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【 雨音色の夏 9 】


 

 警察から事情聴取じじょうちょうしゅを受けたと正行まさゆきが話すと、圭子けいこはとてもおどろいた。

「そんなこともされるんだ」

「オレも初めてのことばかりだったから、いろんなことを教えられたよ」

「そうよね、おやにさえ会えない人がたくさんいるんだもの。あなたのような経験をした人なんて、滅多めったにいないわ」 

「言われてみれば、そうかもしれないな」

片岡かたおかさんも、まさかって思ったでしょうね」

「あぁ、片岡さんも自分の人生がこんな終わり方になるなんて、思ってもいなかったろう。『ふぅ』と息をついたその時、隣にいた『死神』に取り込まれたんだろう」

「…………」

「生きたかったんだろうな…… きっと、まだまだ生きたかったはずだと思う。中途半端ちゅうとはんぱが何よりキライな人だったのに……」

 正行のほほを、熱いものが流れた。

「その日がいつくるのかなんて、誰にもわからないわ」

「そうだな…… 誰にもわからない。わかっているのは『誰にでもその日がやってくる』ってことだけだ」

「やがて…… なのかなぁ……」

「それもわからない。やがてなのか、明日なのか……」

「その日、私のそばにいて見守ってくれるのは誰かな……」

「誰かな…… か……」

 たとえ子ども一人でも家族と呼べる人間がいて、その時もそばで見守ってくれるだろうと思える圭子と、誰もそばにいない一人暮らしの正行との間には、微妙びみょう温度差おんどさがあった。

「片岡さんは幸せだったろう…… 奥さんに抱かれながら亡くなったんだ。オレはどうなんだ? オレのその日はいつくるんだ? その時、オレを誰が見守ってくれる?」そう考える正行の心に、不安のたねが落ちていく。

 その不安定な心の動きを圭子にさとられたくなかった正行は、ここで話を切った。

「ま、片岡さんもいろいろあったようだが、きっと幸せな最後だったと思うことにするよ」

「そうよね、私もそうするわ」

 そんな微妙な温度差を圭子も感じ取ったのだろう、話を終わらせて圭子は正行の背中に抱きつく。

「私…… もっと早く、あなたに出逢いたかった」

 そうささやく圭子のふくよかな乳房ちぶさが正行の背中に張り付き、硬くなった乳首ちくび感触かんしょくが正行の男を呼び起こした。

「ねぇ、もう一度……」

 正行の男を自分の手で確かめながら、耳元で圭子が囁く。

「離れられなくなるぞ」

「いいの、それでも……」

 二度目の正行は、かぎりなくやさしかった。

 うすいガラス細工ざいくを扱うように、慎重しんちょうに、丁寧ていねいに、まるで圭子のこころちる早さに合わせるように、ゆっくり時間をかけてあいした。

 真夏まなつ街路樹がいろじゅがれるのは、かわききったみどりうるお夕立ゆうだちだ。

 正行とのセックスは、乾ききった圭子の心が潤いを取り戻すのに十分過ぎる通り雨だった。

「どうして、なぜこんなに優しいの? じゃあ、さっきのはいったい」 

「こっちが本気モード、かなぁ~」

「ダメ、私…… 夢中むちゅうになってる」圭子の心がそう警告けいこくしていた。だが、一度火がついた女の身体が、途中で止まるはずがない。

「ねぇ…… 私、上になりたい」

 心とは裏腹うらはらに、圭子は自分の欲望よくぼうを口にしていた。

 正行の車は、夜明け前の国道四八号線を走っていた。

「送るよ、家は台原だいのはらだったよな」

「うん台原。遠くない?」

「大丈夫、オレは上谷刈かみやがりだから通り道だ」

「ありがとう」

 正行は北四番丁きたよばんちょうを左折した。

「こんな時間に帰って大丈夫なのか?」

「うん、私はよくあるの。病人は時間を選んでくれないからね」

「確かにそうだな、ところで明日は仕事か?」

「そう、日勤だから八時にはホームに行くわ。今日はちょっとしか寝られないな」

「悪かったな」

「どうして?」

「だから、睡眠時間を付き合わせてさ」

「そんなことない。私…… とってもよかった」

「そうか?」

「うん、きっとこれまでで一番充実いちばんじゅうじつした仕事ができると思うのよ、明日は。そう言う吉田さんは?」

「正行でいい、オレは休みなんだが夜だけ入るよ。今日のわせをしないとな」

「『正行さん』うふふ、ちょっとれるな。じゃ、私も圭子でいいわ。ちゃんと休んでね、居眠り運転しないように」

「ありがとう、そうするよ」

 アパートがすぐそばだという小さな公園で、正行は車を停める。

「今日はありがとう。また、連絡していい?」

「ああ、待ってる」

「うふふ、じゃまた」

 小さく笑い軽く唇を合わせてから、名残惜なごりおしそうに圭子は車を降りた。

 圭子の姿が見えなくなるまで見守ってから、正行は車を動かす。久しぶりに女を抱いた後の疲労感が、正行には心地ここちよかった。

「こんなことがきるとは、これだから人生じんせい面白おもしろい。どれ、少し体をきたなおすか」

 変化の少ない年齢だとあきらめていた正行だったが、これから起きるだろうことに思いをめぐらせると、思わずみが出た。


「あれからもう一年が過ぎるのか、今日は片岡さんの一周忌いっしゅうきだな」

 一年前のあの日を、正行は昨日のことのように思い出していた。圭子との関係は、不思議と誰にも気づかれずにまだ継続中けいぞくちゅうだった。

 アパートの二階にある正行の部屋には、西側の小さな窓からオレンジ色の夕陽が射し込んでいる。

「そうだ、身体を鍛え直そうと思ったんだ」正行は仕事に行くためその窓を閉めながら、唐突とうとつにこんなことを思いだした。

「ジムにでも通うか、確か二十四時間やっているところがあったはずだ」

 仕事中に見かけたスポーツジムを思い出し、独り言をつぶやきながら玄関のカギを掛けた。

 晴天せいてんの空から、不意ふいに雨が落ちてきた。雨のつぶは大きく、バタバタと共用廊下きょうようろうかのトタン屋根やねたたいた。

「天気雨のようだな…… 止むまで少し待つか」

 正行がそんなことを考えていると、身体に急激きゅうげきれを感じた。

「地震か?」

 強い揺れにそなえようとしたが、足に力が入らない。

「あれ? 何か変だぞ」

 考える間もなく目眩めまいが、そして間髪かんぱつれずに強烈きょうれつが正行をおそった。

「ヤバい、揺れているのはオレの方だ」

 正行は玄関ドアに背中を押し付け、何とか態勢たいせい維持いじした。

「一年前のあの日、片岡さんを飲み込んだ奴が、今ここにいる」 

 そう気づいた時、自分を支える力を失った正行の身体は、ズルズルとその場にくずち始めた。

「おい、なんの前触まえぶれもなく今か! こんなふうに突然とつぜん、その時がくるのか! ふざけやがって、ちくしょう! なんで…… なんで……」

 見えないなにかに向かって、いかりをぶつけるように正行の心がさけんだ。

 だが、終わりの時はすでに訪れていた。自分の力では、もはやどうすることもできない。

「圭子!」 

 思わず正行は大声で叫んでいた。

 しかし、わずかに唇が動いただけのその叫びは、誰の耳にも届くことはなかった。

 
    ー 完 ー


Facebook公開日 8/27 2020



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