【 雨音色の夏 7 】
救急隊員と三人がかりで片岡をトイレから運び出した時、片岡はもう息をしていなかった。
救急隊員の一人が片岡の人工呼吸を始める。
それを黙って見守る正行は、「もう無理だ……」と心の中で呟いた。
「すぐ病院に運びます」
救急隊員の言葉に促されるように、取り乱している奥さんを救急車に乗り込ませる。
残った正行は、マンションの戸締まりをしてから搬送先の総合病院に向かった。
受付で場所を聞き、迷路のような長い廊下を歩いて正行がその場所に着くと、廊下のベンチに奥さんが一人で座っていた。
「吉田さん……」
状況を確認する必要などなかった。放心状態で力なく座っている奥さんの姿が、言葉より雄弁にすべてを語っていた。
正行はその隣に腰を降ろしながら呟くように言った。
「ダメでしたか……」
「はい……」
程なくして診察室の扉が開き、「片岡さん、どうぞ」と看護師の声がした。
「はい」と返事をして奥さんは立ち上がった。
しかしその場に立ちすくみ、助けを求めるような視線を正行に向けた。
「片岡さん、どうぞ」
催促する看護師の声に怯えたのか、震える声で奥さんは言った。
「吉田さん、一緒にお願いできませんか?」
「いいですよ」
そう答えて、正行は奥さんと一緒に診察室に入った。
「こちらの方は?」
担当の医師が、訝しそうな目を正行に向けて言った。
「私はご主人の友人です。奥さんと三人でマンションに居たときに、こういうことになったもので……」
「そうでしたか」
「私が一緒にとお願いしました、ダメでしょうか?」
今にも泣き出しそうな震える声で、懇願するように奥さんが医師に言った。
「いいでしょう、では」と言い、医師は死因についての説明を始めた。
「これは日本語だな、言葉はわかる。何を言っているかもわかる。ただ、届かない。この違和感は一体なんだ。言葉の意味というか、話の内容がまったく伝わってこない……」
そんなことを考えながら、正行は目を閉じ医師の説明を聞いていた。
「どうされますか?」
急に医師の声が大きくなったので、正行は医師を見た。
医師は奥さんを真っ直ぐ見つめて言った。
「もう一度言いますね。今説明した通りで、特に死因について疑問点はありません。私としては『解剖』することもないと思っています。ただ、奥さんがどうしても納得できないのであれば考慮します。どうしますか?」
「私は……」と奥さんは言い、同意を求めるような視線を正行に向けた。
正行は黙って頷いた。
「このままでけっこうです、解剖などしないでください。主人の体を、死んでまでいじめないでください。お願いします」そう言いながら、奥さんはその場で泣き崩れた。
きっと緊張が極限に達し、心の箍が外れてしまったのだろう。
「わかりました。では、そのようにします。これからのことは、看護師が説明します」
医師はそう言い残し、部屋を出る。
「先ほどの椅子で、もう少しお待ちください」
そう看護師に促さた二人は、また廊下のベンチに腰を降ろした。
窓がまったくない廊下を蛍光灯が照らしている。
灰色の壁、灰色の天井、灰色のドア、灰色の床……
色彩の感覚が奪われた空間の中で、看護師の足音だけが時折大きく響いていた。
覚悟はあったものの、突然訪れた夫の死を受け入れる術など用意していなかった奥さんと、突然の友人の死を、まったく受け入れられない正行。
この取り残された二人の間を、沈黙の時間だけが静かに流れていた。
木の板に直接厚手のビニールを張り付けたようなベンチ椅子は、お世辞にも「座り心地がいい」とは言えない。
同じように肉の薄い自分の尻があげる悲鳴を聞きながら、正行は徐々に冷静を取り戻し始めた。
「この充満する消毒液の匂いに気づくまで、どのくらい時間が過ぎたのだろう……」
目を閉じて、正行は過ぎた時間を遡っていた。
人の気配に気づいて正行が目を開けると、クロスラインの白いナースサンダルが視界に入ってくる。
いつの間にか下を向いていた顔を上げると、目の前に先ほどの看護師が立っていた。
落ち着いた口調で、看護師は奥さんに言った。
「ご主人のところにご案内いたします」
看護師に促され、二人はまた迷路のような廊下を歩き、動きの遅いエレベーターで地下に降り、また迷路のような廊下を歩いて、やっと片岡の眠る部屋に着いた。
そこは普通の個室と同じような作りで、壁際の小さなテーブルには花が飾られている。
ベッドに眠る片岡の顔には、白い布がかけてあった。正行がその布をそっと持ち上げてみると、片岡はとても穏やかな顔で眠っているようだった。
真夏というのに厚手の布団が掛けてあり、正行はそれに少し違和感を感じた。
「暑くないですかね?」と、正行は看護師に話しかけたが、次の瞬間「そうか、もうなにも感じないんだ……」と思い直した。
とたんに目頭が熱くなり、涙がこぼれ落ちそうになった。
片岡の【死】を、正行が現実のこととして直視した瞬間だった。
数枚の書類を奥さんに手渡し、サインをするように話していた看護師が「え?」と聞き返してきた。
それには答えず、「ちょっと外に出てきます」そう奥さんに告げてから、正行は部屋の扉に向かって歩きだした。
「吉田さん一緒にいてください、一人にしないで」と言う奥さんに、
「大丈夫です、会社に連絡を入れたらすぐに戻ります」と答えてから、「この人をお願いします」と看護師に伝え、正行は部屋を出た。
外に出ると夏の日差しは雲に遮られていたが、まるで蒸し風呂にでも入ったような暑さだった。
茹だるような暑さの中で、正行は自分の車を探したがまったく見当がつかない。
「ここじゃダメだ」そう考えた正行は、駐車場を一望できる場所を探して、正面玄関に向かう階段を上り始めた。
数段を上り振り返ると、駐車場が一望できた。
ー つづく ー
Facebook公開日 8/25 2020
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