『世界は恋に落ちている』の、世界という主語について


CHiCO with HoneyWorksさんの『世界は恋に落ちている』を聞いていて思ったこと。

世界を主語にした、珍しい歌の題名だ。



なかなかない。

聞いたことがないという人に少しだけ歌詞の説明

 1番の歌詞は女の子Aさん目線の話。2番は女の子Bさん目線。AさんとBさんは好きな男の子が同じ。1番と2番でそれぞれの想いが綴られている。つまり、恋敵の話し。
 ただ、歌が終わってもどっちが成就するかはまだわからない。


 面白いのは、やはり世界を主語にしているところ。
 これまで、(恐らくこれからも)「私」を主語にした歌が多かった。「私」を主語にするのは良いことも悪いこともある。

 良いところは、1人1人に共感できるところが多いということだ。
 悪いところは、歌詞に共感できない時は音楽の都合に従わないといけないことだ。音楽の都合で強制的に「私」が救われる幻想をリスナーは見させられ続けてきた。現実は歌のように上手くいくことは少ないし。


(後味のいい音楽って半強制的にハッピーエンドな歌詞だよね)??


①世界を主語にしたこと、そして②1番と2番で目線を明確に変えたこと。この2つは、「私」支配からの脱却になったのではないか。

 その証拠として、『世界は恋に落ちている』を聴いた後は、歌詞に共感というよりも、恋ってこういう切ないものなんだな、青春なんだなと知らされた気がする。

↑知らされた、って安易に使ってしまった。ニュアンスは自分の感情を邪魔しないこと。聴いてる人の恋愛観とか感情を支配しようとしない。書き換えようとしない。


ただ、

(ここからが最も伝えたい)


 「恋愛とはこれこれなりけり」と説かれてるようで、臭いことは臭い。世界という主語は歌の登場人物や物語世界だけでなく、この歌を聴いた人の世界も含み、巻き込んでいく。これが音楽と言葉の力だと思っている。


 歌の中の人物も、歌の外の人物も「恋」という言葉に向き合わされ、それぞれが考えにふける。時に、過去の恋愛を思い出したりする。時に、今の恋愛を憂いたりする。未来に恋愛の希望を持つ。
 そこに見えるのは、私たちが恋愛を通して命を繋いできた連鎖、時間空間、歴史、その全体、人間という世界だ。


(話がどデカい)


物語と読者(聴く人)を「恋」という言葉、「恋」という音楽を通して繋ぎ、包み込む

それこそ、『世界は恋に落ちている』ではないか。


依頼: はゆたま

代理: note

制作: ゆ

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