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激流を流れる小舟~今年を振り返って~

 「竹有上下節」(竹に上下の節あり)というが、私にとって今年はまさに大きな節目となる年だった。
 3月に35年間務めた教員を早期退職した。まだ2年余り定年まで時間が在ったのに早期退職したのは、父親と家業である農業をするためというのが一番の理由だった。85歳を越えた老父と残された時間はそれほど多くはないというのが切実だった。妻は反対だったが自分自身の中で後悔は一切無かった。
 それでも経済的な事情もあり、農業と兼業できる仕事をした。4月から半年間、早朝5時から8時まで宅配便の仕分け業務に就いた。朝4時に起きてまだ夜明け前に肉体労働に行くのはなかなか大変だった。8時半に帰宅し朝食を摂ってから、父親と農作業。教員も確かに大変な仕事だったが、この年になって身体が締まっていくのが実感された。

 田植え作業が始まろうとする4月下旬、介護施設に入っていた母親が肺炎になり病院に入院した。コロナ禍でほぼ2年間対面できていなかったが、入院する時、ほんのわずかな時間だったが対面できた。しかし2年ぶりに会う母はまともな言葉を失っていた。「あー、うー」という言葉しか発することができなくなっていた。それでも、母は必死に僕に何かを訴えていた。(もしかしたら・・・)という思いが生じ、即座に父を携帯電話で呼び出し、本当に短時間だったが父も母と対面できた。ほんの1分間程の対面だったが、母も父を認識しているのがわかって、思わず涙が溢れた。その4日後、母は帰らぬ人となった。通夜、葬儀と慌ただしく対応する中で、ああ早期退職していて本当によかったと思った。

 母が亡くなっても苗は成長を待ってはくれない。母の喪が明けぬうちに、田植え作業を何とか終えた。4時起きの生活に戻り、薬剤散布や畦草刈りの日々が過ぎていった。今年の夏は異常に暑かったので、仕分け作業では汗だくになり、帰宅後シャワーを浴びてから、また田んぼに出て汗だくになりと、大変だった。それでも、身体を使って働いているという実感はある種の喜びと筋肉痛と共に感じられた。
 あまりに雨が少なく、高温が続いていたので、稲の稔りに不安があった。いよいよ稲刈りが始まったが、作柄はあまり良いとは言えなかった。早場米の1等比率は記録的な低さだった。父も不作だ不作だとこぼしていた。稲刈り、乾燥、精米、袋詰め、出荷とさらに肉体労働の日々が続いていった。北信越地区全体でコメの作況指数が悪いというニュースが流れる中、何とか1等米に選ばれたことは、父を大いに喜ばせた。嬉しそうな父を見て、私も共に喜んだ。

 コメの出荷生産が終わり、冷たい雨が続くようになると農作業が少なくなり、私はフルタイムの仕事に出ようと考えた。就職情報誌を見ていくつかの求人先に電話し、面接を受けた。30代の頃、ゴルフに熱中していたのでゴルフショップで販売員として働くことにした。13時から20時までの勤務ということになったので、早朝の宅配便仕分け作業は退職することにした。
 35年間教員しかしたことがなかったので、どんな仕事に就いても初めて経験することばかりで、それはそれで新鮮なのだが、やはり新しいことを一から学ぶのは何にしても努力が必要だ。ゴルフショップの店員は学ぶべきことが膨大だった。また、上司との人間関係が上手くいかなかった。勤めて半月後、心臓が苦しくなった。明らかにストレスからだった。私は店長に退職を申し出た。

 その後、ハローワークに通ったり、派遣会社に面接に行ったりして、10月下旬から派遣社員として機械製作工場に働きに行っている。20代、30代の若い社員が60歳に近い私にとても親切に仕事の仕方を教えてくれる。ありがたい職場だと感謝している。
 激流を流される小舟のように、今年1年の私の生活は揺れ動いた。そして、今もその流れに翻弄され続けているのかもしれない。明日はどこに向くのやら。来年はどこに流れ着くのやら。自分でも分からぬばかりだが、「人生は定めなきこそおもしろけれ」という気持ちで、来年も生きていきたい。


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