【 雨音色の夏 6 】
ラブホテルで圭子を抱いた正行は、片岡のことを思い出しながら、圭子に時系列で話すことにした。
「片岡さんから連絡がきたのは、土曜の昼過ぎだったんだ」
土曜日の昼過ぎ、正行に片岡から連絡が入った。
スマホから聞こえる片岡の声は、とても弱々しく細いものだった。スマホを耳に押し当てて、集中して聞いていてもほとんど聞き取れない。
それでもわずかに聞き取れる言葉を繋ぎ合わせ、どうやら「月曜日に退院するので迎えに来い」という事だと、正行は理解できた。
片岡の車は病院の駐車場に停めたままだったので、正行は武田に病院まで送ってもらい、片岡と車の両方を一気に片付けることにした。
そして運命の月曜日の朝を迎えたのだった。
朝の通勤に伴う渋滞をさけて、正行が病院に着いたのは十時少し前だった。
玄関を抜けると、車椅子に乗った片岡の姿が見えた。酸素を鼻に付け、奥さんと介助スタッフに付き添われ、焦点が合わないような目で正行を見ていた。
奥さんから車の鍵を受けとり、正行は玄関先に片岡のセダンを移動させた。
ふらつく足取りというより、まったく一人で歩けない様子の片岡は、介助スタッフに抱えられるようにしてやっと車に乗り込んだ。
病院から片岡のマンションまでは車で一時間程かかる。車中での片岡は虚ろな目のまま、うたた寝をしているようにも見えた。
時おり「水を飲みたい」と言うものの、少しだけ口に含むのがやっとの状態だった。
正行はそんな片岡の姿をミラーで見ながら「これが本当に退院できる人なのか?」と疑問に思っていた。
片岡の自宅はマンションの一階だった。車椅子の準備はなく、正行は片岡を抱えながら部屋に入った。
自分のベッドに腰を降ろし、少しだけ安心したような顔になった片岡が、呟くように正行に言った。
「世話になったな」
「あぁ、まったくだ」
正行は「ふぅ」と溜息混じりに片岡の隣に座った。
「ボトルのままでごめんなさい」
そう言いながら、ペットボトルの冷えたお茶を奥さんが正行に渡した。
「ありがとうございます」
礼を言って、ゴクゴクと正行はお茶を飲んだ。飲みながら意外に喉が渇いていたことに気づいた。
正行は何気なく部屋を見渡した。片岡が使っていたのだろう質素な机が、窓際に置いてあった。
ラックトップのパソコンが、その机の半分以上を占領している。
そんな正行の視線に気づいたのだろう、「なんだかね~ 株を始めるって言い出して、買いそろえたんですよ」と奥さんが笑いながら言った。
片岡が以前、そんなことを言っていたのを正行は思い出す。
「そういえば、そんなことを言ってましたね」
「生活費をこれでなんとかするつもりだったようなのよ。こんな体になっちゃって、もうこれも要らなくなるわね」
「生きることへの執着なのか……」
そんなことを考えながら、あらためて正行はパソコンを見た。
「わしはまだ諦めちゃいない」という声が聞こえた気がして、正行は片岡に視線を移した。
だが、片岡の虚ろな目の中に、光は残っていなかった。
片岡は昔、投資で多額の富を得たことがあると、正行は本人の口から聞いていた。
しかし、なぜその富をすべて失うことになったのか、なぜ故郷を捨てて仙台に流れてきたのか、そのことは一切話さなかった。
誰にでも、深入りされたくない事情はある。心にカサブタを持っていない人間など、この業界には少ない。
それを知っている正行は、その時なにも聞かなかった。いや、なにも聞けなかったのだった。
気を取り直すように、お茶を半分程飲んでから正行は言った。
「奥さん、早めに車椅子を手配した方がいいですね」
「そうですね、どこにお願いするといいのでしょう?」
会話に割り込む訳でもなく、呟くように片岡は言った。
「こんなになっちまったよ……」
「なんだって?」
聞き返す正行には答えず、虚ろな目のまま「トイレ」とだけ片岡は言った。
「立てるか」
「あぁ、大丈夫だ」
「よし」
正行は片岡の正面に立ち、抱きかかえながら数歩だけ歩かせ、便座の前で体を入れ換える。
奥さんにズボンとパンツを脱がされた片岡が、便座にゆっくりと腰を降ろした。
「あ、そうだ」
正行はマンションの玄関先に、片岡のセダンを停めたままだったことを思い出し、奥さんに片岡をこのまま見守るように伝えてから部屋を出た。
マンション裏の駐車場に車を移動しロックを掛けた時、片岡の部屋から悲鳴に近い奥さんの叫び声がした。
「吉田さん! 吉田さん!」
開け放された窓から聞こえるそれは、大声で正行を呼ぶものだった。
「どうしました?」
息を切らして部屋に戻った正行を待っていたかのように、「こっちです!」と、トイレから奥さんの声がした。
開け放されたトイレの扉から、正行が見たものは……
便座に座ったままで、ぐったりと奥さんの肩にもたれかかった片岡の姿だった。
「吉田さん主人が、主人が……」
振り返った奥さんの顔は小刻みに震え、最悪の状況を覚悟したかのような目で正行を見つめた。
状況が掴めず数秒間立ち尽くしていた正行だったが、ハッと我に返り「救急車だ!」とポケットからスマホを取り出したが、指が震えて数字が押せない。
やっとの思いで119番に連絡し、片岡の状況を伝えた。
「早く、お願いします、とにかく早く、救急車を!」
焦り、憤り、無力感、恐怖、願い、祈り、悲しみ、何をどう表現するのが適切なのか、まったく現実味のない感情が正行の心を支配した。
「大丈夫です、救急車はもうそちらに向かっています。落ち着いてください」と話す男性オペレーターの声が、正行の耳にむなしく響いていた。
五分程で救急車が到着した。
正行は二人の救急隊員と三人で、狭いトイレから引きずり出すように片岡を運びだし、廊下に寝かせた。
片岡の排泄物のためだろう、トイレと片岡の周りには異臭が漂っていた。
ー つづく ー
Facebook公開日 8/24 2020
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