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父の話(6)

父は酔うとたまに九州弁を話した。
望まぬことではあったが、東京の小学生も、少しずつ鹿児島での暮らしにも慣れていったのだと思う。
そういえば酒も芋焼酎を好んだ。
後述するが、成人してすぐに九州から出ていったにもかかわらず、九州人としてのアイデンティティは育んでいたようだ。

ともかく父は、中学まではなんとか祖父の庇護を受けていた。

ところが父を鹿児島に呼んで5年もすると、祖父はまた彼を養子に出すと言い出したのだ。
一番の原因は貧しかったことだろう。
祖父が、子どもたちにまったく執着しなかったことは、それまでの行動から疑いようもないが、それにしても、である。
親のつごうで振り回される父は何を思ったのだろうか。

結局、父は高校に行かせてもらえる、というそれだけの理由で、この話しを受けた。
父としても、祖父を見限っていたのかもしれない。
この祖父についても、父はただのひとことも語ったことがない。

養子先はさほど遠くはなかったが、隣県の宮崎だった。
新しい保護者はもとは憲兵だか、特高だかの出で、戦争中は大陸で仕事をしていた人物である。
妻との間に子がなかった。

当時の価値観では、子どもがいないなら、養子をとってでも家は存続させねばならぬ。
この家も同じであった。
父にとって、残念なことは、Uさん夫妻と違って、ここの夫婦は父を愛さなかったことだ。

養父は、父が気を利かせて作った食事を、気にいらないと言ってひっくり返すような人物であったというし、養母の方は、「疑り深い人」とひとことで切って捨てられている。

ここにも父の安らぎの場所はなかったようだ。

最終的に父は30歳前に、この養子先の夫婦と縁を切って、正式に親子関係を終了している。
その後、この人たちがどうなったかは、まったくわからない。


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