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上京前夜 心の旅1 チューリップ「心の旅」

博多での最後のライブを終えた男は「じゃぁ明日」と言ってバンド仲間たちに手を上げライブハウスを後にした。

ライブハウスを出た男は左に折れ、福岡駅通りを北へ進む。しばらく歩き交差点の手前の喫茶店のドアを開けた。店の奥の席から控えめに手を振る彼女の姿が見えた。

男は席の後ろにギターケースを立て掛けコーヒーを頼んだ。彼女の前の席に腰をおろす。

「…」

黙って俯いたままの彼女を男は見た。言葉が出てこない。

こういう時、タバコが吸えたら間が持つのだろう…でも、喉を守るためにタバコは吸わないと決めたしな…男はそんなことをぼんやり思っているとコーヒーが運ばれてきた。男はホッとしてコーヒーを一口飲んだ。

ようやく彼女の口から言葉がこぼれた。

「ライブお疲れ様…」

「うん」

「いよいよ明日ね…」

「うん…明日ん今頃は汽車ん中たい」

男の言葉に彼女は顔をあげた。

「うちゃやっぱり東京へ行けん…」

「そっか…」

男は半ば予想していた答えだったとはいえ、彼女の口から実際聞くと思っていた以上に落胆した。

「あんたはうちより自分の夢ば追いかけたかと」

男は彼女の言葉を否定できなかった。実際、今のバンドメンバーは他のバンドから自分の夢のために引き抜いてきたという経緯がある。『バンド潰し』と陰口を叩かれていることも男は知っている。ミュージシャンは我が強くなければやっていけないと男は思っていた。

「分かっとったわ…遠く離れてしまやぁうちらは終わると」

「…」

彼女は目に涙を溜め、絞り出すように言った。

「あんたは夢ば追いかけて…応援しとーけん」

喫茶店を出ると、彼女は交差点を渡っていった。

このまま彼女を港まで連れ去り船に乗り込み一晩中彼女を抱きしめたい…男はそんな衝動を必死に抑えた。

男は彼女の後姿が見えなくなるまで見送った。

彼女は一度も振り返らなかった。

きっと彼女は泣いていたのだろう。明日、東京へ旅立つ自分にその顔を見せるのが嫌だったのだろう。

愛に終わりがあって
心の旅がはじまる

彼女の姿が見えなくなると、男は踵を返して自分の夢を叶えるため歩き出した。


博多から上京前夜、もしかしたら、こういう情景があったのかなと想像してみました。あくまでも私の個人的な想像です。

ちなみに文中の博多弁は「恋する方言変換」を使わせていただきました。

「心の旅」は、1973年4月20日に発売されたチューリップの通算3枚目のシングルで、これが売れなかったら地元の福岡に帰る予定だったとか。メインボーカルは当初は作詞作曲した財津が歌う予定だったがスタッフの意見により姫野達也が担当した。このエピソードからも夢を実現することを何よりも優先する財津和夫の強い想いが感じられる。

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