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山下公園と青春

40年前の話。

当時、わたしは美大受験に失敗した浪人生だった。

一応見苦しい言い訳をするなら、美大はいまでもかなり難しいけれど、あの頃は、さらに厳しかった。嘘じゃないのだが、わたしの一年下には8浪した猛者がいて、話を聞いたら、一度就職したとか、別の学校をやめたとかではなくて、純粋に8年間浪人していたという。入学時30も近いわけだが、まあ、そういう時代だった。

で40年前、わたしとその周辺はそうとう煮詰まっていた。

夏だったような気がする。

美大予備校は、いにしえの「白馬会研究所」とか「太平洋美術会研究所」の真似なのだろう、いまでも研究所と呼ばれる。

その日はそこの夏期講習かなんか受けていたのではなかろうか。あるいはただの普通の平日であったかもしれない。

とにかくこの研究所の浪人仲間が、デッサンも上手くならない、油絵はけなされるで、メンタル的にかなりまいってしまっていた。

そしてとうとう「海が見たい」的なことをいいだしたのだった。

もちろんいつもなら、何をばかなことをと、軽くあしらうところだが、悪いことに、ほかの連中も似たり寄ったりの精神状態で、この時は、「おおそうだ、海だ海だ」で話がまとまってしまった。

要するに皆、病んでいたのである。

結局われわれは、それでも4時まで真面目に講習をすませたあと、大宮から京浜東北線に乗りひたすら横浜を目指した。

なぜ横浜かといえば、埼玉の若者には海といったら横浜か鎌倉しか思い浮かばず、横浜の方が近かったからだろう。

当時他に路線はない。各駅停車である。

軽い高揚感があった。

一時間半後、初めて降りた横浜は都会だった。

少なくとも大宮よりも大きかった。

そこで埼玉の若者は立ち尽くす。

「海はどこだ?」

若者達は男女2名ずつ、計4人、誰もそこから先のことを考えていなかったのだ。

まだ夏の日は高く、都会の人々は忙しげだ。

しかたがないので、交番へいく。

「海が見たいのです」

こういうとんちんかんな連中がどのくらいの頻度で交番を訪れるのかはわからない。

若い警官はやや動揺していたから、あまりこないのであろう。

ただそれでも親切な彼は、「みんな山下公園とかよく行くみたいですよ」と、教えてくれた。

「山下公園」

なんと優美な響きであろうか。確かにその名は遠く埼玉にも伝わっていたのだ。

若者達は意気揚々と関内駅へと移動する。

中華街を抜け、赤い靴の像と、氷川丸の雄姿、そして憧れの海を目にした時、ようやく日は傾きはじめていた。

ついにわれわれは目的を達した。

「海だ!」

だが繰り返す。

若者達はここから先のことは何も考えていなかった。

その後の記憶はあまりない。

「こうしていると、俺たちカップルに見えるかな?」みたいな黒歴史的なことをつぶやいた気もする。

足元の波間には犬の死体が浮いていて、夕日に染まっていたこと、帰りの電車が長かったこと、虚しかったこと。

わずかに覚えている。

翌日は普通に講習にでた。

今日は知り合いの個展を訪ねて、石川町まで出かけた。

山下公園には、寄らなかった。

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