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教養がキラキラと光るとき(エスキス#4)

ときどき、こんな言葉を耳にする。
現代人の悩みの「低俗さ」を馬鹿にして。

「それはもうシェイクスピアやドストエフスキーが解決している」

恐ろしい言葉。ぼくはそいつの顔面を全力で殴りたい。

そして言う。
「あなたの痛みは解決されていますか?」
彼は首を縦に振らないだろう。ズキズキする頬に手を当てるだけで精一杯なはずだ。

そしてわたしたちの日常生活とは、このように突然殴られることにほかならない。誰に? もちろん、社会に。

全ての悩み、全ての痛みは、絶対的に個別的なものなのだ。痛みに貴賎はないのだから。

教養はしばしば、悩みというものに区別を設けようとする。高尚な悩みと、低俗な悩み、といったふうに。

ハムレットの悩み「生きるか死ぬか、それが問題だ」は高尚なもの。

現代人の悩み「かれぴにフラれた〜。ぴえん🥺」は低俗なもの。

それは見た目の問題だ。表現の問題だ。言葉の問題だ。

二つの全く異なる言葉は、同じものを運んでいる。経験の世界から、言葉の世界へ移行するときに、心が通過するフィルターが異なるだけだ。

教養主義者は、自らが自慢するそのフィルターがカビだらけであることに気づいていない。彼らの発する言葉がかび臭いのはそのためだ。

文学の普遍性?

わたしはそれを否定しない。しかしその普遍性とは、心理学の教科書に載せられるような知識としての普遍性ではない。

人間が苦しみ、悩み、喜び、踊り、歌うという、その普遍性こそが、文学の普遍性なのだ。

教養を身につけるとは、穴を埋めることではない。わたしたちの周りには、「ドストエフスキー」「シェイクスピア」...といった穴が用意されているのではない。その窪みに、読んだ本を詰めるていくことが、大事なのではない。ましてやそこに詰められ本の量が、大事なのではない。

隠してやるのだ。全ての教養に、土を被せてやるのだ。その瞬間、それらの本は光り輝くだろう。因果はわからない。しかし教養は、それを捨て去ろうとするとき、最もよく発光することを、ぼくは経験から知っている。

かつてトルーマンカポーティは、デビュー長編『遠い声、遠い部屋』のインタビューを受けたとき、対談相手から「これはプルーストやフロベールから影響を受けていますね」と言われた。彼はこの忌まわしい言葉に、次のように答えた。

「そんな偉い人の本をぼくも読んでみたいな」

このとき、この発言を光り輝かせているものが何であるか、わたしたちは知っている。

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