【 雨音色の夏 3 】
正行の身長は一六八センチと圭子より低い。そのため圭子がヒールの高いパンプスなどを履くと十センチ程の身長差になり、正行は見下ろされることになる。それを気にしてか圭子は少し猫背になって歩く。
「一緒にいる女に見下ろされるのは初めてだ」と、二度目の時に正行は笑いながら圭子に言ったが、言われた圭子の方は完全にコンプレックスになっていた。
「逆だといいのにね、ごめんなさい」
「何を謝っている? 身長はおまえの責任じゃない、もっと胸を張って歩け」
「そうだけど……」
「気づいてないのか?」
「何を?」
「太る・痩せるは、本人の努力次第でなんとかなることもある。だが、身長はどうにもならない。背が高いということは、それだけでとても恵まれた個性だ。卑屈になる理由など、どこにもない」
「だって『蚤の夫婦』みたいでしょ。あんまりかっこよく見えないんじゃないかと思って……」
「一体誰と何を比べてるんだ。前はお前だ、それ以上でもそれ以下でもない」
「それはわかっているんだけど、なんか気になるの。正行さんも初めてだって、今言ったわ」
「初めてだが、これも悪くない」
「本当に? 私に気を使っているでしょ」
「気を使うくらいなら、一緒に歩かない」
「うふふ、ありがとう。うれしい」
ぶっきらぼうな言葉遣いだった。しかし営業用とは違う、自分だけに向けられた正行の気遣いが、圭子は心地よかった。
そんな正行と圭子の出会いは、タクシーのドライバーと客としてだった。
老人介護施設は頻繁にタクシーを使うため、特定の会社と契約しているケースが多い。
入居者の通院や買い物、訪問客の送迎、職員の通勤と需要はけっこう見込めるので、タクシー会社としても悪い話ではなかった。
圭子が勤めている老人介護施設と契約していたのが、正行が勤めているタクシー会社だった。
無線で配車されるドライバーはほぼ決まっていて、片岡はその中の一人だった。片岡を気に入っていた圭子は、いつも指命していた。つまり圭子は片岡の客だったのだ。
その片岡が二年と少し前の春先、年度末の忙しい時期に「咳が止まらない」とぼやいていた。
「とりあえず、そのタバコを少しやめたらどうなんだ」
ヘビースモーカーの片岡にこう忠告してから、「病院には行った?」と正行が聞くと、
「行ってるよ、何度かクスリも変えてるんだが、さっぱり治らん」と言いながら、片岡はまたタバコをくわえた。
「だから、少しの間だけでもタバコをやめろよ」という正行に、
「風邪ごときでタバコはやめん。こんな咳などタバコで治す」と訳のわからない理屈を言い出し、またゴホゴホと咳をした。
「風邪じゃなくて、あんたのは肺がんだよ。そのままだと、すぐにくたばるぞ」などと正行は悪態をついていた。
もちろん正行にしても本気で言った訳ではない。だがそれから一週間も経たないうちに、それは言葉通りになった。
治りの遅い咳を疑問視した開業医が、精密検査を受けるように片岡に伝え、総合病院の紹介状を出した。
「早い方がいい」と開業医に言われ、翌日総合病院を受診した片岡は、その日のうちに『肺がん』と診断された。
「厄介な場所にガンができていて、専門知識がないと見逃してしまう」と開業医を擁護するように、医者が片岡に言ったらしい。
「専門の『癌センター』で治療を受けた方が、あなたにとってもいいはずだ」と医師に言われ、更に翌日片岡は『癌センター』を受診した。
結果はほぼ前日の総合病院と同じ。違ったのは「手術によるガンの切除はできない」という、おまけがついてきたことくらいだった。
片岡から検査結果を聞きながら、正行はひどく後悔した。
「滅多なことは、口にするものじゃない」というオヤジの口癖を思い出したからだ。
だが時間軸を辿ると、正行が悪態をついた時には、既に片岡はガンになっていた。したがって正行の悪態が原因ではない。
しかし正行が、「だが……」という思いから逃げ出せなかったのも、また事実だった。
流し専門で滅多に無線を取らない正行だったが、片岡が抗ガン剤治療で入院することになり、「自分の穴埋めは、全部吉田に任せる」と無線室に話したことから、圭子が勤める老人介護施設に正行も配車されることになった。
そんないきさつで圭子も正行のタクシーに乗ることになり、二人はお互いを知った。
「キレイなナースがいるんだよ、あそこのホームには。スラリと背が高く、いい身体をしている」と片岡はよく話していた。
「それが目当てで鼻の下を伸ばして、頻繁に行ってるのか?」
「ういさい! 指名でくるんだ、しかたないだろう」
「あはは、それならタクシーを辞めて、入居を考えた方がいいんじゃないのか」
「なんだと、まだまだ現役だ。バカにするな」
そう言って強がっていた片岡だったが、抗ガン剤治療のため入院が決まると会社は休職した。そんな片岡の事を、圭子はとても心配していた。「これは、ひょっとして?」と正行が疑う程だったが、それはなかったようだ。
抗ガン剤の治療後、体調が良くなると片岡は仕事に復帰し、治療が始まると数か月休むを繰り返していたことから、正行も頻繁に老人介護施設に行くようになっていた。
夜勤の多い正行は、圭子の夜勤と重なることも増えていた。
施設の入居者が夜間に救急搬送された時は、大事を取ってそのまま入院することが多い。そんな時病院まで付き添った圭子は、帰りは一人でタクシーを使うことになる。
偶然正行が配車されると、圭子は車中でかなりプライベートな話もしていた。正行が片岡と親しかったため、圭子は正行に対し警戒心がそれほどなかったのだ。
圭子が話すホームの人間関係や子供のことなどを、正行は黙って聞いていた。
「女性は話すだけで満足する。助言が欲しいのではなく、ただ話を最後まで聞いて欲しいだけだ」
このことを正行は、二人の姉と母親にイヤというほど叩き込まれていた。
無口な正行がなぜか女性客に人気があるのは、これを実践しているからにすぎなかった。
ー つづく ー
Facebook公開日 8/21 2020
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