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リテイク論の前に 5



 書きたいことはたくさんあるけど、書いてちゃんと伝えられる気がしない。でも書いてみる。

 『リテイク』の予告編が完成した。5/31の今日だ。ちゃんとした予告編になっていると思うし、『リテイク』の雰囲気を少しでも伝えられるように工夫したから、かなりの力作だ。作品ではないんだけど。
 これはまぁ、〈虫酸ランナーズ〉というグループラインで、麗ちゃん、アレイナちゃん、奈子ちゃんに観てもらって感想をもらえたら、また修正したいと思ってるから、みんなにこれを観てもらうまでは特に書くことはない。この『リテイク論の前に』がぼくが予告編を作り始めるところから始まったから、ある種義務として書いてるわけで、これに関しては特に何も面白いことはない。予告編は良いし、『リテイク』という映画自体は面白いので、それは観てもらいたいんだけど。

 で、なぜかぼくが恋人と別れたこともこれに書いてしまってるのだけど、ある種これも特定の人に向けて書いてるわけで、だから別にいい。読む人と言ったら中野さん(『リテイク』の監督で友達)かおひつじさん(ツイッターで知り合った)か麗ちゃん(友達)か伴くん(友達)かあとはチョーキューメイ博士かぼくの把握してない人だと思うから。そんなにいない。でも、ほんとは読んでなくても、ぼくの中から名前が出てくることは素直に嬉しいものだ。
 実家のある滋賀県に帰ってきて約2週間が経った。徐々に東京の雰囲気がぼくの中で薄れつつある。

5/18に、恋人と一緒に住んでいた家を出て、母親の車でぼくは滋賀県まで帰ってきた。しほと付き合ったのが2016年5/18だから、ちょうど8年目のその日に物理的にも「別れた」ことになる。特に悲しいというのはなかった。彼女から離れれば離れるほど、むしろ愛が深まるのは経験から知っていたし、だからぼくは滋賀に帰ってからずっと彼女のことを憎みそうになっていた。愛情と憎しみは裏表の関係にあるし、たぶんこうなるだろうなと思っていたから特に驚きはしなかったけど、でも、離れれば離れるほど近くに感じる愛や憎しみって、完全にぼくの問題だから書いてもしょうがないんだけど、でも、なぜ書いたかというと、日本の映画ってこういうのばっかだったよなぁと思ったからだ。だいたいの愛憎劇の映画は、例えば女性を殺した男性に警察官が「愛してるのに、〈にも関わらず〉殺したのか」と問い、それに対して男性が「愛してるよ。〈だからこそ〉殺したんだ」と答える、そういう映画ばっかりだったよなと思ったからなのだ。
 しみったれている。
 一言で言えばそうなる。でも実際ぼくはそうなったから、こういう人はたくさんいるのかもしれない。そして、それが個人の問題なのか、そういう映画の影響でぼくがこうなっているのか、はたまたそういった映画たちのおかげでこうやって引いた視点で自分の愛憎を眺められているのかはわからない。
 この「〈にも関わらず〉殺す」というリアリズムと、「〈だからこそ〉殺す」というロマンチシズム(とぼくは思っている)は、いやはやよくある展開だ。
 でも、ぼくはそこまで極端でもない。殺したいのか、愛したいのか、憎みたいのかわからない、というのが本当のところだ。
 これはロマンの問題だから、やっぱり映画と相性がいい。特に一昔前の日本映画的な感覚は完全にこういった男性のロマンチシズムに支配されていると思う。というか、ぼくがそういうものばかり見ていただけかもしれない。それがいいとは全く思わないから、開き直ってぼくが書いていると思われるのも癪だから、本当にぼくは変わりたい、心底そう思ってることは書いておきたい。

 話は変わるけど、東京から滋賀に行く2日前、5/16に麗ちゃんと電話をして、おすすめの小説を教えてもらった。『悪女について』というタイトルの本だ。
 そのときの電話では、お互いが観た映画について感想を言い合って、大いに盛り上がった。盛り上がりすぎて5時間半も電話してて自分で驚いた。麗ちゃんとだけ(グループではなく)電話するというのはたぶんこの時が最初で(今のところ)最後だったから、話が噛み合うとお互いじゃんじゃん話したいことが出てくるタイプなんだなぁと思った。
 教えてもらった小説を早速読んでみた。これが非常に面白い。
 舞台は東京。高度経済成長期に不動産業で着々と地位を上げる女性を主人公にした物語。ただ、冒頭からその女性は死んでいて、その死因が自殺か他殺かがわからない不可解なものだった。また、その女性には良からぬ噂もあって週刊誌がスキャンダル仕立てに書きまくって、周囲の人間も色々と困惑してしまう。そんな中、ある小説家がその周りの人物にその女性のことをインタビューして、それをできるだけそのまま文章にして小説にするという、いわゆる羅生門スタイルで物語が展開するというもの。
 その女性がどんな人物だったか、美人だったかそうでもなかったか、いろんなことが人それぞれ違うことを言うけれど、ある一貫性もほんのり見えてくる面白さがある。それは構成の妙だ。
 ただ、ぼくがとても良いなと思ったのは、その女性の生き方だった。ぼくは、変かもしれないけど、その女性 - 富小路公子という -   と自分は似てると思った。
 彼女、富小路公子は、もともと鈴木君子という名前だった。彼女がなぜその名前に改名したのかははっきりしないが、とにかく、自分で生きていくことに邁進する意志は感じた。また、よく彼女は「綺麗なものしか見たくないの」と言った。宝石のような綺麗なものしか見たくないと。
 あんまり上手く説明できないからざっくり言うと、富小路公子は性善説論者だった(とぼくは思う)。彼女は綺麗なものしか見たくなくて、正しく清らかな人生を送りたいと願っていた。その振る舞いにはどこか、「きっと私の言うことは伝わる」という信念があった。そしてその信念は、相手の心に美しい心があるということが前提だったように思う。美しい心を持っていない人は人ではないと切り捨てるのではなく、そもそも美しい心が人の中にはあると確信しているような振る舞いだった。そのような振る舞いは性善説以外の何でもない(もちろんいろんな読み方ができるけど、ぼくはこれが今のところフィクションとしての一貫性を醸し出す富小路公子の特性だと考える)。 
 そして、だからこそ彼女は不動産業で這い上がることができた。ここが面白い。不動産という法的なものと、美しい心という性善説的なものとは相容れないはずなのに、これが彼女の中で密接に結びついているのだ。そして、ぼくもその感覚に全く同感なのである。
 彼女はこう言っている。
 「数学と法律と、よく似てるのよ。どちらも、人間の思うようになるわ。8という字を数限りなく書き並べて大きな桁数に仕上げても、それに0を掛けると0になってしまうの。面白いでしょう?法律も同じみたいよ。いろいろな事実をどんなに積み重ねても、一人の人間の意志で0にしてしまうことも出来るし、本当に面白いわ」※1。
 法律を勉強すればまず最初に、人間の意志というものが前提にあってはじめて法的行為となる、ということを学ぶ。これは当たり前のことで、当人にその意志がないのに法的行為が成立してしまったら、その当人にとって不利益だからだ。ただ、現実にはそれが問題になったとき、判断するのは裁判所で、だから物理的な証拠が必要となり、ここで「当人の意志」とは別のところで話が進むことがありがちである。この事実はしかし、やはり「当人の意志」というものを前提に成り立つ議論だ。
 例えば、ぼくが結婚式で「結婚します」と言う。そのときぼくの意志は「ある」。でも、これが舞台の上で、「結婚します」と言えば、それはそこにはぼくの意志は「ない」ことになるだろう。法的行為とは、こういったぼくの言葉と状況証拠からわかる意志とが密接に結びついて構成されるものだ。
 婚姻は契約だ。それを個人の意志で無かったことにできる。つまり、どれだけ相手の愛が高まっても、それに0をかければイコール0なのだ。
 富小路公子の中で、このように人間の意志=美しい心と法律は結び付く。また、お金も。
 不動産業は高度経済成長期であれば、土地を転がせば転がすだけ儲かる、それは「8という数字を数限りなく並べ」る行為だろう。でもそれが、ある一つの美しい心によって0にすることも可能であるということを、富小路公子はわかっている。つまりバブル(泡)であるということをわかっていたということだ。
 彼女は「愛ですわ」うんぬんとのらりくらり重たい話をかわしていく。その振る舞いそれ自体が、0の美しい心をかける行為である、とぼくは考える。
 そして、ぼくもそういったことを考えていた。
 恋人と別れて、ぼくがいちばん驚いたのは、2人の暮らしがこんなに簡単に解体されるのか、ということだった。それは本当に、恋人の意志が0になったから、いくらぼくの意志が高まっていてもその暮らしは「なかったことになる」という経験だった。
 ぼくは思う。「暮らしというのは、詰まるところ、相手の気持ちが0にならない限り続く永遠の掛け算だ」と。
 0には何をかけても0だ。ほら、確かに、数学と法律が似ているのは、「0か1か」と「意志があるかないか」が同じ意味だからだ。
 だから彼女は性善説論者なのにどんどん資本主義に染まれたし、それは彼女の中でいつ0になってもおかしくないゲームでしかなかったのだと思う。そもそも彼女の心こそが彼女にとっては大事なのであって、その「美しい心」が守られる限り何をしてもいいのだ。
 対して、ぼくはそれに関しては否定的で、資本主義に対して良いイメージを持てていないし、経済大国日本のイメージも全くないから、もうちょっと現実を見た方がいいのではないかと今まで生きてきた。でも、今回、恋人と別れて、『悪女について』を読んで、富小路公子と自分が似ていると思い、現実を見れていなかったのはぼくだったんではないかと思った。ぼくは、性善説論者〈だからこそ〉世の中を見なければいけないと考えていた。しかし、本当にリアリズムを追求するならば、性善説論者〈にも関わらず〉世の中を見るという態度こそ必要だったんではないか。世の中にではなく、自分の問題として差し戻す。その姿勢が足りなかったんではないか。
 富小路公子は、どうだったんだろうか。この小説は、羅生門スタイルだから、本当のところは藪の中だ。だから、彼女がどんな風に世の中を見てきたかはわからない。でも、彼女は、自分の問題としてさまざまな物事を差し戻したことだろう。
 「みんなには美しい心がある。さて、自分はどうだろう」。


※1p.181『悪女について』有吉佐和子【新潮社】出版:昭和53年9月25日

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