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近世の地震と大和

はじめに

 本論においては、前回の「中世の地震と大和」に引き続き、大和国における地震災害の諸相について、近世を中心に考察していく。具体的には文禄五年(一五九六)閏七月の「慶長伏見地震」から江戸末期の安政元年(一八五四)一一月の「安政南海地震」までを取り上げる。何といっても近世は、中世に比べて史料が多いというメリットがあり、地震被害の詳細やその後の地震への対応について判明する事実が多い。なお、奈良県での今後の地震予測や地震研究の流れなどについては、本論の前論である「中世の地震と大和」において言及したため省略する。

 

一、地震と大和

Ⅰ 文禄五年(一五九六)閏七月一三日の「慶長伏見地震」
 この日の午前零時頃に地震が発生し、畿内及びその近隣に被害をもたらした。震央は大阪府伊丹市近辺の有馬高槻構造線。地震の規模を示すマグニチュードは七・五と推定されている。死者は千五百名余りであった。洛中七条の本願寺寺内に住んでいた山科言経(一五四三〜一六一一)の記録によると(『言経卿記』)、古老の仁の説を引き、「近代これほど揺れた地震はなかった」としている。言経の私宅は歪み、庭にて一夜を過ごしたという。本願寺の御影堂も倒れ、数名が下敷きになって死亡したとする。本願寺寺内の家々は大半が崩れ、死者は寺内だけで三〇〇名を数えていた。同じ洛中でも被害状況には差があり、上京の被害は少なかったが、下京は被害が大きく、特に四条辺りは甚大な被害があったとする。その死者は二八〇人ほどであったという。
 一方、禁中での被害は小さかったが、伏見城の惨状は甚だしく、天守は崩壊、伏見城下の徳川家康ら大名衆の屋敷も大きな被害があり、侍や雑人など死者が多数出た。同日中には、言経の元にも近隣の情報が入ってきており、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)で損害が殊更に大きかったことが記録されている(山崎は震央により近い)。泉州堺でも被害が大きいとの情報が入る一方で、近江より関東は無事との情報が、また大坂城は無事な一方、城下の町屋は甚大な被害があったなど様々な情報が早々に入って来ていた。地震に伴う様々な雑説もあり、盗人の増加など治安の悪化に怯える言経周辺の人々の様子も記録されている。これについてはのちに詳しく述べる。
 次にこの地震における大和国の様子について見てみよう。『皇年代記』という興福寺所蔵の文書には以下のようにこの地震について記録する。
 「慶長元年の亥の年の閏七月十二日、大地震があった。興福寺の仏閣は顛倒した。伏見城の天守や諸殿も顛倒した。京の方広寺大仏殿は崩れ、仏像も地震で破壊された。」
 また、唐招提寺の記録では、
 「慶長元年の七月十二日(閏脱カ)の午前四時頃、大地震によって、僧堂が崩落し、講堂の東廊が倒れた。塔一つが重々しく零落し、(鑑真の遺影を祀る)御影堂に至っては斜めに傾き、既に顛倒に及んだので、大衆らは挙って嘆いた。しかし自らを励まして勤労し、修繕へとこぎつけた。(以下略)   慶長二年丁酉、四月十四日より五月一日に至って修理し終えた
奉行年預衆 行賢 栄祐 春梅 空泉 俊良 」(『開山堂再建棟札写』)  
 これらの史料によると、大和においては、興福寺の「仏閣」のほか、唐招提寺でも最も重要な建物である御影堂にも大きな損害を与えたことがわかる。しかし一五日程の短期間の作事で修復を終えているため、柱の倒壊などはあったが壊滅的な被害ではなかったといえる。

Ⅱ 宝永四年(一七〇七)一〇月四日の「宝永地震」
 宝永地震は、五畿七道に大きな被害をもたらした巨大地震となった。海溝型地震である東海地震と東南海地震が同時発生したといわれる。震央は、和歌山県潮岬の南の海底で、マグニチュードは八・六と推定されている。死者は五千名余りに及び、流失した家は約一万八千軒、潰れた家屋は約五万九千軒、半壊・破損した建物は約四万三千軒、蔵の被害は約二千、船の流破は三千九百余り、潰れた田畠は一四万石と一・六万町歩とされる。わが国最大級の地震となった。大和国各地の状況を見てみると、橿原市の今井町や天理市の丹波市で震度が六~七、橿原市の曽我や桜井市の戒重・柳本、天理市の石上、奈良市中や柳生、大和郡山で震度六、高取や田原本では震度五~六であったとされる。この頃になると、参考となる史料が増え、これまで奈良近辺の大寺社の様子しか判然としなかったのが、奈良市中以外の各地域における震度やその様子が明らかとなっている。それでは種々の記録から、この地震の状況を見ていこう。
 まずは、高市郡曽我村(橿原市曽我町)の庄屋が認めた『堀内長玄覚書』である。
 「(宝永)四年の十月四日の昼二時頃から四時前まで大地震があって揺れ、大地が大波が打ち寄せるように動き、さても恐ろしいことであった。あちこちの家々が酷く崩れ、大地より泥が噴き出し、その時は生きている心地もなく、念仏を唱えるしかなかった。このため我らは家を出て、外へ仮屋を立て、十日ほどこの仮屋で夜を明かした。我らの家族も、十月にはとや市兵衛という人の裏成りの畑地を借りて仮屋を立て、母様と兄兄弟、下女らと居住し、親父様は家の留守居として下男と共に、昼夜とも村の火廻り等の世話をした。恐ろしく筆舌に尽くし難いことであった。高田御坊専立寺も倒れた。」
 曽我村では各所で家屋が倒壊したこと、地震による液状化現象があったことが記されている。また、今なお江戸時代の町並を残している同じ高市郡の今井町では、ややのちの記録であるが、この年の地震で貸家の屋根瓦が崩れたという記録が残っている。
 「今井町北町の貸家で屋根瓦が亥の年の地震(宝永地震)で、拭きあしが悪くなって、丸瓦の分を正徳二年(一五〇七)三月に吹き直した。」(『諸紳録』橿原市上品寺町上田家文書)
 重要文化財が多く残る今井町であるが、地震や災害と無縁であったわけではなく、被害が出るたび、復興して現在の姿を留めているわけである。興福寺などの奈良の大寺社もそうであるが、旧態に復するための富裕さを有していることが重要となるのである。
 一方、中世では被害の状況がわからなかった吉野地方でも、被災記事が確認される。下北山村の倉谷家が所蔵する文書である。
 「宝永四年十月四日の昼過ぎ、大地震があり、田畑の石が欠け山々が多く崩れた。」(『倉谷家年代記』)
 短い記事であるが、山村らしく、地震によって山崩れが発生したことが明記されており、貴重である。また、宇陀地方曽爾村字長野の庄屋であった井上次兵衛の記録にも、この地震についての記事がある。
 「宝永四年の十月四日、大地震があり、大きな岩や山木、民家への被害が多く出て、大地は割れて裂けていた。(地震は)午後三時ごろから一時間ほどであった。それから年を越えて余震が続き揺り止まなかった。また、駿河国では富士山で穴が空き、近辺では毎日火事が起こっていて砂が降った。」 
 大和平野部とも異なる風土がある宇陀地方でも、今度の地震によって大きな被害が出た事がわかる。大野寺の磨崖仏に表されるように巨石が多く見られるのもこの地域の特徴であるが、それにも被害があったようだ。また、宇陀地方には、富士講が存在していたこともあり、富士山噴火の情報もいち早く伝わっている。

Ⅲ 安永七年(一七七八)一〇月の地震
 この地震は同月七日に発生し、紀伊・大和国に被害をもたらした。震央は和歌山県北山村で、マグニチュードは六と推定されている。吉野地方で山や山道が崩れた。
 「安永七年戌年の十月七日に大地震があった・山等は崩れ、道はひび割れが入った。七日から十三日まで七日の間揺れがあった。」(『倉谷家年代記』)

Ⅳ 嘉永七(一八五四)六月の「伊賀上野地震」
 富士山の噴火があった宝永地震以来、大和国では約一四七年の間、大きな被害をもたらした大地震はなかった。しかし江戸時代も末期に差し掛かったこの年の一四日、突如大きな地震が発生し、伊賀・伊勢・大和国及びその近国に甚大な被害をもたらすこととなった。震央は伊賀市池尻付近で、マグニチュードは七。内陸型の活断層地震であった。
 震央が大和に近く、地震の規模も大きかったため、その影響は甚大であった。高市郡山之坊村(橿原市山之坊町)の庄屋吉川利助の記録には、その時の詳しい地震の様子が記されている。
 「六月十四日の午前二時頃大地震があった。その後も度々揺れたため、皆々は外で夜を明かした。十五日の朝六時頃にまたまた大地震があった。皆は広い所に小屋を立て、昼夜ともそこで生活をした。その後も毎日毎夜少しずつ地震があって、度々揺れていた。しかしながらこの辺りは格別に酷い状況ではなかったけれども、大和国のなかでも、南都あたりは被害が大きく、建物も弱り、残った建物も皆々歪んでいた。中でも古市(奈良市古市町)は格別に被害があった所で、谷池の堤が地震によって揺り切れ、水が一挙に溢れ出たため、地震と溢れ出た水とで大半の家々が潰れてしまった。中でもお役所を初め、その外残らず平潰れとなったため、人足の役所もなくなってしまい、本当に難渋なこととなった。古市では、夜間のことであったので死者は六十五人いた。なお伊賀国でも殊の外大地震があって、上野城の家来衆やその外城下町の方でも大荒れであったというが詳細は省く。今度の地震は、山城・大和・伊賀・伊勢・河内・和泉・摂津の六ヶ国程の間で起こったことだ。且つ閏七月、八月に入るまで日々揺れ続けた。」
 以上のようにあり、大和平野南部の高市郡近郊では、建物への被害は限定的で、人的被害についても言及がなく、特別大きな被害はなかったことがわかる。しかし、余震が二か月近く続いたこともあり、かつ地震の再発を恐れて、田地に仮屋を立てて生活していた。一方で、奈良近郊や古市では大きな被害があったこと、また隣国の様子の状況なども伝わっていた。その奈良市中の様子について、『奈良井上町年代記抄』では以下のように記されている。
 「嘉永七年寅年の六月十三日の午後一二時頃と二時頃に中大ほどの地震があって、同一四日の夜十二時ごろ大きな地震があって、灯火が消え、屋根の瓦が飛び上がり、家も倒れ、蔵の壁も崩れた。その音は雷のようで、人々の泣き声で驚き、病人は即死し、或いは押しつぶされて死んだ人は数多くいて、その数は奈良町中で一八〇人いた。久保町や清水辺りでは四十人余りの死者が出た。また、元興寺の塔の一重目の瓦は残らず落ち、南都の番所は壊れた。土蔵や壁は落ち、春日社の石灯籠は残らず倒れてしまった。」
 同じ大和国内でも高市郡近郊とは異なり、奈良市中では多くの人的被害があり、建物にも大きな被害をもたらした地震であったことがわかる。菅田村(天理市二階堂)の西川左源太の記録には、とくに大きな被害があった古市についての様子が描かれている。
 「大地震について大荒れとなった場所について左に記す。尤も当国(大和国)だけのことである。
 第一番に古市表
地震があって大池の堤が決壊し、これにより地震と水とが同時に押し寄せることとなり、大難となった。家数が一四〇~一五〇軒のところであるが、漸う四、五軒のみが残り、その他は残らず崩れてしまった。これにより、死人は一一〇人ばかり、けが人は一〇〇人余り、この横死のなかには、甚だあわれな横死もあったが、一つ一つは筆紙に尽くし難いことだ」
 古市の村は、村落より高い位置に溜池があったため、その堤が決壊し、左源太が記すような状況となった。死傷者の数や家屋の被害の状況も克明に記されており、歴史地震の分野ではあるが、江戸も末期ということもあり、これまでの地震に比べ被害状況がよくわかる。

Ⅴ 安政元(一八五四)一一月の「安政南海地震」
 この地震は、畿内・東海・東山・北陸・南海・山陰・山陽の広範囲に被害をもたらした海溝型巨大地震であり、世に「安政の南海地震」と呼ばれている。震央は室戸岬南東の海底で、マグニチュードは八・四と推定されている。先述の如く、大和では、同年六月に伊賀上野地震が起こっており、わずか五ヶ月後には更に規模の大きな地震が発生したことになる。世間では、台風や連続した大地震などの自然災害に加え、外国船来訪による政治不安も加わったことで、幕府は年の瀬の一二月に年号を「嘉永」から「安政」へと改めた。古来より続く年号の改元のなかで、災害が続いた場合に行われた「災害改元」であった。
 ではここで、伊賀上野地震に続き、吉川利助の記録を引用し、大和平野南部の状況を見てみる。
 「十一月四日の朝の七時頃大地震があって、大和国の高田辺りは厳しく、潰れた家が数多くあり、どこもかしこも損害を出していた。この辺り(橿原市山之坊町)は、格別大きな被害はでなかった。しかしながら五日の午前五時頃またまた大地震があって、誰もが驚いていた。同日の午後六時頃には、山も崩れるかと思われるほどの音があり、どんなことになってしまうのかと慌て騒ぎ立てていた。また広い場所に小屋を立て、居住することになった。その後も昼夜共に度々少々ずつ揺れがあった。」
 利助はこれに続き大坂や大和の近国、更には四国九州での地震の様子についても記録している。
 「同夜大坂や紀州の熊野浦で大津波があった。大坂では、今回の地震でほとんどの船が出船したところ、小さな船が大きな船の下敷きとなるなどして出船した者は残らず死んでしまった。その人数はおよそ八千人余りであった。さて、紀州の熊野、尾鷲、伊勢の長嶋では、町屋の大半が海へ引き込まれてしまった。伊勢沖でも同様の有様であった。なお、今度の大地震で東海道筋でも五つの宿場町が潰れてしまい、当分は江戸からの出入りの人たちはかなり難渋していた。さて、四国・中国・九州に及ぶまで格別の大地震のために潰れてしまった。大和国では格別の事態とはならなかったが、その後の十二月末から正月に至るまで昼夜問わず五、六度は少々ずつ地震があった。この年は悉く屋根瓦が落ちて、建物も倒れてしまった。前に述べたがアメリカ船が複数来て、両度の大地震もあって、その地ではその後も日夜揺れた。大坂へはロシア船が来て、また大風や度々の雷が発生するなど、誠に七難の年となり、皆々年の暮れを待つこととなった。このような悪い年であったため、嘉永七年寅の年十二月に年号を安政へと改元となった。」
 前論の「中世の地震と大和」の取り上げた地震の様子と比べても、諸国の災害の様子が、大和の平野部南部の一村落にまで入ってきていることがわかる。大和では、伊賀上野地震を含めて、橿原市近郊では深刻な被害は出なかったようであるが、伊賀上野地震では古市や奈良表で、またこの安政南海地震では、高田に被害が多く出た様子が描かれている。一方、奈良市中では、この地震においては、そこまで深刻な被害は出なかったようで、「井上町年代記抄」でも奈良の市中の様子よりも、大坂の様子について詳しく記されている。
 「卯の年の十一月十八日頃奈良でまた大地震があったところに、夕方に西の方から大筒鉄砲のような音が聞こえたので、何事であろうか不審に思っていたところ、その夜の十時頃に大坂で津波が起こったとの風聞があった。後日に確認したところでは、木津川口より水が噴き出し、大舟が何艘となく道頓堀筋まで上ってきた。そのようなところ、前日に大地震があったため、市中の大家や女中・老人は、用心のためであろうか川舟に避難して川口まで出たところ、右の津波にて大船が逆走して、小さな川舟を下敷きにした。この犠牲となった乗船者は大家の富裕者であったため、衣服を着飾り、懐には金子も多く所持していたので、後日にはこれを取りに行く者がいた。しかしそのことが知れ渡って入牢するはめとなった。どんな地震であってもその後には必ず津波が来ることは太古からの言い伝えの通りである。また熊野灘等でも海辺はみな津波が起こったということである。蝦夷の松前でも地震と津波があって、ニシンや昆布が出荷できなくなり、高値になってしまった。」  
 奈良市中にまで大坂での被害の状況が伝わってきたが、それは主に津浪による被害であった。この記録では、地震の犠牲者からの追剝行為があったこと、蝦夷地の松前への被害によって鰊や昆布の価格が高騰してしまったことが記されていて、直接的な被害だけでなく、二次被害の状況も記されていて貴重である。また、地震に後には津波が来るものだということが、海のない大和国の住人にも、過去の経験則から把握されていたことも興味深い点であろう。

二、近世における地震認識

Ⅰ 仮名草子「かなめいし」に見る地震認識
 江戸時代初期の寛文二年(一六六二)五月「近江・若狭地震」があった。震央は、琵琶湖西岸、マグニチュードは七・五程度と推定されている。この地震について記す「かなめいし」という文献がある。厳密には歴史学でよく用いられる日記などの歴史史料ではなく、「読み物」に分類される文学作品であるが、この時の地震について詳細に記録されていて、後世の地震誌の先駆けといえるものである。同年八月から末頃に成立したとされ、いわゆる仮名草子のひとつである。作者は浅井了意(?~一六九一)という人物で、浄土真宗大谷派の僧侶であった。仮名草子の第一人者であり、代表作『東海道名所記』をはじめ、著作は七〇部六百巻に及んでいる。当時の知識人であったこの人物は、どのようなメカニズムで地震が起こると記しているのか。その思想の一端を見てみよう。
 「(前略)仏経の心によれば、地震には四種ありと説かれている。これも一応の説である。この世界の下は風輪があって、その中に水が盛られ、水論がある。その水輪の上の凝り固まった所が、金輪際と呼ばれ、更にその上に土輪があって、人間の住処となっている。(一番下の)風輪がわずかにでも動けば、水輪へと響き、更に金輪際より土輪へと伝わって、大地は動くといわれている。
 易道の心は、陰気が上に覆い、陽気が下に伏して、登ろうとする時に陰気に押さへられて、揺れ動く時に当たって地震となる。揺れる所と揺れない所があるのは、水脈の筋による。人の病で言えば、関格(大小便の不通と嘔吐の症状)の証と名付けるべきと言える。皆これ陽分の為であって、隙のある所より起る。(陰気が)上にある時に、音がある場合、雷と名づけ、音がない場合、電という。下にあって動く時に地震というなど、様々といへども、これを止める手立てはない」(下巻の一「地震前例付地震子細の事」)
 了意は、仏典と易道の説を引用し、地震の要因について説明する。まず、仏典からの説で、この世界の地面の一番下には「風輪」と呼ばれる領域があり、その中の一部と上には「水輪」が存在している。水輪の固まった所が「金輪際」であり、その更に上には「土輪」があり、この土輪が人の住処であるという。地震は、一番下にある風輪が少しでも動けば、水輪・金輪際より人の住む土輪に伝わり、大地は動くのだと解釈している。
 一方、儒学に由来する易道による説も引用する。中々意味が取り難い箇所もあるが、まず、「陰気」と「陽気」というものがあらゆる物質の根本に存在していて、その陽気が上昇しようとする際に、陰気に押さえられて地震が発生するのだという。揺れる所、揺れない所があるのは、地下水脈の有無によると解釈する。また、「龍王」が怒るときにも地震は起こるとも解釈されている。どちらにせよ、了意によれば「さまさまといへども、これをとどむる手だてはなし」としていて、地震そのものを止めることはできないとの認識であった。
 了意は、また古代・中世には、政治にも影響を及ぼしてきた神託についても、地震と絡めて以下のように著述する。
 「(前略)氏子どもよ、只用心せよ。用心とは、この事だ。軒口は屋根の石が落ちてくるものだ。小さな家ならば築張せよ。地が裂けそうならば、戸板を敷け。戸障子を差しこんでいては、傾いたときは開かないぞ。夜も昼も開けっ放しにせよ。幼い子どもは、怯えて癇癪を起すものだ。薬を飲ませて、少し慰めよ。家が崩れそうならば、早く逃げ出せ。瓦吹きの家や土蔵の戸前などは、気を付けて緩めるな。火の用心をよくせよ。このような時は、うろたえて火事になるやすいものだ。この教えに従えば、誤りは起こらないぞ。よく守ってと思うのであるが、数多の氏子であるので、見落す事もあるだろう。見落とす事も多いだろうと、御託宣しめやかに、諸人は心をすまし、耳を傾けて承っていた所に、又夥しく、どうどうと揺れ出したので、神子殿は血の気が失せて、社の上にかけ登り、驚きなさった。確かである御託宣かなと思い、氏子たちは手を合わせて拝み奉っていた。又一方で、このような事は、御託宣というまでもない。どんな者でも心得ている事であり、さも珍しくない御託宣だなと呟き、笑う人もいた(後略)」(下巻の二「諸社の神託の事」)
 了意は、ある神社の氏子に託された「神託」について、氏子の反応も含めて取り上げている。神託の内容とは、小家を築張せよ、家が崩れるようなら早く逃げよ、火の用心をせよなど、しめやかにこれに聞き入り氏子もいれば、既に心得ていることばかりだと、笑う者もいたとこと記している。了意が地震の対するこの種の「神託」について、冷徹に見据えていることがわかる。そして本書の締め括りとして以下のように記す。
 「この度の地震は、五穀豊かに民が栄えているという証である。(中略)四海が平和に治まっているこの世の中、これほどの事はあったが、これは今後の諭しとして認識すべき事である。」
 地震は、幕府による統治が行き届いた平穏の世にあって、「今後の諭し」であるとしている。そして、地震を起こす龍王の頭と尾は「かなめいし(要石)」で押さえつけられているので、人の世が滅びることはないとする。つまり、地震による被害はあったものの、これは今後も栄え続けるという証であり、今後の吉兆と捉えているのである。戦国の威風が残る江戸初期の時点で、現世を肯定し、人の世の優位性を示すという、現世主義の風潮が強くなっていることがわかる。そもそも了意は、三道(神仏儒)の思想に通じた人物であったが、本職は浄土真宗の僧侶であった。真宗とは、本来、不断煩悩得涅槃、悪人正機を唱える浄土思想の一派であり、本質的には現世より来世を重んじる。その了意の現世主義的思考は、当時の真宗などの仏教界にも既に深く浸透していたといえよう。

 Ⅱ 永井青崖(士訓)の『泰西三才正蒙』に見る地震認識 
 永井青崖(?〜一八五四)は、江戸後期に活躍した筑前福岡藩士の蘭学者で、勝海舟の蘭学の師でもあった。この時期になると。洋学の流入もあり、江戸初期とは異なる地震理解が為されていく。青崖は、地震について以下のように記す。
 「地震
地震もまた、地底の火脈による。この火脈が海底に通じていると問題が起こる。ただし地底に火脈があり、硫黄質と鉄とが熱気によって溶解して混ざり合えば、硫黄と鉄の二つは不安定な物質となり、俄かに火の勢いが強くなって奮発しようとする。しかし大地が覆い被さって、直接発火することはない。しかし近辺の火脈に反応して、遂に震動が起こるのだ。このために地震は、大体が火山の多い所に多い。しかし火脈が連続していれば、遠近の差はなく地震は起こる。また地震の起こる所によって軽重の差がある。西洋歴一七四五年の延享二年、南米ペルーのリマで、紀元一七五五年の宝暦五年、ヨーロッパポルトガルの首都リスボンで大地震があったのは、火山の遠近に依らないという証である。」
 青崖は、西洋文明を紹介する形で地震についても述べているわけであるが、地震をより「科学」的に解釈、理解しようとしていることがわかる。実学的な洋学の流入は、神仏儒道の日本古来のまたは東洋主体の思想形態に大きな影響を与えた。

 

三、地震による被害とその後の対応

Ⅰ 地震による田畑の欠損と井戸水への影響

ⅰ 田畑の欠損と復旧への動き
 地震によって、家屋や蔵が破損、倒壊した事例は多く紹介してきた。溜池の多い大和平野北部の古市では、池堤が決壊し、多大な犠牲者が出た。吉野の山間部では山崩れがあったし、大坂などの沿岸部では地震後の津浪の被害も確認してきた。ここでは、地震によるその他の被害の事例を挙げていく。まずは田畠の欠損の事例で、地割れや液状化、田畑の歪みが発生している。
 「(伊賀上野地震で)なお大いに地震があり、家や小屋を見れば、今にも倒れそうで、目も当てられない有様であった。その時下の田地を見ると、揺れるたびに前の谷から濁った水が落ちてきた。とどまって水が流れないことは、恐ろしい出来事の一つである。また右側の道が欠けて又五郎の畑が割れ、口一尺ほどが下に歪んでしまった。更に下の田を見ると、油を締めたみたいに泡立って、濁り水が沸き上がっていた。文左衛門や作兵衛の間畑は三、四尺ほど食い違い、それより宗助や又六の田の方、六地蔵峠まで三、四尺ほどずれたままだった。地震が止めば水はしみ込み、揺れれば水が沸き上がり、これによって泥の海のようになった。」(『大地震難渋之記』)
 江戸時代以前は、農業に依存した産業構造であったため、田畑の損害は直に農民の所得・生活に影響を及ぼした。このため、早急に地震による田畑の欠損状況を把握し、復旧に向けて動き出す必要が、村側にも支配者層である幕府や藩側にもあった。そこで大和に程近い南山城の田山村(現相楽郡南山城村田山、柳生藩下)に残された「大地震ニ付御田地荒所御見分帳」(西城家文書)という史料を見てみる。ここでは伊賀上野地震による山崩れのために、土が田地や畔になだれ込み、耕作不能になった土地が一番から二一番まで書き上げられている。その一部を以下に示す。
 二番 字高ノ尾
 一、下田壱反壱畝廿歩 惣助 
   御高壱石五斗七升弐合

          長サ三間
    畔崩    幅 四間
          高サ壱尺弍寸
   此坪拾弍坪(印)
   畔鍬手間拾四人 但し壱人弐匁五分づゝ 此銀弐百五匁
 (貼紙)
 「此荒 当卯年より来ル巳年迄十五年之間高引  高五升三合八勺九才」
 これによると、本来この田地の所有者である惣助には、一石五斗七升弐合分の賦課が掛けられていた。しかし、畔地が地震により二四坪分決壊したため、これを復旧する必要が生じた。これにかかる人数が一四名、その人件費二百五匁が必要としたことが分かる。これに貼紙がなされ、地震があった翌年の一八五五年の卯年から一五年間租税額が藩により、五升三合八勺九才に割り引かれる予定であったことをこの史料は示しているのである。

ⅱ 井戸水が止まる
 次は一八五四年一一月の安政の南海地震により、井戸水や谷水が止まった事例で、下北山村や川上村でのことである。
 「寅年の十一月の大地震で井戸の水が止まり、十二月より翌卯年になっても一水も井戸から水が出なくなった。そこで川から水を運んで凌いでいたが、正月中頃から雨が降り、それより井戸から元のように水が出るようになった。有難いことこの上ないと皆で喜んだ。ところで諸方の谷々の集落では水が出なくなった所もあれば、以前より多く湧き出る所もあった。川上村の伯母堂の谷水が止まり、その西側では水上げするのも難儀な状況であったところ、ここでも正月から谷水が戻った。紀州の湯の峰のお湯も一時止まったが、後々また出るようになった。」(『倉谷家年代記』)

 Ⅱ 風紀取締と高値対策
 地震による被害災害は、建造物や田畑の破壊などの視覚的な現象面だけではない。震災後に社会不安が発生し、世間では様々な風聞が飛び交い、市井の人々の生活や心にも影響を与えたいたのは、今も昔も変わらない。
 「地震について毎日様々な話があった。また大地震が起こると人々は触れ合っている。女性や子ども達の間で特にそのようだ。一方、夜では盗人の用心のため、夜眠れることは稀であった」(『言経卿記』慶長元年閏七月一五日条)
 再び地震が起こるとの風聞が飛び交う一方で、火事場泥棒のような盗人が多発し、人々は安心して眠ることができなかった。地震に伴う様々な風聞について、幕府は異論を広め、人々の不安を煽る吹聴者の取り締まりを行い、これを封じ込めようとした。
 「去る冬の地震(宝永地震)について、虚説を言い広める者について、この前も町中にそのようなことはしないようにと触れ回ったが、今も守っていない上に、この頃は謡や狂歌も作って広めている者がいると聞いている。不届きなことだ。今後は名主や家主が心がけ、このような者がいれば、すぐに捕らえ、月番の番所へ届け出せ。もし隠し置いたことが発覚すれば、名主、家主、五人組に及ぶ落度である。この旨をよく心に留め置きなさい。以上。」(宝永元年三月『御触書寛保集成』二九)
 一方で、先に見た通り安政南海地震の際には、蝦夷松前への津浪により、鰊や昆布の価格が高騰していた。地震により生産や物流が滞り、忽ち物価が高値を付けて、市民生活を圧迫したのである。このようなことが大地震の後には起こりやすかったため、幕府は品々によって、一部の商人などが不当に蓄えていないかを確認するため、蔵の改めを実施し、地震による物価の高騰に対処しようした。
 「今度の地震(宝永地震)により、諸々の物価に高値を付けてはならない。またこの先も値段が上がるだろうと考え、買い置きしてはならない。品によっては蔵々を改める(検査する)。背く者がいれば曲事である。」(宝永四年一〇月『御触書寛保集成』二九)

 Ⅲ 「手当金」の下付
 先述の通り、風紀の取り締まりや物価高に対して、幕府はこれに対処しようとした。また田畑の欠損についてもこれを把握し、状況によっては年貢の減免を行うなど、復興を援助する施策を実行していた。このような被災した人々への支援策は、幕府も藩も規模や地震により、住まいである家屋に全壊・半壊などの深刻な被害があった場合にも実行されたことが一部の事例であるが判明する。以下の史料は、安政の南海地震を受けての和州式上郡辻村(現桜井市辻)の史料で、藩は織田家が領主の芝村藩である。
  「差し上げ申す御請書の事

         和州式上郡辻村
一、金三分 但し潰れた家壱軒、壱軒に付き、金三分御手当下さる 弥次郎

一、金四両 但し損害の家八軒、壱軒ニ付き、金弐分御手当下さる 勘三郎外七人
右は去る寅の十一月に古来より稀な大地震があったため、家が潰れたり破損したりと難渋しているために、藩に御伺いした上で、御救助として、書面の通り、御手当金を下し置かれ、有りがたき仕合わせに思っております。これにより御請証文を差し上げ申す次第であります。
   安政弐卯年二月
                辻村 弥次郎(印)(以下八名略)

  川口 御役所」
 芝村藩は家屋の損害状況に応じて手当金を下付している。ここでは全壊した家屋一軒に金三分、(一分は約四・四三グラムで、一三・二グラムほど。今日の価値で約一一万五〇〇〇円)半壊した家には金二分が下付された。こういった被災者への年貢の減免支援策が、江戸末期の伊賀上野地震、安政の南海地震の折には、一定の支援策が芝村藩や柳生藩により行われていた。

 Ⅳ 碑の造立と「英雄」の活躍に見る後世への地震被害の伝達
 大阪市大正区大正橋東詰に今も現存する「大地震両川口津浪記」は、安政の南海地震を受けて造られたものである。被害を被った大坂町人が主体となり、後世の人々への遺訓とするよう紙ではなく、碑として建立されている。  
 「全て大地震が起こった時は、津浪が起こるものだと兼ねてより心得ておき、決して船には乗ってはならない。また家も崩れて出火することもあるので、金銀や証文は蔵に収め、火の用心が大事である。さて川に止めてある船舶は大小に応じ、水の勢いの弱い所を選んで繋いでおき、囲船は早々高い位置に引き揚げて用心しなさい。津波は沖からの潮引きばかりではなく、磯の近い海の底や川底等より吹き湧き、海辺に作られた新しい田畑に泥水として数多吹き上がる。今回の地震で大和国の古市では、池水が溢れ、人や家屋を押し流してしまったのもこの類似した例で、海辺や大川、大池の周辺の住人も用心しなければならない。水の勢いが平時の高潮とは違う事は、今の人はよく知っているところではあるが、後の世の人々の心得となるよう、また溺死した人々への追善として、有りのまま拙文にて記し置く。願うところは心ある人、年々文字を読みやすくなるよう墨入れを願うところであります。安政二年乙卯(一八五五)七月にこれを建てる 
 施主 長堀茂左衛門町 町人中 家守中(以下略)」
 また、明治時代に活躍した日本文化研究者の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン 一八五〇〜一九〇四)には、「生ける神」と題した作品がある。これは、安政南海地震の際における紀伊国広村(有田郡広川町)の浜口梧陵の活躍を記したものである。史実とは異なる点もあるというが、その内容は、地震が起こると、避難を渋る村民に対し、地震直後の津浪の恐ろしさを説き、すぐさま村人を高台に避難させた。そのため村にはこの死者が出なかった。のちに村人は、この梧陵の活躍に感謝し、「浜口大明神」と呼んだ、というものであった。この「生ける神」の物語は、小学校教員中井常蔵によって「稲村の火」として再構成され、当時の尋常小学校の教科書に記載され、幅広く地震や津波の恐ろしさが認知されるに至った。
 この大坂の市中に建てられた碑や教科書への記載にしても、地震の脅威を確実に後世に伝えることを目的としていた。大規模な地震は稀にしか起こらず、それゆえその脅威が十分後世に伝わってこなかったのが、中世や江戸中期までの地震被害伝達の実態であった。しかし、この江戸末期に起こった安政南海地震以降では、地震発生時の対処法について、これを広く後世に伝えることで、地震に対する心構えや備えをきちんと行うことが、江戸末期から明治にかけての共通認識となったといえる。

 

おわりにかえてー現代の状況

 前論と合わせ、中世・近世における地震について、大和国を中心にその概略を述べてきたが、最後に現代における地震対策状況について言及したい。現代の地震に対する知見や情報などは、これまで人類が積み上げてきた成果であり、今後も地震予測を含めあらゆる点で発達・深化していくことであろう。しかし決して地震そのものがなくなることはなく、今後も減災や生活再建に向けた取り組みをなお一層充実させる必要がある。そこで基本となるのが法律である。砂防法、河川法、海岸法、建造物の耐震改修の促進に関する法律等地震発生より前の防災に重きを置いた法律、次に災害直後を想定した災害救助法等の法律、更に被災者生活再建支援法、災害者弔慰金等法等復興・生活再建に備えた法律など地震発生前、発生直後、その後の復興といった三段構えとなっており、前近代に比べ、制度としては充実しているといえるであろう。 
 しかしながらいくら法整備が充実していても被害拡大は避けられないという現実があるのもまた確かである。人口減少の中であっても、首都圏を中心に大都市圏に人口が密集し、その周辺では新開地の脆弱性を無視する形で開発が進められた。その結果、災害に脆弱な地域が増えたのに加え、気候変動による自然災害の大規模化が顕著となり、深刻な被害をもたらす災害も珍しくはなくなった。
 一方で、印象深い新聞記事がある。「高台の家 安全でもつらい」と題された産経新聞の記事である。その内容は、津浪対策など安全性を考えて、高台近くに家を建てたため、津浪の被害は及ばなかったが、年齢による衰えもあり、利便性が高く、病院やスーパーなど施設が充実する地域との往来が困難になり、日常生活に影響を及ぼしている、という趣旨の記事であり、生業や健康上の問題と安全性との両立の難しさを指摘するものであった。これまで見てきたように、地震や地震による被害は決してなくなることはない。地震の場合、「アフター地震」はなく、今後も「ウィズ地震」である。安全性と生業、健康上の問題など難しい点もあるが、過去の教訓を活かしつつ、今後も防災や減災に取り組んでいきたい。

 ※本論での地震の震央、マグニチュードの数値は、宇佐見龍夫『最新版日本被害地震総覧[四一六]~二〇〇一』(東京大学出版会 二〇〇三)による。

 

参考文献

早稲田大学古典籍総合データベース
『小泉八雲全集』四(第一書房 一九二六)
『日本教科書大系』近代編八 国語五(講談社 一九六三)
萩原尊禮編著『古地震―歴史資料と活断層からさぐる』(東京大学出版会 一九八二)
宇佐見龍夫『最新版日本被害地震総覧[四一六]〜二〇〇一』(東京大学出版会 二〇〇三)
中西一郎・西山昭仁「安政南海地震(一八五四)における大坂での震災対応」(『歴史地震』第一九号 二〇〇三)
西山昭仁「史料 嘉永七年(一八五四)伊賀上野地震に関する史料」(『地震』第二輯第五巻 二〇〇六)
北原糸子編『日本災害史』(吉川弘文館 二〇〇六)「近世の災害」
寒川旭『地震の日本史』増補版(中公新書 二〇一一)
津久井進『大災害と法』(岩波新書 二〇一二)
長尾武「『大地震両川口津浪記』にみる大阪の津波とその教訓」(『京都歴史災害研究』第一三号 二〇一二)


注記事項

この小論は、二〇一三年度の橿原市公民館講座の内容を文章化したものである。本論には著作権があり、無断引用、転載等は禁止します。



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