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たびの始めは終着駅「宮脇修三」

宮脇俊三が亡くなってから二十年になる


日本には鉄道を趣味とする人間が百五十万人は存在する


政府統計に鉄道ファンの人数という統計はない
雑誌や書籍の販売
鉄道イベント
周遊券など企画切符の売り上げから類推した数字だろう。

鉄道ファンには乗り鉄・撮り鉄・車両鉄など様々な分類がある。
一番厄介なのは『迷惑鉄』だ
彼らを鉄道ファンにカウントするのは反対だ。

一般旅客や同好の士に迷惑をかけて平気な者が愛好家と名乗るのは虫が良い。

私は鉄道が好きだ。
だが飛行機や船を飯のタネにしていた。
自動車を運転するのも趣味のひとつだ。

船や飛行機は仕事であり、一般の方よりも詳しいのは当然だろう。

小生自身を無理に鉄道ファンのくくりに当てはめるなら

「宮脇俊三鉄」


鉄道愛好家の分類として適当なのかという迷いはある。
ただ趣味は本人のモノである。
他人に迷惑をかけず法律や道徳に触れないなら可としたい。

この「鉄」はチケット争奪戦や座席の椅子取りゲームに参加せずに済む。
どなたにも迷惑をかける心配もない。

鉄道という乗り物に愛着を感じる作家は
洋の東西を問わず多数存在する。

宮脇俊三という作家の切り口


別の言い方をすれば彼のフィルターを介した鉄道紀行はいささか趣を異にする。
独特の諧謔で淡々と流れる時間
「〇▽駅で・・・を食べておいしかっ」式の紀行文の常とう手段は用いない。

ただひたすら・・・列車に乗り、時刻表と格闘し、地形図と沿線風景を眺め道中のありふれた風景を描写する。

宮脇作品に没入する時
現実の鉄道旅行より誌上の旅は現実感を持って眼前に出現する。
それは動画ではなく良質のリトグラフのように細部まで精緻に再現されている。ノミあとが目立たない写真のような絵画だ。

紙の上を旅しているのに実感が伴う理由
それこそが宮脇の真骨頂

こんなアタマのイカレた鉄道ファンは稀有だ。
ひそかに悦に入るのは鉄キチの症状が末期を迎えた証だろう。

世の中には奇特な事に同病患者が存在する。
宮脇作品は案外女性ファンが多いと聞いてはいたが職場の同僚が休憩時間に
「最長片道切符の旅」を真剣に読んでいたのを見つけ愕然とした

同病相憐れむとはこういう場面だ


彼女の一番好きな作品は「終着駅へ行ってきます」だという。
この後輩もかなり重症だ。若いみそらで不憫なこと。

小生には未読の宮脇俊三の作品は存在しない・・・はずだ。

鉄道ムックの類や子供向けの本、
北杜夫や阿川弘之作品のあとがきなど署名のあるものはほとんど読み尽くした。

もう未読の作品はほとんどない。
この寂寞は生き甲斐の一部を喪失した独特の感覚だ。
定年退職時の寂しさは「緊急呼集」の緊張と相殺されほとんど感じなかった。生涯で同じような寂しさを経験する機会は残っていないのだろう。

虚しさを達観できるほど老成するにはあと50年必要だ


私もいつの日か彼岸へ到着する。
彼岸桟橋の売店で宮脇俊三の新刊本を購入するのが目下の楽しみだ。

ただし残念なことだが向こう岸へ渡る予定はしばらくない。
仕方がないのでこちらの岸で同じ本を何度も読み返している。

小生の文体が宮脇俊三の贋作化しているのは気がかりだ。
師匠の贋作者という汚名は耐えがたい。

宮脇の書体は読みやすく丁寧それでいて自然だ。
過剰な修飾や居丈高な物言いを極力避け
無理筋の展開を好まない。
宮脇俊三の文体は一見すれば平易で誰でも書ける作文のように見える。

だがやさしく解りやすい文章は作り手の困難度合いと反比例する。
読者にわかりやすい文章ほど
作者の艱難辛苦により産み出された苦行の産物だ。

婉曲な表現の文章を「レベルの高い文章」だと勘違いするのは初心者の常だ。
小生のまわりくどい文体も初心者ゆえの所業だろう。
あの宮脇俊三ですら表現法や副詞、助詞の用方、前後の位置、言いまわしが気に入らずに何度も推敲した。
手書きの原稿が掲載された作品を拝見したが身を削る思いで作品を完成させていた形跡が伺える。
さらっとした大吟醸酒はのどになんの引っかかりもない。
丁寧に作り込まれた芸術作品も同様で、あまりにもさっぱりとした読後は読書したことを忘れさせる。映画を見た後と同じような感覚だ。

宮脇俊三に影響された作家は多い。
現代の紀行作家や鉄道を主題にする作家の文章には
名指は避けるが「宮脇作品を下敷き」に引き写したものがある。

編集者として優秀であった彼の眼鏡に叶った作家は少ない。
衣鉢を継ぐ者は存在するが紀行作家ではない。

紀行文は星の数ほどあるが私の読みたい作品は少ない。

師匠の贋作を書く意思も技量も持たない小生だが、文体が引き寄せられるのはどうにもならない。
そのリズムこそが小生にとって心地が良いのだ。
自分の文章が心地悪いリズムならば、書くだけで気持ち悪くなる。

とはいえ私の書く駄文には宮脇俊三と比較する価値はない。

月とスッポン程度の差ならレーザー機器で計測は可能だ


尺度が計測できる範疇には収まる前提ならば。
幼稚園児がハムレットを論評したらシェークスピアどう思うだろう。
恐らく彼の晩年は好々爺ではなくなる。
正当な評価がなされない芸術家の晩年は
バッハやゴッホを持ち出すまでもなく不幸のどん底だ。

宮脇俊三の作品は完成度が極めて高い。
同じ水準の紀行にめぐり合うことは稀だ。

衣鉢を継ぐことはかなわない。

私が読みたい乗物の紀行は、
背景に森羅万象が溶け込んで違和感のない
あの文体ゆえに成立するのだ。
新しい題材の宮脇作品に出合えないのなら、いっそ我流の贋作を作るべきなのだろうか。
読みたいという欲求を永久に葬るか、
無謀の誹りを承知で逆風が満帆の船出をすべきか。
結論はでない。

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