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山根学#2 地域づくりの必要性を問う(雑談)


 2回目の投稿でいきなり主張ではなく雑談をさせていただきます。
 雑談ですので、様々勉強して脳内に残ってる内容から言葉を書いていきます。参考文献等がはっきりしない文章であることをご承知おきください。


一番の悩み

 大きくまとめられた「地域づくり」を学んでいくにあたり、難しいと考えていることがあります。
 それは、地域づくりは本当に必要とされているのか ということです。

今の日本社会は

 今の日本社会は、まごうことなき少子高齢社会です。
 地方からは若者が流出し、地方では過疎化が深刻で、十数年前には「限界集落」なんて言葉も生まれ、「地方消滅」なんて本も話題になりました。

 少子化の流れはもはや止めることはできません。しいてできることは、その傾斜を緩やかにしたり少子高齢化化社会でもなんとかやっていく方法を作ったりすることです。
 どうしてこんなことになったのか、という話は難しいと思うのでこれから勉強するとして、ここまでの社会の流れを私の視点で言葉にしてみようかと思います。

“近代化”そして”合理化”

 日本という国は、文化、歴史、自然条件等、非常に多様で豊かな国です。
本州のみを観察してみても歴史や文化が微妙に異なっていたりします。日本という国を考えるにあたり、古代、中世の歴史も重要なはずですがここでは割愛いたします。

 今の政治体制への方角が決まったのは明治維新と言っていいと思います。
欧米諸国に追いつき、対等になる為に”近代化”を進めていきました。そこで、”近代化”とはつまりどういう意味なのでしょう。

 私は、今日までの日本の発展はこの”近代化”の意味によって決定づけられているように思うのです。明治から戦後まで、日本の近代化の意味は"合理化""欧米化"にとりつかれてはいなかったでしょうか。

 ここにもし問題点があったとすれば、この”合理化””欧米化”というのが果たして日本の条件に合っていたのだろうか、という点です。前述したとおり、日本の国は多様で豊かで、そして複雑な国だと思います。”合理化”と””をつけてお話しているのは、この言葉が純粋な合理化の意味と異なっていたように感じるからです。

 今日まで日本は、欧米諸国と同じく資本主義国家として成長し、欧米諸国と同じ資本主義国家としての基準を用いて渡り合おうとしてきました。私は決して資本主義を否定して社会主義を唱えたいわけではないことには触れておきます。
 しかし、成長を焦るあまり日本特有のモノ、ヒト、ヤマ。。。などの関係性やその機能を無視してきたのではないでしょうか。それは純粋な意味での合理化とは異なる、もっと冷たく盲目な”合理化” のように思います。
 このことが今日まで積み上げられ、様々な問題が生じているように思います。

「なんでこんな不便なところで生きようとするの」

 地方へ住む人に対して、このように思う都会暮らしの日本人は増えていることかと思います。近所にコンビニもなければ電車もなんのお店も遊ぶところも、仕事すらもないような場所で、生きていこうとすることなんて”合理”的ではない、という考え方です。
 このような考え方に基づけば、地域づくりなんて予算の無駄か自己実現のエゴにしか見えないでしょうね。

 では、いなかっぺがまとまって引っ越してみたらどうでしょう。
 そういったこと各地で公的支援をつけて行った時期が日本にもありました。しかし、引っ越すことを望まなかった人々もいたため、更に過疎を深刻にしたこともありました。

なぜ地方が存在するのか

 なぜ地方が存在するのか、それは地方に住んでる方が豊かであるという価値観があるからではないでしょうか。
 そもそも、本当に地方で生活することが不便で非合理ならば田舎や地方という概念や場所は存在しないはずです。現代社会の価値観で生きていくなら不便、というだけです。 
 そしてそれぞれの場所に個性があり、多様な土地があるので様々な場所に人が暮らしてきたわけです。

地方を維持しないといけない理由としては
・農業振興
・農地保全
・景観保全
・水源涵養
・領土管理 
・文化保存 etc…
色々挙げられます。
 私がこの中で最も重要であると考えるのは文化保存関連だと思います。田舎には文化はない???そんなわけないです。日本のほとんどの村々には人々が暮らしてきた長い歴史があり、非常に文化的だと私は思いますよ。

 いわゆる「民族知」や「民族芸能」というのが失われることが、日本全体にとって最も危険ではないでしょうか。生物多様性の保全が重要である、というのと同じようなことです。それらが今、必要ないものとしてひっそりと続々と消えていってるのが現代だと思います。そしてそれらがなくなった土地でも、地域おこしとやらをやらなければいけないという、酷な状況です。

地域づくりは必要とされているのか

 最初の悩みに戻ります。
 地域づくりは、私は今のところ必要なものだという立場です。
しかし、これと同じ立場に立つ人が果たして現代にどれ程いるのでしょうか。これは、個々人の価値観がどうなっているのかということなので、その個々人の経験に依存するものでしょう。最近友人と話していても感じる事なのですが例えば、都市に住む人が多い現代で、「ふるさと」という感覚を皆が同じように共有できるでしょうか。これを読んでくださっている皆様には「いつの日か帰らん」と思う土地はありますか?
 地域づくり、特に農山村の地域づくりは、住民にとっても、地域外の多くの人々にとって本当に望まれているのでしょうか。

最後に

 最後に、飛躍した内容ではありますが考えていることがあります。
 今の日本人は、先進国のはずなのに他国の人々と比べても非常に追い詰められて、絶望する人々のようです。DNAレベルでプログラムされている可能性も否定できませんが、「十人十色」の性格とは言えないほどに絶望する人々が多い。とても多い。

 私はこれについても、現代の社会が冷たい”合理化”の価値観に支配されてしまった結果だと思っています。多様な価値観ががあればつながったものも、単純化された一つの価値観に見放されればそれまで、という感覚が常にあります。「生きてるだけでいいんだよ」と口では言っても、それで許される仕組みが存在していません。皮肉ですが、非常に”合理的”ですね。


最後まで読んでいただきありがとうございました。
また、気が向いたら書かせていただきます。

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