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魂の仕返しについての短い会話

  昨日、子どもの用事から帰宅すると、洗濯ものはとりこまれたまま乱雑に積まれ、タイマーをセットした第二陣の洗濯機のなかみ(シーツ類)はそのまま、エアコンもつけず、自分が座るソファのまよこの掃き出しの窓だけを開けて、そこに扇風機を置いて自分に当てて何かのテレビを見ている夫がいた。おふろ、トイレ、玄関、どこを掃除するわけでもなく、ただただひたすらにひがなソファに座っている。そういう夫がいる休日の午後は、きまって、週明けにこそ役所へ行って、あの緑の枠の薄い紙をもらってきておこうと決意するが、昨日はその120回目であった(たぶん)。
 その姿を確認した私は、すぐに洗濯物を洗濯機から取り出し、それからかけ切れていないところに掃除機をかけて、買い物用のマイバスケットと、洗濯ものと、スーパーのリサイクルボックスに入れるペットボトルと新聞と、洗濯乾燥する予定の夏用の薄掛けとバッグを抱えて、またすぐに家を出た。
 買い物、コインランドリーを済ませ帰宅しても、たくさんの荷物を玄関まで取りに来てくれたのは娘だけで、夫の気配はテレビの漏れてくるその音からして、いまだソファの上にあることは明らかだった。
 暑さと、微動だにしない夫の坊主頭のその在り方、日曜の午後の、家族をもつ人間の坊主頭の在り方としての在り方、それはあまりにも家族構成員(てか私)に対する配慮の足りない在り方であって、わたしを否が応でも苛立たせた。おまけに、そんな私を待ち受けているのはシーツの四隅である。四隅はなぜ、わたしたちをいつだって迷わせるのですか。結んでからなぜ、あの四隅と左右の長辺中央に位置する一か所ずつの紐は、位置がずれていますか。どこでなにがありましたか。いいえなにもありません、あなたですよ、あなた、あなたの、シーツ装着能力が低いだけです、という具合にシーツの装着における自分の無能さも加わって、気が狂いそうなほどイライラしてくる。あーーーー!!ビールのみてえ!!!
と、もう気持ちはビールのことしか考えられなくなってくる。

 やっと家事が終わり、さっきスーパーで購入した枝豆を洗う。ハサミで、茎からさやを外してから水で洗い、塩をまぶす。沸騰させたお湯にそれらをざざっと投入してから、ビールを開けた。泣きたいほどうまい、おいしい、さいこう、愛。枝豆を待ちながら、新聞を読み始めた。

 新聞には、「刑務所か戦場か、迫った警察」という見出しで、ロシアで、大麻所持で捕まった男性が、警察から「戦場へ行くなら見逃す」と迫られ母親を失望させたくないからと戦場を選んだという記事が掲載されていた。男性は、訓練を受けていない人間は前線に行かされることはないという話を信じていたが、実際は戦車の上に乗って敵地へ乗り込む捨て駒だった。ウクライナ軍のドローンがやってきて、仲間は次々に吹き飛ばされた。一人は木の枝にぶつかって落下した。同じ戦車の上の人間が無残に死んでゆく中、最後のひとりとなったとき、彼は戦車から飛び降りて逃げた。民家に残された蜜蜂で飢えをしのぎ汚水を飲んで捕虜となるまでの日を生き延びた、と書いてあった。侵略を続けた先にいったいなにがあるのか、と彼は嘆いてお母さんに会いたいと言って泣いた、と。
 そこまで読んだころ、枝豆はゆで上がり、私は新聞を置いて、枝豆を大きな盆に広げた布巾の上にざっと広げて粗熱が取れるのを待ち、塩を振って皿に盛った。いくつものビール、枝豆、読みかけの新聞、暗い気持ち、それなのに、つまんで口に入れた枝豆も、ビールもほんとうにおいしいので、今まで何度も訪れているそれと同じように、頭がバグってくる。顔を上げれば、夫の坊主頭が相変わらずテレビを見つめ、だからわかってないんだよなーなどひとりごとを言っている。そこには石丸伸二がいたような気もするがよく覚えていない。
 
 SNSで見かける無残な映像が頭に浮かび、どれだけの悲しみや恨みや憎しみや呪いや叫びが、これまであっただろうかと想像する。こどものころから、こういうことが、世界中でずーっとなくならないなんてどういうことなのかとよく思っていた。かみさまっていないんだろうな、と思っていた。小学二年生くらいのころは、8月6日の夜に、リアルな想像がとまらなくなり、悲しみとか恐怖みたいなもので体がかたまり、いつまでも眠れず、朝を迎えてしまったこともあった。

 普段はのほほんと暮らしていてわすれている。だけど時々、真剣に思うことがある。私は自然と、夫の坊主頭に向かって、しゃべり始めた。
「ねえあのさ、これは東日本大震災のときにもかなり強く思ったんだけど、理不尽に何かを奪われる、ということが人には起こるじゃん、災害と同列で語ることじゃないかもしれないけど、戦争みたいな人為的なものによっても、テロとかもうそうだけど、その場合はもう、故意に奪われて侵されて凌辱や暴力にさらされて、狂気のなかでもののように命奪われて、どんな願いも叫びも祈りも無慈悲に切り捨てられてゆくということが、実際に、今日まで無数の人間に対して、行われてきているでしょ。そのぜんぶのひとりひとりと、そのかんけいするひとたちすべてに、想像を絶する魂レベルの痛み苦しみ悲しみ悔しさ祈り叫びが絶叫があったはずじゃん。私みたいにぼーっと生きてたって、一瞬の勝手な想像をすれば、その苦しみの深さとかって、地底、海底を突き抜けてどうしたって宇宙の何か始まり的な、つまりなんかわかんないけど神様みたいなところにまでぶっささるくらいのものだと思うのよ。それってさ、それのこんなに膨大な蓄積があってもさ、災害は起こるし、イスラエルは空爆やめないし、プーチンは死なないし、なんなんだよって思わない?魂が、いつか仕返しすることってないのか、って思わない?あまりにもひどすぎて、これだけ泣いて苦しんで亡くして絶望してそれでも生きてっていう魂が、渦になって、いつか、全世界に仕返しして、空が落ちるとか、そういうことっていつか起こるっておもわない?」
「思うよ」。黙って聞いていた夫は、ひとことはっきりとそう答え、「思う。空が落ちるかはわからないけどね」と続けた。それから「トランプは、助かったんだね」と言った。

 結婚をしていなければ、この人でよかった、と思えたのかな、とよくわからないことを少し思って、残りのビールを飲みほして食卓の準備をした。緑の薄紙のことはもう忘れていたけれど、さっきまた思い出した。121回目である。


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