【 雨音色の夏 2 】
子供の頃から高校までバスケットをしていた圭子は、女性にしては身長が高く、一七〇センチ少し超えている。
「子供を産んでから、太っちゃって……」と話していたが、スポーツを長年続けてきただけあって無駄な肉は少なく、スラリと均整のとれた魅力的な身体をしていると正行は思っていた。
その正行は、家族と別れてもう五年になる。
酒を飲まない正行は、中年男性に多い「ビール腹」とも無縁で、どちらかと言えば痩せていた。一人暮らしのため、外食やコンビニ弁当などに頼る食生活に原因があった。
圭子との年齢差は二十歳もあり、普通に二人を見れば父親とその娘という感じだ。
そんな正行の何を圭子は気に入ったのか、この二人の関係はもう一年近く続いている。
『三十されごろ』とはよく言ったもので、三十路の半分を過ぎた圭子の体を弄ぶように正行は愛した。
「この女とのセックスはなぜかとてもいい。体の相性がいいというのは、こういうことなのか」正行は圭子にこんな思いを抱いていた。
圭子も正行とのセックスには貪欲だった。
「淫らに乱れ、自由に大きな声を出す自分を、この男はありのままにすべて受け入れてくれる」圭子はそう思っていたし、正行の行為もそれを裏づけていた。
清楚な女を演じることもなく、素のままの女として男に身を任せることの心地よさ。そんな女の歓びを、圭子は正行とのセックスで初めて知った。
「片岡さんがタバコをねだったのは、肺がんの治療が三年目に入った頃だったかな……」
ひとしきり圭子と愛し合ったラブホテルのベッドで、タバコを捜しながらまた正行は思い出の中を探り始めた。
それは片岡が、何度目かの抗ガン剤治療を数日後に控えた夕方のことだった。
営業車の清掃が終わり、洗車場で休憩していた正行に片岡が言った。
「俺にも一本くれないか?」
「おいおい、何言ってんだよ。せっかく縁を切ったのに」
「なぁ一本だけくれないか。吸ってみたいんだ、頼むよ」
「ダメだよ、止めときな」そう言ってから、正行は吸っていたタバコの火を消した。
少し間があって、覚悟を決めたように片岡は言った。
「そうだな…… うん、止めとくよ」
「そうそう、その方がいいよ」
正行は、まさかそれが会社で見る片岡の最後の姿になるとは、思いもしなかった。
その日の夜に容態が急変した片岡は、翌日緊急入院となったのだ。
救急車も呼ばず、気丈にも一人で車を運転して病院に行き、そのままドクターストップになったことを、同僚で片岡とも仲がよかった友人の武田から正行は聞いた。
武田は入院の準備を持った片岡の奥さんを病院まで送り、車中で片岡の様子を聞いてきたのだった。
「あの時吸わせてやればよかった、どうせ吸やしなかったんだ。ガンに侵された肺が、タバコを受けつけるはずがないんだ」そんなことを考えながら、正行はタバコに火を着けた。
「寝タバコはダメよ」
ベッドで正行の乳首を指で弄びながら、圭子が言った。
「起きてるよ」そう言いながら「最後の晩餐をしたかったのか……」と、正行はまだ片岡のことを考えていた。
「片岡さんはたぶんわかっていた。自分に明日はもうないことを…… だから『これが最後』とオレにタバコをねだったんだ……」
タバコを吸いながら、そんなことを考えていると、
「ねぇ…… 止められないの?」と圭子が言った。
「タバコをか?」
「嫌よ私、あなたが肺がんで苦しむところなんて、見たくないわ」
「タバコを吸っても、吸わなくても、ガンになるときはなる」
「でも、ガンになる確率は減るでしょ」
「かもしれないが……」
「だったら止めて、お願い」
「人は必ず死ぬ。だが必ずガンになって死ぬ訳じゃない。この一年で同僚が二人、心筋梗塞で向こうにいった。歳もオレとほぼ同じだったし、二人ともその前日まで普通に仕事をしていたんだ」
「え、二人もなの?」
「あぁ、その一人はオレに『また明日な』と言って帰っていった。だがそいつには、オレと約束した『明日』はこなかった」
「…………」
「片岡さんもそうだったが、オレにだって明日はわからない。きっとオレたちのすぐ側にいるんだよ『死』って奴は、ナースのおまえならわかるだろう」
「そうかもしれない、そうかもしれないけど、でも……」
「でも…… なんだよ。おまえそんなに長く、オレとの関係を続けるつもりなのか?」
セフレほど、非日常体験はあるまい。セックスしたい時にだけ、お互いを呼びあう。この非日常の中でのセックスだからこそ、男と女は激しく燃え上がるのだ。
バーチャルでは決して体験できない非日常のリアリズム。日常からの乖離が大きければ大きいほど、得られる刺激も強く、そして大きくなる。
セフレの楽しみとは「日常との乖離の大きさ、つまり変化する刺激の量を楽しんでいる」とも言えるだろう。
だが、一時的に大きくなった乖離は、必ず元に戻ろうとする。これはどんなことでも同じで、ホメオスタシスの作用だと知った顔で話す者もいる。
小難しい理屈はわからないが、この事実に正行は気づいていて、圭子はまだ気づけなかった。
つまり、正行はこの関係がそれほど長く続かないことがわかっていた。なぜなら刺激にはやがて慣れる。それが当たり前になったとき、人は別の刺激を求め始めるからだ。
自分の中にあるこの感情は当然相手の中にもある。正行はそう考えていた。
一方圭子の方は、そんな刺激の先に愛の存在を願い、その足跡を探し続けていた。
体だけの関係と割り切っていたつもりでも、心の奥からこみ上げてくる欲求は、やはり心の繋がりだった。
「私は……」と言ったきり、圭子は言葉を飲み込んだ。正行の胸に、生暖かい滴が落ちてきた。
「悪かった、言い過ぎた」
正行は圭子の顔を覗き込み、涙を指で拭った。
ー つづく ー
Facebook公開日 8/20 2020
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