〈古き良き日本〉傷、物欲、両親の馴れ初め(憂の篩series)
私は大阪で生まれ5歳まですごしました。その後別の場所に引っ越して、さらにまた18歳からも関西に何年か住んでたのもあっていまだにたまに関西弁がでます。その方が感情が出る時もあります。
今は東海地方ですが、職場の上司がコテコテの関西弁で困ってます。すぐ移るんです、私。
ちなみに実家に帰省した時も方言が最低でも3か月は抜けなくて困ります。気が緩んだふとした時に出ちゃうから。
私の子供たちをはじめ、うちの家族はなぜか地元の方言を使いません。あるはずなんですが標準語に近い感じです。もっとローカルな言葉を使いこなしたいのに残念です。でもま、標準語は便利ですけどね
======
生まれた大阪での暮らし・・・
壁の薄い文化住宅
なぜか父の趣味で文鳥を2羽飼ってた
壁に大きな穴、隣の人が掘ったらしい
向かいのお寿司屋さんにたまにお使いで器の桶を返しに行くとアメちゃんをくれたのがうれしくてよく行ってた
母はとても心配性(それは私も受け継いでいるが)
馴染みのお寿司屋さんがくれたアメちゃんでも必ず毒が入ってないかチェックしてた
なんだったらペロッと一回なめてた気がする。今思えばやりすぎでしょ!と思ってしまうが、これも愛情のひとつかなと今なら分かります。
愛情の一つがまだありました。年子の兄と私は文化住宅の住所を暗記しなさいと言われてました。
去年10年振りの帰省をした時に母に聞きました。なんで住所を暗記させたのか。すると、その当時ちっちゃい兄がよく行方不明になって警察のお世話になってたらしいんです。だからだと、なるほど。
現在の兄はその住所を覚えてなくて、私がそらで言ってみせると家族が驚いてました。
映画「ファインディングニモ」にあった「シドニーワラビー通り・・・Pシャーマン!」みたいな(笑)どうしてくれるの、この無駄な記憶!
昔からですが他にも、私が大人になってから自分の保育園の頃にあった出来事の話をすると母親はいつも「またそんなこと言って、本当?」と疑ったり、正解だったりしました(さすがに母の子宮の中にいる頃の記憶まではありませんが)
======
そのちっちゃい頃、兄も私も物心ついてない時。今もある私の目の下の傷。これは兄がつけたものらしく小学生の頃に親に聞きましたが、傷つけた側の当の本人は記憶にないもんだからケロッといい気なもんです。(今ではある意味必然かなと思うところもありますが)でも他にもいくつか傷をつけられていて「何してくれてんねん!」って感じ。
アニキが中学になるまでは二人で取っ組み合いのけんかをしょっちゅうしてました。たいがいというか全部理不尽なアイツが吹っ掛けて来たんですけどねーパワハラ、暴力ですよね。よく耐えてたな、私。
======
愛情のひとつの記憶まだありました
私は物欲のない子でした
兄は普通にミニカーをアホほど買ってもらってましたが
私は誕生日にも何も欲しがらなかったんです
逆に両親が心配して
普通の日にプレゼントを買ってきてくれました
当時はやってたピンクレディのお化粧セットboxです
ちっちゃい手鏡や、くしや口紅っぽいのとか入ってた気がします
プレゼントしてもらえると、それはそれで結構嬉しかったりするもので、近くの公園に毎日のように遊びに行く時には必ず持って行きましたねー
======
小6の時に通信簿で10取れたら好きなもの買ってやる!と酔っぱらったオヤジ(父)に言われて、やってやりましたよ私。初めて10を取りました。しかも2教科。国語と家庭科で!
数日後に約束通りオヤジと買い物に行きました。本当は、特にお目当てのものがあったわけじゃないんですが、単にゲームにのっかって勝ったからまぁ買ってもらうかーぐらいでした。おもちゃ売り場に行って初めてながめて、なんか織物の機械のようなおもちゃを買ってもらいましたね。簡単なマフラーとか織れるような。
おもちゃを抱えてうきうきで歩いていると、ふと喫茶店に見たこともないくらい大きなチョコレートパフェが飾ってありました。
私はチョコがお菓子の中では一番好きなんです。普段はチロルチョコのコーヒーヌガーをこよなく愛してましたが(笑)たまになけなしのお小遣いをためて200円のアーモンドビッグバー(懐かしい!)を買うのが喜びでした。あ、物欲?食欲?ありましたねー
で、私がチョコパフェを戦後の子供みたいに固まって眺めてたらオトンが
「食べていくか」だって!
めっちゃうれしかったですね~多分初めての喫茶店ですね、記憶の中では。
ペロッと食べちゃいましたね。この時トッピングにあった、黒く丸い(一瞬、キッチンにたまにいるGなのか?とビビった)甘く漬けたものが”あんず”だと初めて知りましたねー
チョコといえば思い出すのが
大阪の親戚のおじさんファミリーがたまの帰省の時に買ってきてくれてた
”世界地図のチョコレート”が大好きでした(笑)
デパ地下に売ってそうな立派なので
A4くらいかな、大きな世界地図の板チョコでした
世界地図もわくわくだし
チョコも大好きだし
私にはど真ん中のお土産でしたね、今思えば(笑)
======
今はそれなりに物欲あるかなぁ
とりあえず子供たちに好きなだけやりたいことをさせてあげるだけの経済力ほしいなぁ(笑)
これは今の日本で働く多くの方たちが思ってるでしょうね
自分自身では自由に動けるといいな
独身の頃のように海外にいろいろまた行ってみたいなぁ
他は何がしたいんだろ
考え中です
======
私が生まれた大阪時代のあとは・・・
5歳の時に、今の実家がある大自然の地に大移動で引っ越しました
今は兄ファミリーも隣に家を建てて長年住んでます
その地はもともと両親の故郷でもあります・・・
======
これまた奇跡的なご縁で、うちの両親は子供のころは隣の地域で生まれ育っていました。でも6歳差ということもあり、会ったことは無かったようです。
それぞれ別々のタイミングで、出稼ぎのような形で中学を出たら大阪に二人とも出て行きました。それはその当時みんながやっていた昭和初期の流れです。
父はガテン系の建築関係、母は医療関係(准看護婦さん)
ある時、父がケガ?病気かな?をして入院しました。そこに若かりし美しい母が働いてました。これお世辞じゃなく、20代の頃の母の写真を見たことがありますが結構キレイで驚きました。赤いロングフレアスカートをはいて、腰もきゅっと細くて美人さん(笑)
ちなみに父の20代の写真も見たことがありますが、これまたイケメンwめっちゃ細くてロン毛の時もあって、オダギリジョーさん風?もうちょっと醤油顔かな?
両親を褒めるのはこれくらいにしときます、頭がクラクラしてきました(笑)
入院したときはそんなでもなかったようですが、それからしばらく経ってから故郷の地元の観光地の有名な滝で再会したそうです(1度だけ聞いたことがあるな確か)そこから交際が始まったようです。あーまた目まいがしてきたからこの辺にしときますー。
======
大阪から故郷への民族大移動!
父と兄は、(父の)兄が運転する車に乗って
母と私は、(母の)弟が運転する車に乗って
2台の車がつらなり
夜の長旅は始まった・・・
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?