【3】物語の魅力、読書ってほんとうに贅沢だ
いつからだろう。
読書がこの上なく困難で、贅沢な時間になったのは。
私は元来、本が大好きだ。
子どもの頃は、素敵な挿絵の絵本を何よりもねだったし、大人から本(児童書も大好きだ)を読み聞かせてもらう時間が最高のご褒美だった。たとえそれが拙い口調でも。
だって、読書はお姫様にも騎士にも、妖精や動物にもなれるから。
自分で本を読めるようになってからは、貪るように読書に没頭した。
お金は全然持っていなかったから、図書館に足繁く通った。司書さんが優しく見守ってくれる本の海で、空想の時間を自由に泳がせもらった。
本は、いつでも自分とは違う人生を味わわせてくれた。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』『モモ』、ビクトル=ユーゴーの『ああ無情』、アリトリッド・リンドグレーンの『長靴下のピッピ』シリーズ、アガサ・クリスティーのミスマープルや名探偵ポワロのミステリーシリーズ。
辛いことがあっても、読書をすればあっという間に忘れられた。
小学校から帰ってきて、お稽古事に向かう間のわずかな時間。眠る前、目をこすりながら睡眠時間を削りながら捲るページ。
本はいつでも黙ってそばにいてくれた。
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それが、今はどうだろう。
本を買うお金があの頃よりあるはずなのに、なぜか本に手が伸びない。
書店巡りをしても、夢が溢れる物語よりも実用書を選んでしまう。ビジネス本や自己啓発本など(もちろん、実用書もすばらしい読書体験だけれど)。
物語の海を漂い、違う人生を味わう経験は、とても貴重で蜂蜜のように甘く心の栄養になる。けれど、どうも物語の世界に没頭する力に欠けてしまったらしい。違う物語の主人公に自分を重ねて生きるよりも、自分のリアルな人生を彩る何かを探してしまう。
歳のせいもあるのだろうか、ずいぶんとリアリストになったものだ。
子どもの頃の私に伝えたら、なんとつまらない大人になったものだ、と肩をすくめられてしまうだろう。
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だから、物語に没頭できていたあの頃の自分がとても愛おしく羨ましい。
時代の流れもあるのだろう、あの頃より電子機器がずいぶんと発達して、四六時中情報端末に囲まれる生活になった。一家に一台パソコンがあれば珍しい、というゆったりとした時代はもうないのだ。
スマートフォンもパソコンも、スマートウォッチもとても便利で、毎日助けてもらっているけれど、得られる情報の渦に脳のメモリか何かが飲み込まれてしまっているのかもしれない。
ページを捲っている時間がもどかしくて本を読む時間を「勿体ない」とすら感じるようになってしまった。
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思春期の一時は活字中毒にすらなった私。
それが、もはや読書とは程遠い場所に来てしまった。
社会に揉まれて、時に足を攣りながらもがいている自分も、オンラインの習い事のサブスクリプションなんてやっている自分も、嫌いではないけれど。やはり寂しいものがある。
ああ、読書したいなあ。
物語の世界に没頭したいなあ。
誰か別の人の人生を味わってみたいなあ。
そう渇望する心は、いまだにあるのだけれど。書店に向かう時間より、睡眠時間を優先してしまう自分を許しておくれ、という気分になる。
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とはいえ、やはり本好きの根っこは変わっていないのだろう。
休日は服を買いに出かけるより、書店に足が向いてしまう。
新刊の表紙を視線でなぞるだけでも、なんと甘美な時間だろうか。
古い本の匂いを嗅ぐだけで、五感が震えるほど感動する。
こんなにも素晴らしい時間を与えてくれる本に感謝の念が尽きない。
本は、物語は、ただ静謐にそこに在る。
帰ってきたければ、いつでも来ればいい。
そんな風に言ってくれているように。
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私はあらゆる理由で本が読めなくなっても、何度でも本に会いに行くだろう。
片思いに似た感情を味わいながら、何度でも。
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