いました。私たちは喜んで神に従い、淡々と暮らして行けば良いのでしょう。いや、むしろ、お先真っ暗な時、キリストだけを見、キリストに従いましょう。なぜなら他の価値は秋の野のキノコのように、すぐに消えてしまうからです。

兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きるのぞみさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしを救って下さったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしは神に希望をかけています。あなたがたも、祈りで援助してください」
ーーーコリントの信徒への手紙2、1:8~11