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宗教とカルトの違い|第6回宗教マイノリティ理解増進勉強会【中】

3月16日に3つの宗教から20名が参加して「第6回宗教マイノリティ理解増進勉強会」を行いました。

前回の記事では、私の発表前半の「マイノリティ問題」ついてまとめました。

今回は、発表後半「宗教とカルト」の要旨をまとめました。以下がその内容です。当日の発表に少し修正・加筆した点もあります。

宗教とカルトの違いとは

日本で「宗教マイノリティ」への理解が進まない理由に、自分の宗教を公にすることが少ないため、宗教マイノリティの存在が顕在化しにくいというのがあるようです。

その他、「あの団体は宗教ではなくカルト」だから、排除した方がいい、という論調もあったりします。

従って、宗教マイノリティ問題の取り組みには、「宗教とカルトの違いは何か」の認識も必要になります。

そこで論文「カルトという蔑称と反カルトに内在する葛藤:定義なき言説と対立の諸相 大喜多 紀明」を参考に「宗教とカルトの違い」についてまとめてみました。

「宗教とカルト」を区別するには、「宗教とは何か」の定義が必要になりますが、研究者によって「宗教」の定義がそれぞれ違うので、宗教を定義すること自体が簡単ではありません。そうすると「カルト」の定義も簡単でありません。

「カルト」は特定の集団を攻撃するために使う蔑称

櫻井義秀さん(宗教学者)は、かつてカルトについて以下のように説明していました。

カルトは宗教社会学的な教団類型というよりも、信者の奪回・脱会を支援する弁護士、ケースワーカー、元信者、信者の親族からなるアンチ・カルト集団によってターゲットとされた集団への総称的蔑称であり、ラベリングと見なされた。

『新宗教の形成と社会変動』(櫻井義秀、1997)

「カルト」とは、「アンチ・カルト集団によってターゲットにされた集団への総称的蔑称であり、ラベリング」ということです。とても的を得た説明だと思います。

現在の櫻井さんは、カルトというラベリングを正当化する研究者というイメージがあるので、こうした中立的な説明は意外な感じもします。

櫻井さんが中立的な立場から変遷した背景について、UPF(天宙平和連合)事務総長の魚谷俊輔さんは自身のブログで以下のように説明しています。

櫻井氏は1996年に北海道社会学会の機関紙『現代社会学研究』に「オウム真理教現象の記述を巡る一考察ーーマインド・コントロール言説の批判的検討」という論文を発表しているが、その内容は基本的に「マインド・コントロール理論」を否定するものであった。これが札幌における統一教会を相手取った「青春を返せ」裁判の弁護団から、「あなたの論文が統一教会擁護に使われている」と批判されたため、その影響で立場を変えたのである。

「洗脳」「マインド・コントロール」の虚構を暴く

カルトは実体のない社会的葛藤のシンボル?

立場を変えた櫻井さんは現在、「カルト」は実体ではない社会的葛藤のシンボルという理屈で、「カルトを問題視する理論」を構築した感じです。

宗教研究は、反カルト運動同様に、「カルト」を実体としての教団組織,「マインド・コントロール」を具体的な布教・教化手法として、その議論の是非を考えてきた。しかし、これらの概念は実体ではない。社会的葛藤の所在を示すシンボルである。

『カルト論の現代的射程』(櫻井義秀、2004)

その「シンボル」例として、オウム真理教の後継団体「アレフ」の信者達と世田谷区烏山地区住民との葛藤をあげています。

それによれば、「明白な犯罪行為がなくても」、暴力や人権侵害の蓋然性(物事が起こる確実性)がある宗教団体(この例ではアレフ)への住民が抱く葛藤そのものが宗教団体を「カルト視」する理由となる、というのです。

つまり、住民などが、ある特定の(宗教)団体に対して持つ「怖い」という「思い」が、その団体を「カルト視」することにつながる。だから団体の犯罪行為としての実体がなくても、葛藤のシンボルとしての問題があるので、この葛藤が「カルト問題」なんだということのようです。

そしてカルト問題の解決のためには、その「カルト視」された(宗教)団体を社会から排除しようという流れを正当化しようというように見えます。

しかし、人権の大切さがわかる人から見たら、これは、かなり滅茶苦茶な理屈だと分かります。

アメリカで起きた9.11同時多発テロ後、イスラムの人たちへの恐怖感情を持ったアメリカ人がいたかもしれないし、それゆえに葛藤はあっただろうけど、それで「特定の宗教者を排除しよう」などと言う理屈が正当化されることはあり得ません。

テロを理由に、普通に暮らしている特定の宗教の人たちを「カルト視」するのではなく、お互いの理解を進め、お互いに安心して暮らす事は可能であり、それこそが人権を尊重する民主主義社会では行われるべきことのはずです。

日本においても葛藤があるならば、本当に危険な人たちなのかどうか、についての理解を進める必要があります。

「カルト視」が行きつく先は差別主義に基づく全体主義

怖いからという理由で、排除が正当化されるならば、この論文に書いてあるように、"行きつく先は差別主義に基づく全体主義"となります。

もし、シンボルとしての葛藤があるならば、「マイノリティ」に対する理解を進めることが解決の道となるはずです。

不安を正当化し、カルト視することを当然としていては、葛藤を複雑・深刻化するだけになります。

違いを理解して尊重することが問題の解決に

家庭連合は家庭連合の信徒として、クリスチャンはクリスチャンとして、それぞれの信仰を持って、当たり前のように普通に生活し、様々な背景の人と葛藤なく普通に生活する事は可能なはずです。

モルモン教の方と以前、話した時、その人がモルモン教と会社の人は皆知ってるので、お茶の時間になると他の人にはコーヒーが出たりするけど、そのモルモン教の人にはコーヒーではなく、水か何かが出ると言っていました。(一般的にモルモン教の人はコーヒーを飲まないとされている)

お互いに相手のことを理解することで、宗教に対する忌避感とかが解消され、自然に当たり前のようにつき合い、交流できる社会になっていけば、葛藤も差別もなくなるでしょう。

宗教二世が、信仰ゆえに周りと違うということでいじめられたりしたら、今の風潮だと親が信仰している宗教が悪いんだという感じだけど、それでは差別と排除を推奨しているようなものです。そうではなく違いに対する理解と尊重を大切にすることで、解決していくと思います。そういう点からも「宗教マイノリティ理解増進」は大切だと思います。

以上、発表させて頂きました。

※ 次回は参加者間の意見交換をまとめた内容をアップします。

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