鈴木大拙の霊性について

 鈴木大拙著の「仏教の大意」を読んで感銘を受けたので、私なりの解釈をエッセイにする。後半では用法についても書いた。「思う」などの言い回しは潔くないので避けている。

【霊性を前提とする即非の論理(霊性論理)】

1.「霊性とは同一意識だ。これは感性と知性に反する。しかし、それと同時に反していない」

2.「AはAゆえに、Aでない」

3.「AはAでないゆえに、Aなり」

【言葉の限界(別筋)】

 本来の正しい霊性とは、自然、情理(知性と感性)、霊性を線として交わる原点である。この3つは同じ対象を別の言い方にしているだけだ。しかし、分かりやすいので表現しておく。3線の原点に近いことこそが中庸である。我思う故に我ありでもある。この霊性論理は、完全ではない。霊性線の話を、知性に置き換えているからだ。数式は正しいときに正しく、間違いのときに間違える。だから、数学が正しい。霊性も言葉に押し込んでいるときに間違いがある。大概の話は、原点に近くそして遠い。坂を上からみて下り坂とするか、下からみて上り坂とするかでしかない。正誤の境目などない。論外として坂でない範囲もある。とにかくは、完全ではない。結論として、線(筋)の違う話は、間違える。

【簡素化】

「Aは(自然)、Aゆえに(情理)、Aでない(霊性)」「Aは(自然)、Aでないゆえに(情理)、Aなり(霊性)」
「Aは(自然)、Aゆえに(霊性)、Aでない(情理)」
「Aは(自然)、Aでないゆえに(霊性)、Aなり(女性)」
 上記と考えるとわかりやすい。それ以外の解釈も正解に収束する限りは正しいが、まずは初歩として明記しておく。

【外しの正解】

 3つの線は「外し」てあげないといけない。霊性は霊性でないときに霊性である。上記にも述べたが原点こそが中庸だ。中庸には理知も交わる。霊性は、(純粋な)霊性であるときに、(中庸な)霊性ではない。純粋な霊性に落ちる必要はある。しかし、最後は中庸な霊性に浮上をしないといけない。倒錯の必要性とも被る。霊性は理知や自然のときに中庸である。不正解との周知も必要だ。不正解を不正解と識るなら不正解ではない(霊性)。結論として言語化が倒錯となることもある。

【用法】

上記にも述べたが霊性とは他の線を交えて中庸だ。それを学ぶために教育や学問はある。つまりは下記二つの霊的言語化と霊的生物化は、学事と同義だ。

【霊的言語化】

「霊性とは同一意識だ(自然)。これは感性と知性に反する(理知)。しかし、感性と理性に反していない(霊性)」
 このエッセイ全体が一つの霊的言語化である。

【霊的生物化】

 幸福は幸福ゆえに、幸福でない。しかし、自然だけでの幸福とは、幸福である。自然のままは中庸でないのだ。

【結論】


自然と理知と霊性が、円融をして、中庸はある。

#創作大賞2024 #エッセイ部門


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