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【中編小説】 Deneutralized, neutralized (Part 3)

第67回群像新人文学賞に応募した作品です(結果は一次落ちでした)。
面白いのでぜひご覧ください🙂‍↕️

なお、縦書きでもご覧いただけるように縦書きverのpdfを用意いたしました。
よろしければご活用ください。

こちらはPart 3となります。
・Part 1はこちら
・Part 2はこちら

それでは以下よりPart 3本文になります。


 爪が割れ、剥がれ落ちるのにも気づかぬままに、男はハンマーを打ち下ろしていた。ハンマーと金属がぶつかる度に火花が散って、暗い作業場が一瞬明るく照らされるが、部屋の中の物やその配置が光に記憶されるより先に作業場は再び闇の中だ。水曜日の午後を除いて毎日毎夜、男の家からは工具を取り扱っている音が聞こえた。時々、寝坊した内装工事業者の新米が現場と間違えて侵入してしまい、額にハンマーの痕をつけて慌てて外に逃げていく様子が見られた。男の家の外の石垣には水と草とメダカが入った大きな壺が並んでいて、賽銭箱代わりに小銭を入れて拝む人もいた。近隣の住人の誰も、男が何をしているのか知らなかった。この辺りにはどういうわけか歯が悪い者が多かった。皆が懇意にしている八百屋の果物に、特別に甘く感じるような不健康なエキスが注入されているためであるという噂があったが、その店の果物のあまりの甘さとみずみずしさには、歯の健康など些細なことでしかなかった。ハンマーの音は鳴り続けた。虫歯に響く不快な金属音による不眠と極度のノイローゼに耐えかねて警察に連絡する者が今まで何人か現れたが、翌朝には必ず、通報した者の家の玄関の扉には、報復としてよく練られたひき肉が塗りたぐられ、さらに以下のような張り紙が貼られた。
「人には人の、お似合いの、姿形を、人の形を、
お似合いの形、人の形をお似合いの、」
どんな街にも一人は噂の種になるような変わり者が住んでいるものだが、この街では、この男がその「変わり者」だということのようだった。
 ある日曜日の朝のことだ。アメリカにいるその頃のスティーブ・ジョブズの頭では、ちょうどiPhoneのアイデアを真剣に検討し始めたくらいでまだ物としては実現していない頃だったから、空間を飛び交う電磁波の量は圧倒的に少なく、また人々はYouTubeにアップロードされたかわいいシベリアンハスキーの動画のせいで休日を棒に振るようなこともなかった。男は鼻毛の処理に悩まされていた。男がいつも引きこもって作業している、一軒家の自宅の庭に建てられた掘立小屋の中は金属の微粒子や木屑が舞っていたので、男の身体が防衛のために鼻毛を長くするようホルモンを分泌して促していたのである。男はお得意の工作技術で鼻毛を切る道具を作ろうとしていた。工作小屋は朝だというのに相変わらず真っ暗だ。暗いから当然だが、男は手元が見えず、作業は難航した。男には光を見るとくしゃみが出てしまう「光くしゃみ反射」があった。その程度が特別ひどかったので、一日中、暗いところにいるのだった。男が怪鳥のような大きな奇声をあげ、それに驚いて男の家の石垣から一度去って行ったハクセキレイの小さな心臓の高鳴りが収まり、元の場所へとようやく戻ってくる頃、やっとのことで鼻毛切りのプロトタイプが完成した———有り合わせの回転するDCモーターのシャフトに、折って小さくしたカミソリ刃を三枚直角につけただけの代物で、刃は剥き出しだった。男の午前中の叡智の結晶であるこのプロトタイプ第0号は、ギリシア神話の知恵の女神にちなんで「メーティス ZERO」と命名された。
 男は早速メーティス ZEROを自分の鼻毛を切るのに使ってみたが、男の鼻毛が鼻水で汚れていてかなりの粘性があったためか、刃でうまく切れず、鼻毛が回転軸のまわりに巻き取られる形でブチブチと抜けていった。
い、痛い!
 その午後、男はこの失敗の原因を調べ上げ、鼻息荒く改良に勤しんでいたので、近隣の人々はいつもよりも大きなハンマーや工具の音を聞かされる羽目になった。時折苛立った男の怒鳴り声が聞かれたが、慣れたものでハクセキレイは二度目は驚かなかった。
 男が鼻毛切りの改良版「メーティス ULTIMA」を開発し終えた時には、何匹かのカラスが、家の外の道路で鳩をなぶり殺しにしていた。太陽は沈みかけ、男の家の屋根の瓦や庭に建てられた作業小屋のトタン屋根のひだが、熟れたマンゴーのような赤色をした夕陽に照らされていた。メーティス ULTIMAに施された改良の一つは、まず単純に、刃の切れ味を徹底的に磨き上げた点である。もう一つの重要な変更点は、鼻毛と刃の角度を直角に当てるために、多量の刃を、シャフトに対して様々な角度で設置した点である。鼻腔の中で鼻毛が生えている方向は、生えている場所に大きく依存しているため、メーティス ZEROのようにシャフトに直角に刃がついているだけでは、全ての場所の鼻毛に対して刃を直角に当てることが難しい。そこで、様々な角度の刃を取り付けることによって、そのどれかの刃が鼻毛に対して直角にミートし、着実に毛を切ることができる———男の考えは概ねそのようなものだった。これは期待が持てるぞ、男は成功の予感による興奮を抑えるために胸に手を当て深呼吸すると、メーティス ULTIMAを手に取り、再び自分の鼻毛を切り始めた。
い、痛い!
一体何だこれは、まるで拷問器具じゃないか! 男の鼻腔は様々な角度で傷つけられ、血まみれになっていた。呼吸をするだけでヒリヒリと痛んだので、口で呼吸するしかなかった。大体、真っ暗な部屋で作業なんかできるわけがないじゃないか! 今まで俺は、自分を甘やかし過ぎたのに違いない。というのも、くしゃみ程度のことを避けるために光を浴びずに生活するなんていうのは、明らかに軟弱者の発想だからだ。口呼吸を続けていたので口の中が渇き、砂漠のようだった。鼻血が流れ続けた。男は鼻の血管がドクドクと脈動するのを感じていた。俺は砂漠に行ったことがない。砂漠には、砂砂漠、礫砂漠、岩石砂漠の三種類があるが、俺が一番興味があるのは当然、砂砂漠だ。時は来た! 俺は暗がりから外に出なくてはならない! そう嘯いて男が振り返って扉を開けようとした時、どういう訳か扉が自動的に開いた———そして真夏のセブ島のホワイトビーチを連想させるような眩いばかりの太陽光と、二人の小さな子どもの声が作業小屋の中に飛び込んできた。
「お父さん、父の日おめでとう!」
それはハンマーの男の娘と息子の声だった。姉が雪乃、弟が哲史。苗字は高谷(タカタニ)である。つまり、ハンマーの男の苗字も高谷だ。先祖が高い谷に住んでいたためである。
「お、うう……」
男は子どもたちに構っているどころではなかった。陽の光が鼻の付け根をくすぐり続けて、くしゃみを抑えるのに必死だったからだ。しかし、今は夕方だというのに、これほど外というのは光が強いものだったか……。それはつまり、この強烈な光の源は太陽なのではなく、ハンマーの男にとって、雪乃と哲史がまるで太陽のようだったということなのかもしれない。結局耐えきれずにくしゃみをすると、大量の鼻血が男の二つの鼻の穴から吹き出してきた。それを見て雪乃と哲史は、両手を頬に当て悲鳴を上げた。
 事実、雪乃と哲史は、太陽のような子どもだった。二人は父の日のプレゼントとして、鼻毛の処理に悩まされている父を案じ、駅前の商店街の中程にある家電量販店でPanasonic製の鼻毛切りを買ってきてくれたのだ。男は鼻毛切りというものがそもそも商品として存在していることを知らなかったので大変驚いた。しかしそれ以上に、雪乃と哲史の身長がまた3cm程伸びているように見えるのにも驚いた。男がいつ頃から引きこもりがちになり、周りのことにも疎くなっていったかは男の家族も含めて誰も覚えていないが、男が作業小屋の暗闇にいるうちにも、世界は生真面目な魚類のようにせっせと動き続けているのだ。それが男には素晴らしいことのようにも感じられたし、恐ろしいことのようにも感じられた。
 それはつまり、男がプレゼントの鼻毛切りを大事にしまうための革製収納ポーチを作ろうと計画しながら布団で微睡んでいる時も、世界は動き続けているということだ。どこか遠い夜の砂砂漠で、一人の若い青年が家を出て歩き始めた。青年は緑の布で全身をすっぽり覆っていて、腰には水を入れるための、羊の皮革で作られた袋を下げていた。夜空には雲ひとつなく、ただ星々が戯れていた。何も音が聴こえない。自分の足音や心臓の音、呼吸の音も、やはり聴こえない。この静けさには覚えがあるぞ、と青年は思った。この静けさは、俺がこの世に生まれる前に居たあの巨大な虚無とそっくりだ。夜中にこっそり家を出てきたので、家族にもまだバレていないはずだった。自分の他には、動いている物は何一つ存在しないように思われたがそんなことはない、青年の足元から砂に隠れていたトカゲが慌てて逃げていった、その進み方はまっすぐではなく大きく左に弧を描くような軌道で、それはこの砂砂漠が平らではないことを示していた、砂でできた巨大な波のオブジェ、風が吹く度に形を変える、無限の大地の揺らぎの中を青年は歩いていた。今は風は吹いていない。ところどころに、ほんのわずかな灌木が生えている。延々と続く砂地を超えたはるか遠くの地平線には、どの方角にも赤茶色の巨大な岩の塊のようなものが見えるが、地平線と空が親密そうにお互いの領域を犯しあっていたので、それらの岩の塊は、夜空から墜落してきた星々のようでもあった。青年は一歩一歩、なるべく足首や足先に負担がかからないように慎重に歩いていた。長い旅路が予想されたためである。これから先に直面する困難や、経験するであろう数々の失敗を思うと、青年の顔は自然と下に向き、その目には、歩く度に流動する足元の砂以外の物は何も映っていなかった。いや、それだけではない、実は先ほどから千歩に一回くらいの割合で、足元に小さな赤い花が咲いているのに気づいていたのだが、青年は気づかないふりをしていた。この地に生きるものとして当然、この赤い花の名前や薬効まで知っていたのだが、それを思い出さないようにわざと別のことを考えた。足元の砂に木の棒で絵を描きながら、この赤い花について丁寧に教えてくれた兄の顔が頭に浮かんで、悲しくなってきてしまうからだ。このまま歩き続けることが、億劫になってしまうのに違いないからだ。「私はなぜ、兄さんや家族のもとを離れて、こんなところを歩いているのだろう、一体何が、私をこのように駆り立てたのだろう」と青年が呟く声は、突然吹いた強い風にかき消されてしまった。顔に巻いた砂除けの布ごしに青年の咳き込む音が聞こえてきた。風が落ち着いた後に辺りを見回すと、砂のうねりや形や表情は、さっきまでの見知ったものとは変わってしまっていた。
ハンマーの男は、朝起きると、自分が見慣れない部屋にいることに気づいた。四畳半ほどの部屋に、布団と扇風機、後は壁際の床に平積みされた週刊誌と青年漫画。床にはカーペットが敷かれているが、ところどころ黒い黴が繁殖していて、それが男に妙に親密な印象を与えた。どこか外の、下の方で、バケツをひっくり返す音や自転車の鈴の音が聞こえてきた。ここは二階だ。タバコのヤニで黄色く変色した壁には、巨人の仁志のサイン入りポスターが飾られていて、それを見てようやくハンマーの男は、自分がどこにいるのかを理解した。庭に建てた狭い作業小屋で身体をくの字に折り曲げながら眠ることが続いていたので気づかなかったが———まぎれもなく、そこは家の二階の、ハンマーの男の部屋だった。男が部屋を出て階段を下ると、階段の下の段ボールの山から、雪乃と哲史が水のペットボトルを出しているところだった。
雪乃と哲史はそれぞれ小学五年生と二年生で、三歳離れていた。この「三歳離れている」というのは文字通りの正確な表現である。というのも、誕生日は二人とも一月十九日だったためであり、そのため、人の妊娠期間の目安として昔から言われている十月十日の理論を援用すれば、彼女らの両親であるところのハンマーの男:浩一(コウイチ)とその妻:友梨(ユリ)の性行為が行われた日を推定することができるのだったが、そんなことを計算して喜んでいる人間は、この辺りでは例の極度に甘い果物を売っている八百屋の夫婦だけだった。甘いものを好む人間は、人の甘い噂話が大好物なのだ。ハンマーの男である高谷浩一は甘いものが嫌いで、イカ本来の僅かな甘みが完全に打ち消されているような塩っ辛いイカの塩辛と、焼酎を愛した。時々、お手製の燻製チーズでウイスキーも飲んだ。
雪乃は、中学生に成長した時、このように誕生日から十月十日遡ることで、自分が誕生するきっかけになった両親の性行為がいつ頃行われたのか逆算する術を、友達から借りて読んでいた漫画『さよなら絶望先生』で知った。性的なものに関して非常にデリケートな時期だったので、自分の誕生日が性的なものと結びついたことに何となくショックを受けたのか、中学二年生の時の誕生日祝いの日には、せっかく両親が十四本のろうそくとケーキ、それに雪乃の好物であるマスカットをなんとか用意したというのに自室に閉じこもって食卓に現れなかった。ハンマーの男とその妻は大変心配し、何度も雪乃の部屋の扉の前に行っては、扉の下の隙間から手書きのメモ書きを差し入れた。弟の哲史は、姉が食べない分、ケーキがたくさん食べられるといって喜んだが、食べ過ぎて夜中にゲロを吐いてしまった。その時に哲史の部屋の壁についたゲロの跡は、哲史がやがて成長してこの家を出ていった後も、遠い未来に黄色い中型ユンボによってこの家が取り壊されるまで、居住者を見守るようにそこに残り続けた。
 家も、家族も、ペットも、友人も、恋人も、国も、あるいはそんな大袈裟なものではなく、例えば愛用のシャープペンシルやスツールや靴ベラと言ったものも、どんなものでも、いずれは滅び去っていってしまう……。そんな世界中から集められた諦観を睨みつけるかのように、まるで人類のしぶとさを体現するように、標高九百二十九メートルの山の山頂では、荒廃した世界を眼下に見下ろしながら、人々が寄り集まって生活をしていた。二一一四年、東京都青梅市の御岳山は、人類の生き残りが集う最後の砦だった。いや、実際のところ、ここ御岳山以外にも人間の生存者たちはいるのかもしれない、世界の広さを考えれば恐らく世界中に点々と生存者たちの集落が存在すると考える方が妥当なのだろうが、それを裏付けるような証拠は今のところ見つかっていない———御岳山岳救援隊によってこれまでに行われた6回の「広域探検」では、そのうちの3回は海を渡って数年にわたり実施されたのにも関わらず、他地域の人類の生存を示すどんな兆候も見出すことができなかった。「世界の地表の面積はおよそ一億五千万平方キロメートルもあるというのに、我々に与えられた土地はいかばかりでしょうか。すぐ目の前には、かつて文明の灯りがともっていた平地が広がっているのを毎日その気がなくても確認できるというのに、私たちは、巨人のつま先のようなこの山地で、油一滴、布一枚とも無駄にできないような不便な生活を強いられています。まるで盗人のようにこそこそと、本来持つべきでない罪悪感までもたされて、危険な平地に降りて行って廃品を少しずつ回収しては、主人に施しをもらった奴隷のように、卑屈な心で、後生大事に自分たちの生活を愛するように強要されているのです。これが、長年にわたり文明の発展に尽くしてきた我々人類の正当な報いであると言えるでしょうか。昨日、仲間のハサムが、ケーブルカーの麓の駅で亡くなっているのが発見されました。喉元を銃弾が貫通しており、また流された血の量は夥しい量でした。こんなむごい真似ができるのは、文字通り人の血のかよっていない、機械仕掛けの暴走AI、「悪性知能(Malignant Intelligence)」どもに他なりません。ハサムの死を悼むために、一週間、喪に服したい……しかし今はそうすることはできません。とうとう結界を破って山の麓まで、悪性知能(Malignant Intelligence)どもが現れるようになったことが今回の件で明らかになったためです。この件について、皆さんにもお話をしておかなくてはいけないと思い、今回集まっていただいた次第です」と、山の指導者である、女天狗と呼ばれる女が目を細めて暗い部屋の中を見回した。部屋には、女天狗以外に十六人の若者と七人の中年、三人の老人がいた。ろうそくが柱ごとに備え付けられていたので完全な暗闇ではなかった、光を求めて蛾や甲虫が外から窓にぶつかってくる音が十九歳のメイには雨音のように感じられた。前でしゃべる女天狗は黒い動物の革のようなマントで身体を覆っていたので、皆はコウモリが羽根を休めている姿を連想した。「御岳山岳救援隊の皆さん、お願いがあります。今一度、結界を見直さなくてはなりません」と女天狗は座布団の上で身体を揺らし、脚や腰の位置を微調整すると続けた。「私が新しい護符を作成しますが、揮毫した後の祈りや精霊たちを封印する工程までを考えると、完成までにおよそ二か月かかります。その間、皆さんには常に臨戦態勢でいてほしいのです。そして、万が一結界が悪性知能(Malignant Intelligence)たちに完全に破られ、この拠点が襲撃された時には、民の命を守っていただきたいのです」御岳山岳救援隊の設立理念が集落の民の生活を守ることにある以上、そして入隊の際には理念を何よりも優先することを宣誓する以上、理論的には隊のメンバーは全員それだけの覚悟がきまっているはずだった、実際、この部屋にいる二十六人の顔つきには、自分たちの行く末に対する諦観のような感情はあっても、任務を放棄するくらいだったら自らの死を選ぶような、晩夏に鳴き続ける蝉に似た、頑固な矜持が読み取れた。それはまだ成人を迎えて一年しか経たないメイも、例外ではなかった。「ハサムの野郎、金を返さないままお陀仏しやがった! アイツには、広域探検の時にプライア・ド・ノルテで溺れたのを助けてやった借りまであるというのに! 一体どれほどの恩知らずなんだ?」と周囲に聞こえるように喚きたてたのは大男のドンキだ。しかし続きをしゃべろうとしたが、言葉が見つからず、それきり静かになった。メイの隣でずっと靴紐をいじっていたマナブがメイに語り掛けた。「とうとう奴らが近くに現れたな! 家の中で見かけるゴキブリと一緒で、平地よりも自分たちの領分で遭遇する方が一層気色が悪いだろうよ。ここ一か月くらいで、遺書を清書しておく必要があるかもな」と言ってマナブは下唇を上に突き出した後、唇をぷるぷる言わせた。「黙ってろ、黙っている人間には幸福が舞い込むものだ。言葉は死の世界の一部だ。おしゃべりから死ぬことになっているんだ」とメイはマナブの方を見ずに答えた。六十七歳で年長者のリキが、若いメイの言葉にうなずきもせず、ただ黙って窓の外を眺めていた。窓から入ってきた雲越しの月明りが、リキの潰された鼻を薄く照らした。言葉は死の世界の一部というのは、本当だろうか? この山で産まれてから一度も山の外に出たことのない者も集落には多かったが、御岳山岳救援隊の現在のメンバーは全員、広域探検や日々の活動の中で一度は経験があったし、また悪性知能(Malignant Intelligence)との遭遇経験もあった。リキの鼻は、十二年前、衣類を中心とした廃品を回収するために都市部を探索している時に潰された。誰もいない路面に向けて誘惑するショーウィンドーの中のマネキンが着ている、「VAN」と背中に刺繍のある、袖に黄色いワッペンが付いているヴァーシティジャケットが、リキには妙に魅力的に見えた。リキが、大きくヒビが入っているショーウィンドーのガラスを割ろうと銃床をガラスに向かって振りかぶった瞬間、リキの右斜め後方から、空気を切り裂くような乾いた大きな音が聞こえた———銃声だ! リキが銃床をガラスに向けた姿勢のまま、音のした方を横目で見ると、大きな道路を挟んだ反対側の大型デパートの五階の開け放たれた窓から、何か太い筒のようなものが覗いているのが見えた。今日はやけに悪性知能どもの姿が見えないと思っていたが、まさかアンブッシュされていたのか……。それは一輪車の上に望遠鏡をのせたような形をした自走式AI搭載型遠距離狙撃兵器、通称”The End”と呼ばれるものだった。通常では居場所を割り出すことすら困難な”The End”を視認しただけでも大したものだったが、しかし手遅れだった。銃弾がリキの顔に着弾するまであと数ミリ秒もない……。俺の弟が亡くなった時も、ちょうどこんな景色を見ていたのか……。弟の死後、弟の右目から移植した形見のハイエンドモデルの人工眼球が、銃弾の着弾時間と警告をリキの視界に表示させていた、銃弾がものすごくゆっくりとこちらに向かってくるようにリキには思われたが、それは人工眼球の機能ではなく、死の寸前のリキの生まれ持った脳の働きによるものだった———その時だった、人工眼球が突如発熱し、リキの右目は何も見えなくなった。そしてこめかみに向かっていた銃弾は、軌道を逸れ、リキの鼻にぶつかり、リキの鼻は粉々になった。リキは鼻に着弾した衝撃でくるくると身体を回転させながら、歩道に倒れこんだ。俺の弟が、弟の霊が、弾道を逸らしたのだ……リキは担架の上の朦朧とした意識の中で、そう信じて疑わなかった、よく晴れた三月二十一日、春のお彼岸の頃の出来事だった。
だからリキの鼻は、「潰された鼻」というよりも、「無くなった鼻」と言う方が正しい。女天狗の話によってもたらされた破滅の予感にも段々と身体が慣れてきて、山小屋の一同は、奇妙な倦怠の中にいた。小屋、と言っても五十人くらいは収容できるログハウスで、普段は食堂として使っていたから、テーブルが端にどかされた後の床には、薄く延ばされたチーズの破片がこびりつき、とうもろこしの粒やさくらんぼの種が散らかっていたが、御岳山岳救援隊の二十六名は構わず各々の姿勢で床に座っていた。女天狗は、皆の前の座布団の上で目を閉じて微動だにしない。眠っているのかもしれなかった。ドンキは、着ている登山用のウインドブレーカーの袖をまくり上げ、右手で左手首を握ったり離したりしていたが、誰かが金属製の重い板を落として響いたゴトッ、という音を契機に何となく立ち上がり、「防弾チョッキを着てくる」と言うと扉の方へ歩いて行った。ドンキの足音を聞いていると、いつも、リズム感が変な感じでイライラするんだ! メイはそう思いながら、後ろの方で、つまり扉の方で、ドンキが、半裸でテンガロンハットを被ったジョージの膝を誤って踏んで、ジョージから殴り返されるのを眺めていた。「おい! 聞いたか? ドンキの野郎、白いカラスが北東の方から、歌を歌いながら飛んでくるのを見た、なんて戯言をほざいてやがるんだ! 昨日の昼のことだとよ。頭がジャンクすぎるぜ!」マナブは相変わらずあちこちに話しかけまくっていた。マナブはスキンヘッドの癖に、頭が臭すぎる。マグロ、マグロ食いてぇ! 御岳山は、山だから当たり前だが、海からの距離が遠く、海産物を食べる機会は多くなかった。ここから多摩川沿いに下っていけば、どのくらいで海に着くのだったか。しかし、山だから海からの距離が遠い、ということはない。例えば長崎だ。あれほど素晴らしい場所は他にない。今、メイの耳に、甘えるシャチの鳴き声のような、甲高い音が聞こえた気がした。シャチに誰かに甘える時があるのか、メイには分からない。メイはシャチの実物を見たことがない。メイはシャチの骨格標本は見たことがある。見たのは筑波の国立科学博物館の標本庫を探索している時のことだった、この人類が滅亡しかかっている状況においては、薄暗い部屋で佇む標本庫の骨格標本たちの方が、生きている人間や動物よりもむしろ親密な印象をメイに抱かせた。「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。」メイたちは九月の暗闇の中で未だ座っていた。薄明に透かされた障子のような薄紫色をした萼(がく)を下向きに広げた、レンゲショウマがまだ御岳山で見られる時期だ。女天狗は、ずっと目を閉じ続けている。何かを想像しているのかもしれなかった。ドンキはジョージのテンガロンハットを奪って被ったりとまだ何かふざけあっている。ジョージは自分のへそを指でいじくると、人差し指を立てた。その人差し指を、ドンキや周りの若い何名かが顔を近づけ匂いを嗅いだ。あまりの臭さに、ジョージの周りで大爆笑が起こった。マナブはその様子を白けた顔で遠巻きに眺めていた。ドンキは、満足すると扉を開けて小屋から出て行った。リキは愛用の銃を手入れし始めた。メイは少し眠りかけていた。どんな理由があるのか、川辺に揺れる葦やガマの穂が出てくる夢を、これから見る気がした。メイの耳に、またシャチの鳴き声が聞こえた。「大変だ! 皆、奥の方へ隠れろ!」さっき出て行ったドンキが、血相を変えて戻ってきた。「理由は後だ! とにかく、奥の部屋へ!」一同は広い食堂の隣の調理室へ、中腰で早歩きするように向かった。調理室の中ではみな、身を寄せ合いながら互いの息遣いを聞き、息の荒さが次第に収まっていくのを期待するのだったが、頭に響く自分の心臓の音にかき消されないように吐息が勝手に増え、それを聞いた周りの人が共鳴してさらに無限に息が荒くなっていったので、みなは、突然集団で空気のない惑星に放り込まれたような気分にさせられた。調理台の向こうに大きな幅広の窓があって、隊のメンバーは身を隠しつつも、その窓から食堂の様子を伺っていた。女天狗は窓は見ず、懐から出したお札のようなものに、指でなぞって字を書いていた。食堂の方で窓が割られ、一匹のドローン———宙に浮く、九十年代の八ミリビデオカメラのような形状をした、偵察用自律型ドローン「SSV-D109」の姿が現れた。食堂の中を漂うSSV-D109のレンズは、何かを探してせわしなく動いていたが、落ちていたジョージのテンガロンハットを視認すると、近づいていって調査し、ボディから現れた細いアームでテンガロンハットを拾いあげ、自らのボディの上部にそっと乗せた。「あいつ、あの帽子気に入ったみたいだぜ」と調理室で誰かが言ったが、SSV-D109は、気に入ったから帽子をボディの上部に乗せたのではなく、匂いを分析するためにそうしたのだ。分析が終わり、テンガロンハットを被ったままのSSV-D109がシャチのような、甲高い音を出した。音程を変えて三回鳴った。すると、すでに割られた窓から、SSV-D109の群れが一匹ずつ順番に食堂に入ってきた。丸太小屋のような木造のこの建物の中には合計二十匹のSSV-D109が集まってきて、群れはテンガロンハットを被った個体を先頭に、部屋の中を回遊し始めた。調理室の窓越しに見るその光景は、海の中を回遊するイワシやボラの群れを容易に想像させた。やがてSSV-D109は、一旦部屋の中央に集まると、調理室の窓の方へ、ゆっくりと向かってきた。静かだった。テンガロンハットの個体は、またアームを伸ばして自らのボディの底部から、銃を取り出した。古いリボルバーだ。銀色をしていて美しい彫刻が施されていたが、その彫刻(エングレーブ)には、何の戦略的優位性(タクティカルアドヴァンテージ)もないはずだった。SSV-D109はゆっくりと、ゆっくりと、しかし確実に、アームで持った銃を構えながら、少し湾曲したレンズに調理室の窓とその奥の光景を反射させながら、近づいてくる……。「このお札を貼りなさい!」その時だった。女天狗がそう声を上げ、メイにお札を手渡し、メイはお札を調理室の窓に貼った。すると、SSV-D109たちは混乱したように見え、動きを止め、緑色の小さな光を点滅させながらお互いに交信しあっていたが、しばらくすると、入ってきた窓から一列になって順番に外に出て行った。テンガロンハットは、被ったまま持って行ってしまった。危機がひとまず去り、調理室のみなは心には安堵を感じていたが、身体は硬直し、緊張したままだったので、かゆいと感じた部位を手でかくことすら困難だった。「遺書の清書は、今夜中に終えないとまずそうだな」とマナブが言った。

 砂漠の青年は、港町にたどり着いていた。港では、陸から何本も櫛のように生えている桟橋にカモメたちの大群が降り立っては飛び立ち、糞をまき散らしては降り立ち、横づけされた船から、獲ってきた魚たちの入った籠を受け取る手伝いの小僧や、船の上から怒声を浴びせる漁師たち、絢爛な刺繍が入った布地や丁重に革製の箱に入れられた望遠鏡、棘が生えた見慣れない果物など、異国の品物をふんだんに積み込んだ船の上で何やら話し込んでいる商人、古くなって船体に開きかけた穴に応急処置を施す船員、人でごった返す桟橋をモップで掃除する掃除人、ときおり人や荷物とぶつかっては、桟橋から足を踏み外して海に落ちる若い見習い、桟橋の木材の腐りかけた部分に新しい木材をはめ込んで修理する職人、そして、それらの光景を近くの少し高くなった丘から、絵でも描きながら、詩集でも読みながら、あるいは談笑をしながら日課のように眺めている老人たち、これら全員をいら立たせていたが、ふと手を休めて息をついたその一瞬の間に、ほとんど恋人の囁きのように静かに打ち寄せる波の音を聞いているうちに、あるいは空から自由落下してくるように身体に降り注ぐ太陽の光を感じているうちに、次の船が来るまでに掃除を終えなくてはいけないという焦燥感や、商談相手のわがままやなれなれしい態度に感じた不満や、元から籠には入っていなかった赤い魚を、お前が籠を受け取るときに斜めにしたから海に落としたんだろう、それともまさか盗んだわけではあるまいな? などと理不尽に責められる小僧たちのくやしさ、そして糞をまき散らして耳障りな声で鳴き続けるカモメに対する苛立ちといったものは、まるで最初から存在しなかったかのように、蒸発して消えてしまうのだった。砂漠の青年は、老人たちと一緒に、港の近くの少し高くなった丘から港の様子を眺めていた。時折、老人たちが砂漠の青年に向かって何かを語りかけてくるのだが、異国の言葉があまり分からないのでせめて敵意がないことだけは伝わるように笑顔で相槌を打った。海の近くは少し冷えた。耳当てのついた毛皮の帽子を被ったお爺さんが、人の手の指くらいの大きさの煮魚を六匹、お皿に入れて持って来てくれたが苦くてまずかった、周りから疎まれている酔っ払い三人組に絡まれて琥珀色をした酒を飲まされ、喉が焼けるような熱さを感じて、具合が悪くなって一度嘔吐した後、草はらに座り込み海を眺めた。苦い魚に飲めない酒、砂漠の青年はこうしたこと全てに、実のところ喜びを感じていた、それは身を光の槍で貫かれるような喜びだった、全てが初めて経験することだった、海辺の匂いや魚を食べるのも、海を見てあまりの広さに呆然とするのも、海を見ていると原因や結果といった因果の主導権が人間ではなく土や水、風の方にあると感じる自分を発見するのも、というのも目の前に広がる大海原は、砂漠の青年にとって初めて見る海だったからだ。地平線の遥かかなたから、船のマストの先端が現れたかと思うとどんどんとマスト全体が現れ、そして船体が海の上にあらわになった。マストの先端から、つまり上から順番に見えるようになるということは、もしかして地球は、大地は、丸く湾曲しているのか? 砂漠の青年はそう思いあたり、頬を手で撫でながら思案したが結論は出なかった。青年は、耳当て帽のお爺さんが心配して持って来てくれた水の入った革袋を受け取ると、水を飲み、立ち上がった。
 両替商に騙されていたと気づいたのは、船に乗るまでの間に、多くのお客さんと少しの泥棒たちで賑わう市場で何か腹ごしらえでもしようかと屋台で魚の煮込みスープを注文した時だった。そのスープには切り取られた魚の頭も一緒に煮込まれていて、周りの立ち食いしている数人の客は、長楊枝を器用に使って頬の肉や目の周りの肉まできれいにほじくりだして食べていた。店番の若者の右脚は膝から下が無かった。砂漠の青年は、市場が開かれている広場の入口近くでさっき取引をしたばかりの両替商のところに向かい、茣蓙の上で胡座をかきながら台の上の天秤の手入れをしている両替商に対して、身振り手振りを使って先ほどの取引を無効にするよう要求した。両替商の全身を覆っている、赤色の上に黒や黄色の線で模様が刺繍されている服は、上半身と下半身とで分かれておらず、一枚の布でできているようだった。「注意深く生きなくちゃいけないぜ、兄ちゃん。世の中は危険で満ち溢れているのだから。そして、こんなに晴れた日に、精神を興奮させて身体に無駄な負担をかけてはいけないぜ、兄ちゃん。あなたが産まれたのを一番喜んだのは、両親でも兄や姉でもない、あなた自身の身体に他ならないのだから」片言ではあったが、砂漠の青年は自分たちの言葉を目の前の両替商が喋るのにひどく驚いた、郷里を思い出して親近感まで抱きそうになったのだがそれは思いとどまった。「全財産を俺に渡したわけではないのだろう? 神がお前を俺に遣わして、俺に今日の分の分け前を与えてくださったのだ。この分け前で俺は、子どもをお腹に宿した妻のために強壮薬を買うのだ」と両替商は言った。通りがかる人々が振り返ってはひそひそ話をするほどの押し問答があったが、両替商に渡したお金は帰ってこなかった。砂漠の青年は、他の善良そうな両替商を探すために歩き始めた。船が出発するまで、予定ではあと二時間ほどだったが、乗船の受付の時に小僧が言うには、船の状態如何によっては、明日以降の航海になるかもしれない、とのことだった。


以上、『Deneutralized, neutralized』Part 3でした。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
Part 4(最終回)もぜひご覧ください。

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