見出し画像

建安文学について


初めに

こんにちは。田渕 創ノ介です。Note投稿第1作目は古代中華文学の「建安文学」についてです。

尚、本文では文字数の関係上、常体(~だ、~である)を用いている事をご了承ください。



プレリュード 建安文学とは

建安文学とはズバリ「建安」という時期に生まれた文学である。

「建安」とは中国の「後漢王朝」最後の皇帝「献帝」の年号で,196年から220年までの期間である。文学史的には,建安から明帝曹叡の233年ころまでの文学を「建安文学」と呼び,文学史上の黄金期の一つに数える。この時期は,建安文学の代表者「曹植」(192~232)の生涯にほぼ合致する。後漢朝は世襲豪族の政治・経済権掌握によって維持されていたが,外戚と宦官(去勢された男性官僚)の権力闘争によって崩壊におもむき,黄巾の反乱と軍閥の角逐によって,その命脈を絶たれた。

その約30年の間で実質的な最高権力者となっていた曹氏一族の「曹操」などを擁護者として、多くの優れた文人たちによって築き上げられた、五言詩・楽府を中心とする詩文学こそが「建安文学」である。

第Ⅰ部 漢代における中国文学 ~思想的文学からの脱却~

中国における文学の発生は古代であり、それは歌謡として祭祀の場を中心に生まれた。古代歌謡が神々と人々とが繋がりあう宗教的祭祀の場から生まれるということは、中国に限らず世界各国に見ることのできる普遍的な現象だと考えてよい。当然その内容は神霊への祈り、特に五穀豊穣と子孫繁栄を願う原初的でアニミズム的な祈りがその根底にある。『詩経』・『楚辞』の諸篇は、その形態や表現に大きな相違点はあるが、それは宗教的(呪術的)祈りを中心に据えるという点において、古代歌謡としての本質は同じである。

漢王朝(B.C.206 ~ A.D.220)の時代に移ると、孔子(B.C.552 ~ B.C.479)による「儒教」が国教化していき、中国における文学の定義や解釈が大きく変わっていった。この時代になると、ありとあらゆる文学が儒教の下に存在するものとして考えられており、一部の俗謡的な楽府を除いて、所謂文人の手になる作品においては、文字として表現することが第一義的に自己の感情表現としてあったことはほとんどなく、書き止めることで現実や社会と結び付ける関係性を、それは必ず持つものであった。つまり、この時代の文学作品はどれもこれも儒教を元に現実や社会と文学をリンクさせた、随分と思想的なものであったことが伺える。

具体例として挙げられる『毛詩大序』(『詩経』の大序)に表れた詩論は、詩(歌)が情の発露であることを言いながらも、それが「先王の沢」という儒家的規範の範囲内にのみ意味を持ち、また人倫を整えることがその最大の価値であり且つ目的であるという方向が示される。つまり、詩歌(文学)というものが、それによって社会を認識し改善するべきインデックスとして捉えられているのである。

この現実とリンクする文学という意識は、漢代に限られるものではなく、以後も中国の文学の決定的な特性となる。しかし、「表現する」という行為の持つ意味は、思想的に規定された意識とは別に、インディヴィジュアリズムを生まずにはおれなかった。社会或いは現実とリンクして自らの思想を論じるという目的性から離れ、人が「表現する」こと自体への欲求に、ある種の「価値」を見つけ出していった時代、それこそが建安の時代であった。

第Ⅱ部 曹操と建安文学

漢王朝は前漢の第7代目皇帝の「武帝」によって全盛期を迎え、漢帝国は東アジアにおいて大きな存在感を放っていた。しかし、途中で「新王朝(8~23)」というインターバルを挟みつつ、次第に漢王朝の国力は衰えていき、2世紀に入ると、幼帝が続き、外戚や宦官が政治の実権を握るようになった。宦官とは、去勢された男性官僚の事であり、古代オリエントや古代ローマ帝国、イスラム諸国にも存在した、世界史においてポピュラーな存在であり、中国では後漢の時代から次第に権勢をふるい始め、後の中華王朝でも一定の権力を保ち続けた。これに反対する儒教の教養を身につけた官僚や学者は、宦官によって弾圧され(党錮の禁)、国政は乱れた。また、地方では豪族が勢力をふるって農民を圧迫した。重税と豪族の圧迫に苦しんだ農民は、各地でしばしば反乱をおこした。とりわけ184年に華北一帯に広がった太平道の信者が教祖の張角を指導者として起こした組織的大農民反乱である「黄巾の乱」を契機として、群雄割拠の時代となり、後漢王朝の支配力は完全に失われた。やがて、群雄割拠の時代に三つの国が勃興する。いわゆる「三国時代」であり、『三国志演義』でお馴染みの「魏」「蜀」「呉」の三国がそれぞれ覇を唱え、互いに争いあった。その中でも「魏」の曹操とその一族について今回は着目していく。

大前提として三国志の史料は大きく分けて2種類あり、西晋による中国統一後の280年以降に陳寿によって記された『三国志』と、明王朝(1368 ~ 1644)時代に書かれた長編白話小説である『三国志演義』がある。この2つが今日までに紡がれている三国志のベースになっていると言っても過言ではない。しかし、日本においての三国志のイメージ像は後者である『三国志演義』の影響が強い。その理由として、まず主人公側が「蜀」の劉備玄徳・関羽・張飛・諸葛孔明などであり、片や今回取り上げる「魏」の曹操はもっぱらヴィランとして描かれる事が多い。これは『三国志演義』でも同じだからである。

そんな曹操だが、彼の半生について軽く紹介すると、彼は20歳で武職や県令国相を歴任した。武職とは今でいう軍人であり、県令国相とは現代日本でいう所の県知事である。つまり彼は20歳にして県知事に赴任という大出世を遂げていたのである。やがて彼は黄巾の乱の混乱に乗じて軍閥を形成する。この軍閥がやがて「魏」へ成長していき、216年に魏王の位につき、事実上の皇帝となった。

彼の性格を一言で表すなら「超エリートのエゴイスト」である。彼は、博識多芸で詩賦、草書、音楽、囲棋(囲碁)、方術などをよくし、また兵書や兵法に精通するなど、文武両面に優れていた。このようにスペック面では大変優秀だった。また、才能のある人材を積極的に登用する人材マニアでもあった。一方で、彼がヴィランとして描かれやすい一因として、非常に合理主義者であり、時に冷酷非情な一面もあった。危険で疑わしい人物であれば虐殺も粛清も厭わぬ覇業から「乱世の奸雄」と評された。その主な理由は二つある。1つ目は、漢王朝の宰相として彼は主家を奪った。具体的には、曹操は196年に後漢王朝の最後の皇帝である「献帝」を許(現在の河南省)に迎え、自身は宰相として献帝の政務の代行を執った。呉の軍師である周瑜は、「曹操は漢の丞相(宰相)であることをたてにしているが、実際のところは漢にとっての賊である」と決めつけてボロクソに貶している。2つ目に、曹操の残忍さである。父を殺された恨みから193年秋、50万もの大軍で「陶謙」の領土である徐州に侵攻、十数城を奪い、数々の戦に勝利、数万人を殺害した。また、通過した地域でも数多の人々を殺害し、曹操軍の通過したところは鶏や犬の鳴き声も聞こえず、骸だらけで川の流れがせき止められたと言われている。

ところで三国時代といえば、激しい戦が毎日のように繰り広げられていた印象であるが、実は、三国一の大国・魏では文学サロンが立ちあげられ、曹操をはじめとする詩文愛好家が自由に楽しく詩を詠んでいた。例えるならば、第2次世界大戦中に日本が一億総玉砕の総力戦で苦しんでいる一方で、アメリカでは戦争を優勢に進めつつ、さらに『トムとジェリー』を生み出していたようなものである。閑話休題。

第Ⅲ部 建安の三曹七子

建安文学の時代は曹操を筆頭に「五言詩」による詩文学が大きく発展した。「五言詩」とは、もともと漢字5字から構成されたもので、漢詩の一形式である「楽府(がふ)」と合わせて用いることで、「書く詩」ではなく、「詠む(読む)為の詩」として存在していた。ここまで述べてきたように、建安文学の発展の裏側には、曹操の影響が強くあったのは言うまでも無い。そして、その曹操に文学を認められ、大きな評価を受けたのが、「建安七子」と呼ばれる7人の者達である。漫画『ワンピース』に例えるならば、古代中華文学界の「王下七武海」と言ったところである。メンバーを紹介すると、孔融(こうゆう)・陳琳(ちんりん)・徐幹(じょかん)・王粲(おうさん)・応瑒(おうとう)・劉楨(りゅうてい)・阮瑀(げんう)である。彼らは旧宮廷文学の様式であった賦よりも,民間に起源をもつ楽府や五言詩に力を傾注して,詩の発展に大きな画期を作ったのである。そして、建安七子の上にはさらに上位的集団が存在しており、それこそが「三曹」と呼ばれる3名の人物達であり、同じく、漫画『ワンピース』に例えるならば、古代中華文学界の「海軍三大将」と言ったところである。メンバーは曹操・曹丕(そうひ:曹操の長男)・曹植(そうしょく:曹操の5男)である。この三曹と先述の七子を合わせて「三曹七子」と呼称される。

各人物をそれぞれ軽く解説していくと、「三曹」の曹丕と曹植についてだが、まず、曹丕は同母弟の曹植に対して並々ならぬコンプレックスを抱いていた。それは、文学的な才能が曹植のほうが曹丕に比べて高く、世間から高い評判を得ていた事や、父親の曹操が曹植のほうを可愛がっていた事である。やがて彼は父の後継者として魏王となり、後漢より禅譲を受けて皇帝となった。彼の文学的才能は曹植に比べれば一歩劣るものの、それでも当時の世間の評価は高く、現在でも彼の文学的才能への評価は高い。しかし、余りにも幼少期からのコンプレックスや嫉妬心が強すぎた影響で、時として父の曹操よりも冷酷且つ残忍な一面も覗かせることがあり、後の世で生み出された三国時代の創作物でも彼は、怜悧で冷徹な2代目として描かれる事が多い。

一方で同母弟の曹植は中華文学史上、黄金期の一つである建安文学のトップに位置する程の文才であった。文才豊かな父の曹操や兄の曹丕をも凌ぐ才能をもち、七子を始めとした当時の名だたる文人が彼の教育係であったため、超エリート教育を余すことなく受けた。その影響か、建安文壇の実践的集大成者となった。幼い頃から才能を発揮し、10歳あまりで古典を暗誦すること数10万字、よく文章を綴ったという、まさに英邁というべき存在である。冷遇された兄とは反対に父からは溺愛され、その期待を受けて太子(王位継承者)に擬せられ、実の兄の曹丕と王位継承を争ったが、結局敗れてしまい、曹操の死後、即位した兄から疎まれることになる。常に王宮から派遣された監視役の目が光る状態で、幽閉されたまま享年41歳で生涯を閉じたという切ない一生から、三国時代においての悲劇のヒーローとして語られる事が多い。

少々、論旨から外れるが、この曹操の息子である曹丕と曹植は、共に文才も非常に高く、後世に大きな影響を与えていることも共通している。しかし、彼らの文才の方向性には相違点があった。具体的に述べると、革新的な新しさがあり、リベラルな傾向が強いのが曹丕の詩であり、保守的であったのが曹植の詩でもあった。故に、新しさを追求した曹丕の詩よりも、ザ・王道の作品であった曹植の詩の方が世間からのウケが良かったというのも事実である。

七子のメンバーも一部(7人中3人)軽く紹介する。まず、孔融について紹介すると、彼は魯国(周から春秋・戦国時代に、山東省にあった小国)であり、かの孔子の20代目の孫である。幼い頃から才気煥発、世に名を知られていた。13歳で父を亡くしたが、その後も官職に恵まれ、後漢の清流派官僚として宦官の汚職を摘発するなど辣腕を発揮した。しかし、時代が混沌としてくると、その大きすぎるエゴと自らの能力の限界の間で迷走を続けた。結局、太中大夫の任にあった建安13年(208年)8月、曹操の命により不敬罪に問われて、処刑された。孔融の作品は高い風格と独特の緊張感を備えており、曹丕は「彼の気はまことに卓越している(『典論』)」と評し、劉禎もまた「孔融の文は卓絶で、まことに非凡の気があり、その天分はとても他の作家が努力しても至りえぬものがある(『文心雕竜 第28風骨』)」と賞賛した。曹丕は父によって誅殺された彼の作品を愛し、孔融の遺稿に懸賞をかけて集めさせた。しかし、かえって懸賞目当ての贋作も多く紛れ込んでしまい、現在、孔融の作品として伝えられているものには、本当に自身の手によるものか疑問視されている作品も多い。彼は三曹に従順であった七子達の中で唯一、曹一族に反抗した人物である。代表作は『臨終詩』。

王粲は、山陽高平(現在の山東省西部)の人であり、一族は代々豪族で、曽祖父の王龔、祖父の王暢はともに後漢の三公となった。17歳の時、後漢の大学者(著名で偉大な学者)の蔡邕(さいよう)に認められ、「これ王公の孫なり、奇才あり。われ如かざるなり。吾家の書籍文章ことどこく将にこれに与ふべし」とベタ褒めされて、蔵書を譲り受けた。17歳で黄門侍郎(皇帝の勅命を伝達する官職)に任ぜられたが任官せず、世の乱れを避けて荊州の劉表を頼った。しかし王粲自身は俗にいう、パッとしない人物だったので、重く用いられなかった。15年後、荊州平定に赴いた曹操に召されて丞相掾となる。丞相掾とは、今で言う国の首相にあたる丞相を補佐する役職である。ついで軍謀祭酒(軍事に関する役職)となり、関内候の爵位を賜わった。217年、孫権征伐に従軍した際、他の建安の七子と共に疫病で亡くなった。享年41歳。記憶力に優れ、一度見た石碑を一字違わず暗誦した話や、ぐちゃぐちゃになった碁盤の石を元通りに戻した話などが残っている。博学多才、算術から儀礼に関することまで詳しい一流の知識人だった。文人としても詩賦に巧みで、『詩品』では、曹植・劉楨と並んで上品に置かれる。『文心雕竜』「第四十七才略」では、「王粲は才華溢れ、敏捷にしてしかも周密であり、その文学は多くの長所を兼ね備えて、文辞にも瑕(きず)が少ない。その詩や賦をさして論ずれば、建安七子の中の最高であろう」と評される。またトークの才能にも秀でていて、彼に弁舌でかなうものはいなかった。『三国志』の注によると彼の欠点は「戇(馬鹿正直なところ)」であったとされ、「杜襲伝」には同僚の杜襲が曹操に重く用いられたことに露骨に嫉妬した話が残っている。彼の作品には、その純粋で裏表のない人柄がよく表れている。 王粲には2人の息子がいたが、219年、魏諷のクーデター計画に荷担したため殺された。その時、曹操は遠征中で、後からその知らせを受けて、「もし儂がそこにいたなら、仲宣の後継ぎがなくなるようなことはさせなかったのに(孤若在、不使仲宣無後)」と嘆いたという。王粲が蔡邕から譲り受けた蔵書は、このときすべて没収されたが、文帝の世になって、同族の王業に与えられた。代表作は『雑詩(日暮遊西園)』。

徐幹は、北海国(現在の山東省濰坊市一帯)の人である。曹操に召されて司空軍謀祭酒になっている。徐幹は個性派ぞろいの文壇の面子の中、異色なほど礼儀正しくまっとうな人物だったらしく、曹丕は、「恬淡(てんたん)寡慾、彬彬たる君子(『呉質に与うる書』)」とその人柄をベタ褒めした。弟子が寄せた『中論』の序で、徐幹は建安23年(218年)春2月に疫病で亡くなったことになっているが、建安の七子が病に倒れたのは217年春のことで、状況から没年は217年とした。建安七子の中では劉楨と特に親しく、互いの想いをつづった詩を贈りあった。代表作は『室思(しつし)』。

第Ⅳ部 建安文学の特徴

ここまで、建安文学の歴史を中心に論じてきたが、この第Ⅳ部では、その内容について中心に論じていく。建安の文学は、中国文学史における本格的なスタートラインであり、ここに現れた重要な特徴は、以後の文学の基本形となる。まずは詩が曹操や曹植など「特定の個人」によって作られ、世に伝えられることである。それまでは、『詩経』が全て作者不明の歌謡であることや、『楚辞』のキーパーソンである「屈原」についても実在が疑問視されていることなど、古代文学が詩歌の作者が特定されない段階にあるのに対する大きな躍進である。また、四言中心の『詩経』や、四言・六言などを入り混ぜる、比較的フリースタイルな『楚辞』に対して、整然とした五言詩を主体とする点でも、建安の文学はその後の中華文学詩の模範となっている。

建安の文学には、さらに2つの特徴がある。第1は、漢王朝末期の混沌とした社会の実情に対しての批判・嘆きや、個人的な喜怒哀楽など、様々な感情表現が多い事である。それらは非常に激情的で、今で言うロックに溢れるものであった。第2は、戦乱を平らげて国家を建設しようとする旺盛な政治的意欲である。こうした特徴は、建安文学が、曹操という当時の政治と社会に最大の責任を持つ権力者によって主導されていたことと表裏の関係にある。文学は、政治的選良(今で言う、社会的エリート)によって担われるべきだとする中華文学の独特の考え方は、ここから生まれたといっても過言ではない。

第Ⅴ部 曹操『短歌行』

ここからは建安文学の代表作の一つである、曹操の『短歌行』を紹介していく。『詩経』の伝統継承をベースにおきつつも自己表白や感情吐露の要素を徐々に加えて言った漢代の詩歌は、曹操の楽府に至って大きな展開を遂げる。先述したように、曹操は詩歌の世界にそれまでにない新しい可能性を切り開いた。曹操の作品として残されているものはほとんどが楽府である。そしてその楽府は漢代的な主題から逸脱してまでも、おのれの内から沸きあがる感慨を直裁にダイナミックに歌うものであった。

民間歌謡の流れを引く楽府の形態に、現実的なエモーションを激しく注ぎ込んだ曹操の作風を高く評価したのは、魯迅(1881~1936:近代中国の小説家。代表作は『阿Q正伝』『狂人日記』)である。魯迅は曹操を「文学を改造した祖師」と呼び、さらに漢末魏初の新しい文学の気風を「清峻で通脱なる風格」と評した。そんな曹操の楽府として、『詩経』の引用に際立った特徴を見せる「短歌行」の一部を挙げて、本レポート筆者の意見や感想も述べていく。なお、次の詩は下記の引用・参考サイトの⑤にあたる「漢詩の朗読 短歌行 曹操孟徳」から引用したものである。

對酒當歌
人生幾何
譬如朝露
去日苦多
慨當以慷
幽思難忘
何以解憂
惟有杜康

酒に對《たい》して當《まさ》に歌ふべし
人生 幾何《いくばく》ぞ
譬《たと》へば朝露《あさつゆ》の如《ごと》し
去る日は苦《はなた》だ多し
慨《がい》して當《まさ》に以《もっ》て慷《こう》すべし
幽思《ゆうし》忘れ難し
何を以《もっ》てか憂ひを解かむ
惟《た》だ杜康《とこう》有るのみ

酒を前にしたら大いに歌うべきだ
人生がどれほどのものだと言うのか
たとえば朝露のようにはかないものだ
過ぎ去っていく日々は、あまりに多い
気分が高ぶって、いやが上にも憤り嘆く声は大きくなっていく
だが沈んだ思いは忘れることができない
どうやって憂いを消そうか
ただ酒を呑むしかないではないか

⑤ 漢詩の朗読 短歌行 曹操孟徳(最終更新年:2012年)
https://kanshi.roudokus.com/tankakou.html

この詩からは、先の第Ⅳ部で述べた二つの特徴が顕著に表れている。まず、曹操個人の感情表現が非常によく表れている。彼は「人生は一度きりで短いものだから、不満や悩みを溜め込むくらいなら、強いお酒でも飲んで愚痴って歌おうぜ!」と、序盤に述べている。「杜康(とこう)」とはメチルアルコールを含んだ致酔性飲料であり、現在の飲み物に当てはめるならば「ストロングゼロ」に近い、非常に強力なお酒である。

あの稀代の奸臣であった曹操も、現代日本に生きる我々のように、何か辛い事や苦しい事があった時は、強いお酒を飲んで酔っ払って、それぞれの愚痴や想いを外に出していたことを鑑みると、三国時代の英雄である彼も同じ人の子であったことが伺える。

青青子衿
悠悠我心
但爲君故
沈吟至今
幼幼鹿鳴
食野之苹
我有嘉賓
鼓瑟吹笙

青青《せいせい》たる子《し》が衿《えり・きん》
悠悠《ゆうゆう》たる我が心
但《た》だ君が爲《ため》故《ゆえ》に
沈吟《ちんぎん》して今に至る
幼幼《ユウユウ》と鹿は鳴き野の苹《よもぎ》を食《く》ふ
我に嘉賓《かひん》有らば
瑟《おおごと・しつ》を鼓《こ》し笙《しょう》を吹く

青々とした襟の学生諸君よ
私の心は君たちを求めてはるかに漂い、
ただ君たちを待ち望んで
今まで思いにふけってきたのだ
ユウユウと鹿は鳴き
野のヨモギを食う
そのように私に大切な客人があれば、
瑟《おおごと・しつ》を奏で、笙を吹こう

⑤ 漢詩の朗読 短歌行 曹操孟徳(最終更新年:2012年)https://kanshi.roudokus.com/tankakou.html

ここでは、曹操の内面を語る上で欠かすことのできない「人材マニア」の一面が表れている。当初で述べたように、彼は魏蜀呉の三国の皇帝達の中で最も人材登用に積極的であった。彼の登用のスタンスは「とにかく能力が高ければ採用する!」というものであった。彼は、群雄割拠の時代から熱心に人材を探し求めて、どんなに破天荒な者であっても、能力さえあれば、敵でさえ用いていたのである。

その人材の一例を挙げると、郭嘉(かくか)という大変優秀で、曹操から最も重用された軍師がいた。もしも彼が208年の「赤壁の戦い」の時に生きていたなら、魏は蜀・呉連合軍に勝てたかもしれない、と言われている程優秀だった。日本で著名な三国時代の軍師といえば、蜀の諸葛孔明や呉の周瑜が挙げられるが、魏にも孔明や周瑜に引けを取らない程の優秀な軍師が実はいたのである。

優秀な人材を大変重用していた曹操であるが、魏の国家を作り上げる際に、ただ闇雲に優秀な人材を集めていただけではなく、同時に教育機関を整備して人材育成に励んでいたのである。このような柔軟で寛容的な施策が魏国を三国屈指の大国に押し上げたのかもしれない。

フィナーレ まとめ&完走した感想

このように建安文学は、曹操という1人の稀代のカリスマが発端となって起こった文学の一大ブームであることが分かる。しかし、曹操が一人で建安文学を大成させたのではなく、彼の性格的・思考的特徴の1つである、人材マニア・登用好きな面が「建安七子」という7人の優秀な文学者達を呼び寄せて、彼らによって後世までに語り継がれる作品が紡がれ、残されていったのである。

それらの作品には、漢王朝の時代から普遍的な存在となった「儒教」の存在や、同じく普遍的な文学スタイルの「賦(古代中国の韻文における文体の一つ)」の存在などに囚われることの無い、伸び伸びとしたフリースタイルな文学が生まれていったのである。そして、そこでは文学者たちの思い思いの感情が時に力強く、時に悲しく、時に怒りに身を任せて、時にロック精神に溢れた物など、様々なヴァリエーションの作品が生まれていったのである。

個人的な感想としては、今まで筆者は三国志のイメージとして、まず蜀の劉備玄徳・諸葛孔明・張飛・関羽の四名が思い浮かび、今回の主人公である曹操はどうしてもヴィランとしての印象が拭えず、残虐非道なイメージがあった。が、本文を執筆していく中で、超優秀・合理主義で冷酷な一面もあるという、若干いけ好かない一面はあるが、『短歌行』から覗くことが出来る彼の人間臭さから愛着を持った。どうしても日本は判官贔屓の気質が強いので、強大な魏国に立ち向かった弱小な蜀国、とりわけ先述の四名が創作物やゲームなどで人気を博している。しかし、近年では中国でも日本でも曹操の魅力も再確認されていることも事実であり、個人的には曹操の魅力をもっと世間が知ってほしいと感じた。

最後に、参考文献があまり入手できなかったので、インターネット記事からの引用・参考部分が多くなってしまった事を反省している。

2023年10月2日


参考・引用文献

①     牧角悦子『二、建安における「文学」』
(年度不詳:国立研究開発法人科学技術振興機構Japan Science and Technology Agency)

②     福山泰男『建安文學の形成と展開』論文内容の要旨
(2011年:東北大学 機関リポジトリ)

参考・引用インターネット記事・サイト

①     コトバンク:建安文学(出典:株式会社平凡社『世界大百科事典 第二版』)
https://kotobank.jp/word/%E5%BB%BA%E5%AE%89%E6%96%87%E5%AD%A6-1163551

②     コトバンク:曹操(出典:小学館『日本大百科全書』)
https://kotobank.jp/word/%E6%9B%B9%E6%93%8D-89519

③     早稲田大学 中国詩文研究会(最終更新年:2020年)
https://w3.waseda.jp/assoc-shibunken/traditionalchinesetextbook/bungakushi/

④     二松学舎大学 ホームページ『第四回 曹操(一)』
https://www.nishogakusha-u.ac.jp/gakubugakka/special/chubun01/04.html

⑤     漢詩の朗読 短歌行 曹操孟徳(最終更新年:2012年)
https://kanshi.roudokus.com/tankakou.html

⑥     三国志の英雄「曹操」の生涯を語る(2023年:China Highlights)
https://www.arachina.com/attrations/sanguo/renwu/cc.htm

⑦     なんでも三国志『曹操・曹丕・曹植・建安七子合わせて、三曹七子』(最終更新日:2021年8月22日)
https://daisuki-sangokushi.com/2021/08/22/%E6%9B%B9%E6%93%8D%E3%83%BB%E6%9B%B9%E4%B8%95%E3%83%BB%E6%9B%B9%E6%A4%8D%E3%83%BB%E5%BB%BA%E5%AE%89%E4%B8%83%E5%AD%90%E5%90%88%E3%82%8F%E3%81%9B%E3%81%A6%E3%80%8C%E4%B8%89%E6%9B%B9%E4%B8%83%E5%AD%90/

⑧     はじめての三国志『曹操の人材登用法が魏国の安定をもたらす!能力主義者・曹操の二段構えの政策とは?』(最終更新日:2023年1月22日)
https://hajimete-sangokushi.com/2017/01/23/%E6%9B%B9%E6%93%8D%E3%81%AE%E4%BA%BA%E6%9D%90%E7%99%BB%E7%94%A8%E6%B3%95%E3%81%8C%E9%AD%8F%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%AE%89%E5%AE%9A%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%99%EF%BC%81%E8%83%BD%E5%8A%9B/

⑨    別館 建安文学の館(最終更新年:2016年)

http://sikaban.web.fc2.com/kenanbungaku.htm


ここまでお読み頂き、誠にありがとうございました。
他の記事も是非お読み下さい。

ご感想・ご意見等ございましたら、是非コメントをお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?