アダムとイエス(1)
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主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
――
人間とは、あくまでも、人間である。
いかなる人間もまず、他のナニモノでもない、ただの人間であり、そうして、どこまでいっても、しょせん人間である。
平生、こんな当たり前すぎるほど当たり前なひとつ事を、格別に意識しながら生きている者など、まずいないだろう。
しかし、もし、
もし、こんな自明のひとつ事が、
「神」と「顔を顔を合わせて出会う」ための、もうひとつの「大前提」だったとしたら、どうだろうか――?
私はすでに、我々が生き死にをくり返すこの地上が、「神の造った極めて良き世界である」という、ひとつの「大前提」を信じることで、「わたしの神」と「顔と顔を合わせて出会った」という話をした。
しかし、記憶をさかのぼってみれば、「極めて良い世界」をば信じるずっと以前にも、私はすでに「顔と顔を合わせて」、「わたしの神に出会っていた」のだった。…
人間は、誰しも、裸で母の胎を出る。
その姿こそ、すべての人間の本質であり、しょせんである。
しかし我々は、そのような「しょせん人間」でありながら、往々にして、このひとつ事を、忘れがちである。
なぜとならば、
「しょせん」でありながらも、我々また「男」であったり、「女」であったり、「市民」であったり、「民族」であったり、「誰かの子」であったり、「誰かの親」であったり、「組織の一員」であったり、「生産人口」であったり…というふうに、裸の、ただそれだけの、身一つの「人間」の上に、必ずといっていいほど、「何らかの上乗せ」をされていく存在でもあるからだ。
そういった「上乗せ」こそが、「価値」となり、「目的」となり、「理由」となり…というふうにして、種々の、色とりどりの「人生」が織りなされていくのである。
ところが、望む望まざるにかかわらず、そのような「上乗せ」こそが、我々を「しょせん」で無くしてしまうのである。
無くしてしまうというよりも、あらゆる「上乗せ」によって、「裸」という本質を、当人が忘れてしまう時――人間は、「神とあいまみえる大前提」まで、見失ってしまうのである。
これを、聖書的に言い換えようと思えば、
冒頭の一句、
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」
ここにすべて、要約される。
すなわち、
土のちりから造られた「人間(アダム)」とは、はじめ、いわば「泥人形」のような存在にすぎなかった。
そして、そんな「泥人形」が、その時点からすでに、たとえば「イスラエル民族」であり、「ユダヤ人」であったのかといえば、むろん、そうではなかった。
神によって「命の息をその鼻に吹きいれられた」時、アダムはまだ、「男」ですらなかった。
ここが、「アダム」の大変ユニークでもあり、母の胎を借りて生まれて来た我々とは、決定的に異なっている点でもある。
すなわち、
神によって形造られた「アダム」とは、
はじめ「性別」もなく、「国」もなく、「民族」もなく、「親(家族)」もなく、「組織」もなく――そのような、ただそれだけの、身一つの、純一無雑の、「裸の人間」だったのである。
それゆえに、それゆえに、
そんな「裸のアダム」のかたわらに居た者といえば、ほかでもない、「神」ただひとりだった。
そして、神とアダムが並んで立っていた場所こそ、「神の造った、極めて良き世界(神の国)」だったというわけである。…
話は私自身のことになるが、
私は、その思春期のすべてを、異国で暮らしたという経験を持っている。
私が母の胎を出た時、私はすでに「男」であり、「日本人」であり、「両親の子ども」であり、「中流家庭の子」であり…というふうに、「裸の人間」として生み落とされていながら、すでに種々の「上乗せ」がなされていた。(さながら、母の胎にいた頃から「罪」があり、「罪」の中に生まれ「罪」の中に育まれたように。)
そして、そのような「上乗せ」を、ある時、「すべて剝ぎ取ってみた」という実体験を、私は有している。
それの起こったのが、まさに「異国で暮らした思春期」の、ただ中だったというわけである。
しかし別段、小説や映画にできるほど特異な、奇異な、風変りな体験だったはずもない。
十五か、十六の多感な、しかし極めて凡庸な少年の身に起こった出来事といってしまえば、それまでである。
当時、私の周辺には、毎日のように、学校の級友たちが走り回り、動き回り、うごめき回っていた。
とある移民国家の、小さな市街にあった公立学校には、世界中の国々から移住して来た「大人たち」の、その「息子たちと娘たち」とが、ひとつ所に集められて、机を並べ、勉学にいそしんでいた。
詳しい経緯の説明ははぶくが、そんな数多の「他民族」同士が四六時中、うるさいくらいにひしめき合っていた空間にあって、
ある時、私は、「国」や「民族」や「文化」や「歴史」や…といったあらゆる「フィルター」を取り払ってみた。そうして、あくまでも「個人」という存在の方へ、方へと、自分をいざなってみたのである。
少しだけ具体的に述べるならば、いつもいつでも「日本人」として見られ、目され、みなされなければならない、いささか窮屈に感じずにはいられなかった「運命」のようなものを嫌い、
「国」や「民族」「文化」や「歴史」や…という「概念」をすべて取り払ってしまった時、その後に残った、ひとつの固有名詞を持った「わたし」という「裸の人間」が、いったいいかなる存在たり得るのか、――それを強く意識してみようと、考えたわけである。
それはまた、思春期における「自我の目覚め」と、時を同じくしていたようである。
で、「国」や「民族」や…といったものを、ことごとく自分から剥ぎ取っていくうちに、――次第次第に、「家族」や、「親の社会的地位」や、「己の社会的立場」といったような「社会性」も、学力や運動能力といった、個人的な「価値性」も、あげくのはてには「性別」や「肉体」といったような、「存在性」のようなものにいたるまで、さながら玉ねぎをむいていくかのように、次から次へと「取っ払って」いったらどうなるだろうという、妄想のような、空想のような想像まで、膨らませていったのだった。
結論を言ってしまえば、それが私の内側で起こった、 「魂」とか「霊」とか呼ばれるものとの、邂逅だった。(魂と霊の違いとか、そういう議論は七面倒くさいので、ここではただ「霊」としておく。)
「霊」は、「自我」のさらに内側の、奥の奥にまで潜ってやっと見出したようにも思えるし、その逆の、なんだかとてつもなく浅い所で、あっさりと出会えてしまったような覚えもある。
いずれにしても、「霊」との邂逅は、「わたし」との邂逅であり、――そして、その「わたし」こそが、「神」と「顔と顔を合わせて」、あいまみえたのだった。
だから、「わたしの神」なのである。
「国」や「民族」や「価値」や「性別」や…といった、ありとあらゆる「上乗せ」を、ひとつひとつ、自らすすんで無くしていったときに、私は「わたし」という、まるで裸の赤ん坊のような、まっさらな「霊」を見つめた。
聖書的に言えば、それはまさしく泥人形のような、「アダム」だった。そして、その「アダム」に、「わたし」に、「霊」に、「命の息を吹き込んだ」者こそ、「神」だったのである。
だから、「わたしの神」なのである。
「わたしの神」によって「命を吹き込まれた」という体験が、どんな体験だったのか、それは詳しくは語れない。
「風が思いのままに吹くように…」という譬えもあるように、詳しく語ろうとすればするほど、「嘘っぽく」なってしまうから。
ただ、ひとつだけ、強調しておきたいことがあるとすれば、
「わたし」が、「わたしの神」と出会ったのは、「聖書」の中なんかではなかった。
いかなる「教会」の中なんかでもなく、
だれか「クリスチャン」と呼ばれる人間の「伝道」のおかげであったわけでもなく、
「イスラエル民族」や、「ユダヤ人」なる人々の継承して来た文化、慣習、伝統などを通してでもなかった。
それゆえに、それゆえに、
―― 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。――
という聖書の一文が、私には、非常に良く分かる。
また、
それゆえに、それゆえに、
私は仮に「聖書」が無くなったとしても、私の信仰は揺るがないと、確信できる。
「教会」に行かなくとも、「わたしの神」と、毎日のように「交わる」こともできるし、
「イスラエル」の歴史も知らず、「ユダヤ」の民族性にも疎く、「ヘブライ語」など一文字さえ学ばずとも、
「わたしの神」である、「インマヌエルのイエス・キリスト」との親密な関係を、さらに深め、深め、深めていくことができると、確信しているのである。
しかし、しかし、
もしも、その逆であったならば、まったくもって「確信」することは、ままならない。
すなわち、
「わたし」との邂逅もなく、「霊」も知らず、その「わたし」にも「霊」にも、神が「命の息を吹き込んでくれた」という実体験のなきままに、
どんなにか「聖書」を読みこんでみたところが、
どんなにか「教会」にいりびたってみたところが、
どんなにか「イスラエル」を知り、「ユダヤ」を学び、「ヘブライ語」を体得してみたところが、
「わたしの神」である、「インマヌエルのイエス・キリスト」との親密なる関係をば、さらに深め、深め、深めていくことなど、永久にできはしない。
なぜとならば、
神によって「命の息を吹き込まれていない」としたら、「わたし」は永久に、ただの泥人形のままなのだから。
つづく・・・
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