映画『レジェンド&バタフライ(THE LEGEND &BUTTERFLY)』の感想 その2
この映画の脚本家は現在放映中の大河ドラマ「どうする家康」の脚本も担当されている古沢氏だそうで、同じ走るにしても短距離・中距離・長距離で異なるように、脚本もテレビドラマや映画とは違うところがあるのでしょうか。
この映画、戦国時代を扱った映画としては傑作だと私は密かに思っているのですが、大河ドラマは「どうする」と私が言いたくなる感じで、そのギャップに戸惑っています。
さて、前回の続きですが今回もネタバレしまくりなので未見の方は読まないでくださいませ。
上洛
桶狭間から凱旋した信長は出迎えた帰蝶を見て叫ぶ。
「皆のもの、次は美濃じゃ」
帰蝶の故郷美濃を征した信長は帰蝶を連れ稲葉山城に上り岐阜と地名を改めた。
信長は帰蝶に生まれ育った鷺山城を与えると言った。
帰蝶は美濃を征した今人質の役目もおわりということかと言い返す。
「ほんなら離縁じゃの」
帰蝶の言葉に信長は戸惑いながら答える。
「おぬしのほうから申し入れりゃ、いつでもそう致す」
「わらわから申すは筋違いじゃ。お前様が申し付けてくんさりゃそれでええ」
「おぬしのほうから申しいりゃ」
「お前様から」
言い合いの最中、注進が入る。
それは、足利義昭を京へ連れ将軍につけるということだった。
不可能な事と戸惑う信長。
挑発する帰蝶。
立ち去ろうとする信長に声をかける帰蝶。
「愚かな夢物語か…どこまでも領地を広げ、どこまでも上を行く。それが父とわらわの夢じゃった。わらわはお前様を利用しそれを為す。肝要なるは速さじゃ。一気呵成に上洛できるか否か」
「道じゃ…」
信長は帰蝶とのやり取りで上洛への道筋が見えてくる。
上洛問題で中途半端となった離縁問題。これが意外な形で二人の運命に影を落とすことに。
修羅道
上洛を果たした信長はお忍びで帰蝶を連れ洛中へ。
にぎやかな市場に心が浮き立つ二人。高価な金平糖や「三本足の蛙」の香炉を買ったり、南蛮の音楽に誘われ踊る信長と帰蝶。
往来で金平糖をスられた信長はスリの子供を追いかけ路地裏へ。襲ってきた輩を体術で倒す帰蝶。身に付いた体術。しかし、その手には木剣ではなく真剣の短刀。やむなく信長も太刀を抜き援護。修羅場と化す路地裏。
この場面、凄惨なシーンとなります。
市場で平和な束の間のひと時から一転して人々が続々と切られ血飛沫が飛ぶ凄惨なシーン。
このシーン必要だったのか。このシーンが観客動員が思ったより伸びなかった原因かもしれません。どう見てもファミリー向けではありません。
冒頭の信長を制した帰蝶の体術、弓矢の手練れぶり等、かなりの武術を修得している様子がうかがえる帰蝶。後に明かされますが帰蝶の手は既に血で汚れていたんですよね。
例えば、このシーンの代わりに次のようなシーンを思いつきました。
この映画では省かれましたが、信長と弟の信行が家督争いをした時、信長は一度目は信行を赦すんです。それは、この映画の当初の信長像にピッタリなんですね。で、二度目の時に躊躇する信長に代わって信行に止めを刺したのが帰蝶というシーンでも良かったかもと思います。信行に家督を奪われれば帰蝶の立場も危うくなるので帰蝶の動機も十分ですし。
「父なら必ずこうする」というセリフとともに。
被害者は信行一人だし少しは凄惨さも和らげられたかもしれません。
でも、後に大量虐殺に手を染めた信長を考えると、やはりこちらのシーンで良かったのでしょう。難しいところですが、私は納得できました。
生命の危機から危うく逃れた二人は、逃げ込んだ廃寺で激しく求めあいます。
命の危機から命の燃焼。信長と帰蝶は、この時初めて身も心も深く結びついたわけです。普通のロマンスではなく戦国ロマンスなんですよね。
以後、信長は数々の戦を通して日本史に特記されるべき大量虐殺を起こしていきますが、その端緒となったのが皮肉にも帰蝶だったということです。
自分の夢を叶えるべく信長を修羅道へと誘ってしまった帰蝶。愛する帰蝶の夢を叶えるべく修羅道へと踏み込んでいく信長。
修羅道へと踏み込んだら、その歩みを止められません。いつしか第六天魔王と恐れられる存在になってしまう信長。
その第六天魔王としての信長に魅了されるものもでてきます。
明智光秀
従来の明智光秀のイメージは詩歌を詠むなどの古典的教養を備える知性ある常識人といった感じです。
しかし、最近はそうでもなかったという説も見受けられますね。この映画の光秀は、それに輪をかけた悪人として描かれました。
戦国時代に来日した宣教師ルイス・フロイスが記した「日本史」に出てくる明智光秀のイメージそのままでした。
その光秀評を長いですが見てみましょう。
光秀の急激な出世は嫉妒を買っていたのかもしれませんね。同時に光秀の才能の凄まじさを感じます。
これは信長の評価だと思うくらいの記述です。もしかして信長の裏に明智ありだったのでしょうか。万能な光秀です。
これって秀吉の評価って思えるくらいの記述です。人誑しの秀吉をも超える光秀です。
まさに悪の権化とも言うべき書かれようですね。フロイスはキリスト教に理解を示す者の評価は高くなる傾向があり、併せて、この記述が本能寺の変の後ということに注意すべきですが、それでも彼の光秀に対する人物評は注目されるべきです。
「己を偽装するのに抜け目がなく」と評されていますが、私達は長い間光秀の偽装に騙されていたかもしれないですね。
この映画では、比叡山の焼き打ちは光秀が主導したように描かれていました。私も実はそう思っております。それは戦後処理で比叡山の麓の坂本を光秀が拝領し城を築くことが許されているからです。
信長家臣団で城持ち大名となったのは光秀が最初です。フロイスの評にピッタリですよね。
私がこの映画で驚いたのは、金箔の髑髏です。これも有名なエピソードですが、あくまでも信長がやったこととして今までは描かれてきました。
しかし、この映画は浅井久政・浅井長政父子、そして朝倉義景の髑髏に金箔を施したものを出したのは明智光秀だったとしていたのです。
この解釈は初めてで、明智光秀の狂気を描き切っていましたね。お見事でした。
信長の修羅道に魅了された光秀。帰蝶の心の闇が信長に伝わり、その闇はいつの間にか光秀というモンスターを産み出していたのでした。
光秀の引用などで長くなってしまいました。残りは次回ということで。
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