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十字架

幼い頃から人の頼みや誘いを断れない性格だった。自分のことで頭がいっぱいになり余裕が全くない時であっても断らなかった。というよりそんな状態になっても断れなかった。自分の心に逆らってこんなことを続けてきた理由はただ相手に嫌われたくないから。嫌われるのが怖くて怖くてたまらないから。私が快く誘いに乗ったと上手く装うことが出来れば、相手に対して失礼な態度をとったことにはならないはずだ。そして相手の瞳に映る私は自分の誘いに乗ってくれたと、決して悪い気持ちはしないだろう。ただこれは私が脳内で相手が自分の言動に対してどう思うかを想像しているだけに過ぎないのだが。

こうして人から嫌われることを極度に怖がった私は人の顔色を伺うということが自分の中で当たり前と化していた。私の脳内で作り上げられたこのルールは私の中で大きな十字架のように変化して重くのしかかってきた。この十字架を背負った幼き私は人と積極的に関わることから逃げるようになった。仮に関わるにしても心を深く閉ざし、素の自分を見せないような子どもになった。こんな荒んだ幼少期を送っていた私の唯一の希望は未来の私が精神的に成長してくれることのみだった。しかし未来の私とは過去の私が歩み続けた先にいる存在に過ぎないということに薄々気づいていた。つまり現状から目を背け問題を後回しにするという行為でしかないのだ。そんな矛盾だらけの私の希望は当然いくつになっても叶うはずはなかった。年を重ねれば重ねるほど私の肩に重くのしかかった十字架は重さを増していき、ついにはそれに押しつぶされそうになっていた。

こんな鬱屈とした日々を送っていた私も気づけば大学生になっていた。毎日、講義を受けて学食で昼食を済ませ、特別気が合うという訳でもない人達と少し話して帰宅する。大学には多種多様な考えを持った人々が集う場所だと私は個人的に考えていた。そのような場所であれば、自分と似たような考えの持ち主や素の自分が出せると信じていた。ようやくこの十字架を肩から下ろせる日がやってくると本気で思っていた。しかしそんな私の考えはすぐに打ち砕かれた。結局私自身が心を開かなければ相手も同様に心を開こうとしてくれないのだ。そのためまた相手の顔色を伺いながらコミュニケーションを取る。いつまでこんなことを続けなくてはいけないのだろうと、溜息をつきながら心の中で呟いた。
梅雨になり毎日降る雨に私は憂鬱な気分にさせられていた。明日も一限があるため早めにベットに入る。部屋の電気を消して寝る体勢を取り始めた時、突然着信があった。スマホの画面を見てみると大学の友人の名前が映し出されていた。なんの用かは分かり兼ねるがとりあえず電話に出ることにした。
「もしもし。こんな時間にどうした?」
「いやー、明日の一限までの締め切りの課題がまだ終わってなくて、すぐ終わるから少し手伝ってくれない?」
そういえば先週の心理学の講義が終わったあとに先生から来週までに提出のレポートが課されていた。私はその日の夜にやって提出してしまっていたため、すっかりそのことを忘れていた。しかし手伝ったから終わるという訳でもないような課題であった。内容としては指定された5つのテーマの中から1つを選択して、それに関して調べて自分の考察を述べるというものであった。つまり調べて内容を理解することと理解した上で自分なりの考えを考えなくてはいけないという2点をこなさなくてはならない。決して難しい課題ではなかったが、だからといってすぐに終わる課題という訳でもない。友人の頼みの一言を受けた瞬間からこれらの考えが頭の中によぎった。それと同時に強い眠気が襲ってきたため、適当に友人の頼みをあしらうことにした。
「今回の課題は手伝う云々の問題じゃないと思うぞ。自分で考えて何とか提出するしかないと思うよ。」
その言葉を受けても尚、友人は全く引き下がろうとしなかった。
「いいから、とりあえず手伝ってよ。どこから手つけていいか分かんないんだよ。」
この時確かに、私の肩に重くのしかかった十字架がさらに重くなる感覚があった。そしてそれが引き金となって完全に思考が停止した。これまで人の頼みを我慢しながら引き受けてきた代償を支払うべき日がとうとうやってきた。そう感じる他なかった。心身ともに既に疲弊しきっていたのだ。友人に対しての返答しようとしたが、徐々に友人の声が遠のいていったように感じた。
「もう無理だ。」
通話越しの友人に聴こえないように小さな声でそっと呟き、通話を切った。今の自分の状態が眠気の一言で片付けられないことは意識が遠のいていく中で感じた。自分の体内にあるエネルギーが全て外へ放出されたかのような感覚があった。私は当分普段通りの生活を送ることは出来ないだろう。メンタルクリニックとか呼ばれる場所に行かなくては行けないのだろうか。まあ今はそんなことはどうでもいい、疲れた、休みたい。

明かりが消された部屋で倒れこむように眠りについた男の姿はまるで「十字架」のようだった。

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