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とある大庄屋の由緒考察  十市郡新賀村の森村氏


 橿原市新賀町(十市郡新賀村)の重要文化財森村家住宅。広大な屋敷地の主である森村氏は、新賀村の庄屋のほか、十数ヶ村の新賀組の大庄屋を勤めた家柄で、江戸時代、森村左衛門と名乗りました。この屋敷は、戦国時代に活躍した国民十市氏の一族であった十市新賀氏の居館跡に立てられたと考えられます(現在の建物自体は江戸中期です)。なので、森村氏もこの十市氏、新賀氏の子孫かと思われるのですが、何故か十市や新賀ではなく、「森村」と名乗っているわけです。森村氏とは何者であったのでしょうか?
 ある研究者の方は、冗談まじりで、十市氏が伊賀に移封されたあと、この屋敷に入り込んだのではないかとおっしゃっていました(天正十三年閏八月に筒井定次以下主だった大和武士は伊賀へ国替えとなった)。
 このような推測が為されたのにはわけがありました。「森村家文書」は二千六百点以上もあり、橿原市下でも最大規模の文書数を誇っています。にも関わらず、由緒書や系図の類が一点もないわけで、実に不思議でした。なので、武家ではなく、地元やその周辺の百姓が出世して大庄屋にまでなったのかとも考えられました。
 ところが、突破口が見つかったのです。『甫庵太閤記』に文禄の役による名護屋城在陣のメンバーに「森村左衛門尉」が見つかりました。勿論、史料的な問題はあるのですが、豊臣秀吉に仕えていた武家の可能性が出てきたのです。そしてこの方向を決定づけた史料が見つかりました。
 それが、天正十一年八月朔日の「森村左衛門尉宛羽柴秀吉領知宛行状」(『豊臣秀吉文書集』一所収)で、森村左衛門尉殿に宛て、丹波国桑田郡内に百四十石を下付した書状で、領地として認める内容でありました。これにより、十市氏でも周辺の百姓でもなく、秀吉に仕えていた武家であることが決定的となりました。
 しかし何故大和に来たのかなどまだまだ謎は残ります。これについては、またの機会にと思います。

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