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【 雨音色の夏 8 】


「自分で車を停めたところがわからないくらい動揺どうようしていたか、まいったね」そんなことを考えながら正行まさゆきが駐車場を見渡していると、にわか雨が降りだした。

 上空じょうくうの雲から大きな雨粒あまつぶいきおいよく落ちてくる。

 夏の日差しに焼かれたアスファルトに落ちた雨粒は、瞬間しゅんかん蒸気じょうきとなって空に帰っていく。

 やがて、アスファルトの表面は気化熱きかねつによって熱がうばわれ、黒くれ始めた。

 雨に濡れるのを気にする様子もなく、正行はにわか雨が引き起こした情景じょうけいをじっと見つめる。焼けたアスファルトの臭いが鼻についた。

 雨が降ったのはわずか五分程だった。濡れたアスファルトはすぐに乾き始め、駐車場一帯はもやがかかったようになる。

 その時、にわかに吹いた強い西風が、そのもやをすべて連れていった。

「あぁ…… 片岡かたおかさんが逝ってしまった……」

 一瞬の出来事だった。なんの根拠こんきょもなかった。ただ、正行の心がつぶやいた言葉に、正行自身も納得できた。

 正行は駐車場に向かって、ゆっくりと階段を降り始める。

 なんのことはない、正行の車は階段のすぐそばで、主人の帰りをひっそりと待っていたのだった。

 

「暑かったものね、あの日。確か猛暑日もうしょびだったのよ」

 窓の外を見つめながら圭子けいこは言った。

「あぁ、暑くてとても長い一日だったよ」

「それから?」

「その前にシャワーだ」そう言うと、正行はバスルームに向かった。

 全裸ぜんらでベッドにごろりと寝ころび、薄暗うすぐらい天井を圭子は見るでもなくながめていた。

「困ったわ、こんな感じ初めて。このまま続けたら、離れられなくなりそう」つぶやくように、圭子は思いを言葉にしてみた。

意図的いとてきに呼び込んだこの男は、自分が想像そうぞうしていたよりもずっと危険なけものかもしれない」と、圭子の心が警笛けいてきを鳴らし始める。

 だが、その心とは裏腹うらはらに「もう一度、もう一回」と、圭子の女の性がうずき始めた。

 圭子は一度結婚し、そして別れた。

 一緒に暮らしているのは、その時にできた子どもだ。

 意気地いくじがない夫は仕事でミスをし、自分のストレスを処理しょりしきれず、ったいきおいの力を借りて圭子に手を出した。

 子どもが小学校に入ったばかりの時だった。

 初めての時、圭子は夫のつらさを考えて耐えた。しかし、味をしめた夫の暴力はすぐにエスカレートする。 

「暴力は、それを受けた者が自分より弱い者を探して、それに行う」

 この負の連鎖れんさが夫から自分にきたとき、圭子が最も恐れたのは、自分がその連鎖の中に飲み込まれることだった。

「もしそんなことにでもなれば、私は最愛の子どもに手を出してしまうかもしれない」

 そう考えた圭子は、三度目の暴力を受けた時、離婚を決意した。あやまり、泣きすがる夫を振り払うようにして家を出たのは七年前だ。

 その後も散々さんざんもめ、夫からのストーカー被害に合いながら、約二年を要してやっと離婚が成立した。

「男など、もう真っ平」と思っていた圭子だったが、正行に出会ってなぜか心が先に動いてしまった。

 れなくともわかる程れ始めている自分を確かめるように、圭子は指で触れてみる。

「私…… こんなになっている」

 かすかに自分の指が触れただけで、ビクッと身体は敏感びんかんに反応した。

 男が身体につけた女の火は、自分の指では消せないことも、圭子は自身の経験から知っていた。ベッドから起き上がりノロノロとバスルームに向う。

「背中、流してあげる」 

「あぁ、ありがとう」

「うん」

くるしいと激痛げきつうにのたうち回る訳でもなく、やり残したことをやむ言葉を残す訳でもなく、とてもおだやかな死に顔だった。つい住処すみかに戻り、最愛の奥さんに抱かれるように息を引きとったその顔は、とても幸せそうだった」

 圭子に背中を流してもらいながら、正行は続きを話し始めた。

「そうだったの」

はいがんの告知こくちを受けてからだって、治療をしながら仕事していたんだ。事情を知らない人は、片岡さんが肺がんだとは気づかなかったと思う。負けず嫌いだったからさ」

「そうよね、私は片岡さんから聞いて知っていたけど、でもなぜそんな無茶むちゃなことしていたの?」

「金だろう。オレたちの業界ぎょうかいは、何かしらを背負せおって稼いでいる奴が多いんだ。片岡さんは地元に居たくないか、居られなくなったかのどちらかで、こっちに流れてきた」

「そうなの? 知らなかったわ。じゃあ出身は?」

「群馬って言ってた。『海がないところで産まれたから、海のそばで死ぬんだ』って、冗談みたいによく言ってたけど、本当になってしまったよ」 

「そんなこと言ってたんだ」

「あぁ、オレはよく片岡さんとメシ食ったり、遊びに行ったりしていたからさ。弟みたいに思ってくれたんだと思う、可愛がってもらっていたんだ。だから気さくにいろいろ話してくれたんだよ」

「知ってたわ。片岡さん楽しそうにあなたのこと『弟みたいなやつなんだ』って話していたのよ、車の中でも」

「状態が急に悪くなって入院したのが五月始めだったんだ。その時はすぐに退院できたんだけど、その時奥さんは医者から「余命よめいは長くても三か月」と言われたらしい。亡くなったのは、ほぼその三か月目だった」

「当たるのよね、今は。それでご葬儀は会館で?」

「あぁ、うちのお客さんのね。片岡さんはだいぶ前から会員になっていたようなんだ。だから葬儀屋がすべてやってくれた」

「それでも、何かと大変だったでしょう」

「警察の事情聴取じじょうちょうしゅとかもあったからな。枕経まくらぎょうをしてもらった時には、もう夜になっていたよ」

「警察?」予期していなかった正行の言葉に、つい圭子は大きな声を出してしまった。

不審ふしんなことはなかったんだけど、亡くなった場所が病院じゃなかったからさ。交番こうばん制服せいふくが病院にきて事情聴取を受けた。それからマンションに戻って簡単かんたん現場検証げんばけんしょう。一応決まりだからって、警察も申し訳なさそうにしてたよ」


    ー つづく ー


Facebook公開日 8/26 2020




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