今井町称念寺の歴史 ※一部公開

第一節 戦国時代の大和と真宗の展開


 今井御坊称念寺は、奈良県橿原市今井町に立地する浄土真宗本願寺派の寺院である(以下称念寺を当寺と記す)。本論では、当寺の成立から今日に至るまでの様々なあゆみについて、主に歴史学の見地から述べていく。当寺の前身となる今井道場は、明応八年(一四九九)には、既に存在した。永禄三年(一五六〇)には、道場主として今井兵部の名が確認され、本願寺と織田信長が戦った石山合戦でも活動していた。それから慶長五年(一六〇〇)に「称念寺」の寺号が確認され、江戸時代の寛永一三年(一六三六)には、より寺格の高い「御坊」となっている。明治の初めには、明治天皇による神武天皇陵御参拝の行在所となる。また当寺の住職は、近代に至るまで代々「今井兵部」と名乗り「武釈兼帯」(武士でもあり僧侶でもある)の姿をしており、その自画像も当寺に残っていて、その風体は他寺院の僧侶の画像と比べても珍しいものであり、当寺の特徴の一つともいえる。
 以上、当寺のあゆみの概略を述べたが、ここからはまず、当寺成立の前提となる一五~六世紀の大和国の状況を確認する。一五世紀後半、日本は寒冷な気候に見舞われ、小氷河期の様相を呈していたといわれる。そのため米や農作物が不作となったのに加え、台風や旱魃、水害といった災害が続いた。これに対し、時の支配者層である室町幕府や荘園領主は、十分な救済策を取らなかったため、民衆たちは度々一揆を起こして抵抗するようになっていった。このような状況下、幕府では将軍職の後継争いが起こり(応仁文明の乱)、ますます世の中は混沌とし、戦国時代へと突入していった。大和国でも盆地の平野部を中心に、国人間の対立や抗争が断続的に続くようになった。
 この時期に大きな発展を遂げた宗教勢力があった。それが本願寺である。本願寺とは、鎌倉時代の僧親鸞聖人(一一七三~一二六三)を開祖とする浄土真宗の一派であり、特に戦国時代以降、一向宗とも呼ばれた。親鸞聖人は、師匠である法然上人の唱えた専修念仏(数ある仏教的修行のなかで念仏行に重きを置き、これに専念すること)の影響を受けつつ、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、様々な煩悩を断つことなく、涅槃を得ることができるとした(不断煩悩得涅槃)。また悪人こそが救済される対象であった(悪人正機)。このように真宗は、西方極楽浄土の教主である阿弥陀如来を本尊とする浄土教の一派であり、他にも浄土宗、時宗などもあった。また当然ながら、顕密仏教寺院(興福寺や比叡山など古来よりの伝統的な仏教勢力)のなかにも念仏行があり、阿弥陀如来への信仰が存在していた。つまり様々な浄土思想が中世社会に併存していたのである。このなかで、とりわけその一派である本願寺が勢力を拡大していった一因には、本願寺八世蓮如上人(一四一五~一四九九)の活躍があった。蓮如上人は、自ら北陸や畿内各地を巡って精力的に布教活動を行い、また真宗の教えを平易に説いた御文章(御文)を使用して各地で門徒を増やしていった。その蓮如上人は大和国にも縁がある。若い頃、興福寺大乗院門跡経覚に師事しており、奈良で修行の日々を過ごしたこともあった。寛正二年(一四六一)には、藤原道場が今の奈良市藤原町に存在していたが、これは大乗院経覚と蓮如上人との良好な関係があってこそ設立された本願寺系の道場であった。また、蓮如上人ゆかりの寺院として、飯貝本善寺(吉野町飯貝)と下市願行寺(下市町字寺内)とがあり、本善寺には蓮如上人一二男の実孝が入寺し、大和国での本願寺教団の中核となっていく。一方、願行寺には、他の真宗の一派(近江木部錦織寺)であった勝林坊勝恵が、蓮如上人に帰依して入寺する。この願行寺は、明応四年(一四九五)の春に建てられたが、人里のない高地に坊舎があるとして、程なくして蓮如上人の妻蓮能の命により、町場に近い現在の寺地に移転している。この事例は真宗本願寺の性格を示す上で重要といえる。つまり寺院・道場と門徒の住む町との距離がより緊密であることが良いとされたのである。
 蓮如上人の教えを受容した民衆は道場を作り、本願寺は大和国にも勢力を拡大していくのであるが、これはいわゆる宗教的な教えが普及したという意味のほか、戦国時代においては、兵力を伴う政治勢力としても拡大していったという側面を有していた。宗教が民衆同士を結びつけて一つのカタマリとなり、ムラや荘園といった枠組みを超えての活動が起こる。室町・戦国時代に起こった一揆の多くは、複数のムラが結びついた支配者層への抗議行動であり、徳政(借金の帳消し)や年貢減免を求めるものあったが、本願寺が紐帯となったいわゆる一向一揆はより大規模化して政治的性格を強めていき、武家や顕密仏教勢力といった支配者層とより対立を深めていくことになる。このことは、真宗を受容した当寺とも無関係ではなかった。これについては第三節で述べる。
 

第二節 今井道場の成立と今井浄欽・今井兵部


 文献上、当寺に関係する最も古い記録は、明応八年九月のものとなる。蓮如上人の八男で、本願寺九世実如上人(一四五八~一五二五)が下付した「方便法身尊形」が、当寺に所属する曲川(橿原市曲川町)の門徒講に残されている。方便法身尊形とは、本願寺が末寺の寺院や道場の本尊として利用するようにと下付したもので、阿弥陀如来の絵図と後光が描かれており、巻物状の形態をしている。この裏書から、願主人(下付を願い出た代表)として「了讃」という人物、そして本願寺と了讃との間を取り次いだ(手次)人物として「今井浄欽」の名前が確認される。浄欽は「今井」と名乗っている点からも、明応頃に現在の今井町を拠点としながら手次坊主として活動した、のちに活躍する今井兵部とかなり関係深い人物といえる。手次とは、本山と道場・講との間を取り次ぐ役割を担った寺院や人物のことで、布教にあたりその地域の中心的役割を果たした。有力な者となると、本山からの什物の下付についても口入することが出来た(『本福寺跡書』)。浄欽も地域社会や本願寺教団内部において、一定の地位を有していたと考えられ、今井荘の荘官(荘園を管理する現地の役人)クラスであったといえる。当然ながら手次をする立場であったことから、明応八年までには本拠である今井には道場が存在していた。
 それからおよそ半世紀後の天文一九年(一五五〇)三月、本願寺一〇世証如上人(一五一六~一五五四)が当時の本願寺の本拠であった大坂から吉野を経て、紀州へ向かうという旅に出発することがあった。この時、証如上人が今井に宿泊していたことがわかっているため、今井道場に滞在したといえる。本願寺歴代の中で、初めて今井に滞在したのがこの証如上人であった。そして今井に道場があったことが、文献上明らかなのが、天文二二年(一五五三)閏一月のこととなる。蓮如上人の末子である実従(一四九八~一五六四)が、大坂本願寺から吉野の飯貝本善寺に向かう途中、今井道場に宿泊し、朝勤をしている。この実従は『私心記』という記録を残しており、大坂や枚方から本善寺に向かう際、必ず今井道場に宿泊するなど、当寺にゆかりのある人物であった。  次いで、今井兵部についてである。後に書かれた軍記物である『大和軍記』という史料には、「今井というところは兵部という一向宗坊主によって作られた新しい町である。兵部は能力が高く、町の四方に堀や土手を築き、方々より人を集め、家を作らせ商いを盛んにした」と記されている。この今井兵部の名は、永禄三年一月に、『私心記』で初めて確認される。それより少し前の天文二二年三月には、今井道場の主として「豊寿」(「トヨジュ」と読む)という人物がいるが、この豊寿は本善寺証祐の葬儀にも参列し、また実従が道場に立ち寄った際には、夕飯を振る舞い歓待している。そして翌二三年九月に大坂本願寺においてお剃刀を受けている(『興正寺版私心記』)。これは帰敬式とも呼ばれ、真宗への帰依を示すものであり、この時、本願寺より法名等を授かったと考えられ、豊寿はこれ以降、法名ではなく、兵部と名乗るようになる。おそらくこのお剃刀が元服の役割を果たしていていたといえる。
 この節の最後に、今井兵部の地位・身分について述べておきたい。やや時代が降った元亀三年(一五七〇)一二月、今井に南接する四条領(橿原市四条町)に一段の田地の登録人として「今井兵部殿」との記載がある(橿原市上品寺町『上田家文書』)。「殿」と漢字表記されており、庄屋などの他の登録人より一段高い地位にあったことが推測できる。おそらく浄欽とそうかわらない地位であったといえる。つまりともに荘官クラスということで、今井荘の荘官であるなら、領主であった一乗院か越智氏から給田を充てがわれていたと考えられる。これについては関連する史料も残されているが、解釈の難しい点もあり、詳しくは後考を俟ちたいと思う。

注記

 本文は、一般社団法人今井町大和観光局が二〇二三年八月に刊行する『甦る今井御坊 称念寺』の第一章のうち、第一節と第二節(全一〇節)を公開したものである。この書では、ほかに修理工事に伴う会計報告や称念寺の年表が掲載されている。私は、第一章の歴史編と第三章の年表を担当した。興味のある方は、今井町大和観光局(0744−24−5355)までお問合せ下さい。


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