森本修平

博士(文学)。 奈良県の歴史についてつらつらと語っていきます。歴史読み物です。 重伝建…

森本修平

博士(文学)。 奈良県の歴史についてつらつらと語っていきます。歴史読み物です。 重伝建地区で日本遺産でもある今井町を応援しています

最近の記事

今井町称念寺の歴史 ※一部公開

第一節 戦国時代の大和と真宗の展開  今井御坊称念寺は、奈良県橿原市今井町に立地する浄土真宗本願寺派の寺院である(以下称念寺を当寺と記す)。本論では、当寺の成立から今日に至るまでの様々なあゆみについて、主に歴史学の見地から述べていく。当寺の前身となる今井道場は、明応八年(一四九九)には、既に存在した。永禄三年(一五六〇)には、道場主として今井兵部の名が確認され、本願寺と織田信長が戦った石山合戦でも活動していた。それから慶長五年(一六〇〇)に「称念寺」の寺号が確認され、江戸時

    • 近世の地震と大和

      はじめに  本論においては、前回の「中世の地震と大和」に引き続き、大和国における地震災害の諸相について、近世を中心に考察していく。具体的には文禄五年(一五九六)閏七月の「慶長伏見地震」から江戸末期の安政元年(一八五四)一一月の「安政南海地震」までを取り上げる。何といっても近世は、中世に比べて史料が多いというメリットがあり、地震被害の詳細やその後の地震への対応について判明する事実が多い。なお、奈良県での今後の地震予測や地震研究の流れなどについては、本論の前論である「中世の地震

      • 中世の地震と大和

        はじめにー奈良県における地震災害の想定  奈良県(大和国)は災害が少ない地域である、と思われる傾向が少なからず存在しているようだ。古代より都が置かれ、法隆寺など古い木造建築物が今なお存在しているのもその一因であろうか。しかしそれが幻想であることは、少し調べれば明らかである。特に近年の気候変動がもたらす災害は、大規模化した台風や線状降水帯による大雨といった形で現れ、近年でも大きな被害を奈良県各地でもたらしている。顕在化する災害であるが、中でも最も恐れられている災害の一つは地震

        • とある大庄屋の由緒考察  十市郡新賀村の森村氏

           橿原市新賀町(十市郡新賀村)の重要文化財森村家住宅。広大な屋敷地の主である森村氏は、新賀村の庄屋のほか、十数ヶ村の新賀組の大庄屋を勤めた家柄で、江戸時代、森村左衛門と名乗りました。この屋敷は、戦国時代に活躍した国民十市氏の一族であった十市新賀氏の居館跡に立てられたと考えられます(現在の建物自体は江戸中期です)。なので、森村氏もこの十市氏、新賀氏の子孫かと思われるのですが、何故か十市や新賀ではなく、「森村」と名乗っているわけです。森村氏とは何者であったのでしょうか?  ある研

        今井町称念寺の歴史 ※一部公開

          今井町の歴史Q &Aその2

          Q、今井町ってどんな町? A、今井町は簡単に言うと、江戸時代の高級住宅街です(勿論貧富差はありました)。上品寺や四条(橿原市)、新堂(桜井市)など今井周辺の村々から富裕層が集まりました。木綿産業を中心に栄え、重厚な造りの民家が今でも数多く存在しています。戦国時代末期、織田信長と戦った歴史があり、その名残で大きな環濠が存在していました。この環濠は江戸時代になっても、町の用心のためとして維持されました。富裕層が多かったこともあり、人の出入りには敏感で、宿屋も一件もありませんでした

          今井町の歴史Q &Aその2

          今井町の歴史Q &A その1

          Q、「大和の金は今井に七分」というけど本当? A、昭和32年発行の『今井町史』によると、俚謡(りよう)としてあった言葉のようですが、典拠史料の明記がないことから、はっきりとは分かりません。なので、パンフレットなどに載せるのはどうかなと思います。確かに今井の繁栄ぶりを伝える史料として、養生訓で有名な貝原益軒が、「今井 広き町なり、富人多し、大和の国中にて豊饒なるところなり」(『和州巡覧記』元禄5年刊行)と記録しています。こちらの方が信憑性が高い情報と言えますね。

          今井町の歴史Q &A その1

          今後の予定

          ○今井町を語りたい 今井町順明寺の歴史と妙好人     未定 ○大和国を語りたい 戦国期大和の一揆と共同体 未定

          今後の予定