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「努力」は必ずしもすべてが”良いもの”と言えるのかについて


■私が大学生のモラトリアム期に思ったこと

本日は少し趣向を変えまして、野球とは関係なく徒然なるままに文章を書いてみようと思います。
いきなりですが、読者の皆さんは「努力」をすることは”無条件”に良いことと考えておりますでしょうか?
私は実はすこーし斜めから考えることがあります。

  1. 「努力」をするときって、もっと高い評価(点数)を取りたい、資格を取りたいというときにすることが多くないですか?

  2. その「努力」は一体誰のためにやっていますか?自分のため?家族のため?社会のため?

  3. その「努力」の末に手に入れることができるのは社会的(他人の)評価だったりしますでしょうか?

  4. さて、、、、”何か”を失った感じはしませんか?

上記で伝えたいことは箇条書きしましたので、以下からは駄文にて。
ぬるりと行きましょう。

■自分がやりたいと思わない”努力”はしんどい

いきなりですが、「努力」とは?と語ったとても良い考え方の動画を。

(注)名言集なのでバックミュージックが荘厳な感じなのが気に入りませんが。。(こういうの、本人は名言と思って言ってないのが世の常ですw)

みやぞんの「愉しいかどうか?」という観点は非常に重要な観点かと思います。
過去に以下の私の記事でも少しだけ触れたことがあるように、「やらされ」&「自発性」がない”努力”というのは苦行に変わります。

ここでは「愉しいか」/「愉しくないか」という観点での話になっていますが、私はもう少し「努力」というものを考えてみたいと思います。

■人が”努力”をするとき、意外と”評価”を得るために行うことが多い

例えばテスト勉強や受験勉強、資格勉強の”努力”をするときは「100点」、「合格」、「○○の資格」を手に入れるために行うと思いますが、これらは基本的に社会での評価や、地位を手に入れるために行われることが多いと思います。

こういった「努力」というのは自分のために行っている【良いこと】と捉えることができますが、少しうがって見ると社会の価値観に適応するための行動とも取ることができませんでしょうか?

冒頭で書きました通り、

「大学生」というモラトリアムのど真ん中に居り、、

当時”社会”に対して中指を立てまくっていた私蝉コーチは、、、
(↑教育的に良くない!!orz)

以下のような考えに至っていました。

「努力」とは、

一種の社会性や知識と言われる一般社会に溶け込む価値を手に入れる(社会に迎合する)ことになるので、”努力”を繰り返すことは自身の”らしさ”を書き換えるor失う行為になり得る

と。

いや~青い、、、、じつに青臭いですね~!!!www
(でもアラフォーの今でも、結構好きです。この考えw)

ですので、指導者の立場を与えてもらった今でも、
無条件に「努力しろ」というのが少し怖かったりします。

上記の考えに則ると、その発言は、
「”自分らしさ”なんて捨てて社会が求める”モノ”になれ」
と言っているような気がして。。。

以上、本日は少し短めのコラムのような感じでここまでとします。

長文にお付き合いいただきありがとうございました。
少しずつ発信してまいりますので、どうぞ気楽にお付き合いください。ノシ




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