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【中編小説】 Deneutralized, neutralized (Part 4, 最終回)

第67回群像新人文学賞に応募した作品です(結果は一次落ちでした)。
面白いのでぜひご覧ください😆

なお、縦書きでもご覧いただけるように縦書きverのpdfを用意いたしました。
よろしければご活用ください。

こちらはPart 4(最終回)となります。
・Part 1はこちら
・Part 2はこちら
・Part 3はこちら

それでは以下より本文になります。


 御岳山岳救援隊のメンバー、リキ、ドンキ、マナブ、メイの四名は、朝日が昇るにつれて薄く緑色になり始めた伸び放題で背の高い多摩川の草むらの中を、朝露に濡らされながら川沿いに一列になって南下していた。飛び跳ねるイナゴや顔にまとわりつく小さな蝿たちに舌打ちをしながら草をかき分け進んでいくその一同の後ろを、彼らの荷物を運ぶための自走式四足歩行型輸送用ロボットが一頭、追いかけるように歩行していた。恐らく犬をモデルとして設計されたと思われるこの四足歩行型ロボットは、何かのルーティンの一部なのか、一年に一度、十一月頃になると必ず御岳山の麓の森に一匹で迷い込んでくるのだった。捕まえた自走式四足歩行型輸送用ロボットを御岳山岳救援隊の任務への携行用に改造するのはドンキの役割だった、網で捕獲した暴れまわるロボットをなだめすかし、腹側にある制御パネルを覆う蓋のネジを開けさせてくれるほどに四足歩行型ロボットと打ち解けられる技術を持つのは御岳山でドンキだけだった。何匹かの四足歩行型ロボットは、生活を共にするうちにドンキへ愛情を示すようになった、それらの個体は、任務に同行せずベースで待機している時には、ドンキが任務から帰着して御岳山のベースに帰ってくると、戦利品の分配を期待して集まっている人々を押しのけてドンキの前に現れ、前脚立ちと後ろ脚立ちを交互に繰り返す求愛のダンスを踊った。
 四人が川沿いを歩いているのは、水辺の近くでは悪性知能(Malignant Intelligence)と遭遇する確率が低いという経験則を活用していたためであるが、それでも上流から下流まで移動する途中に、川に架かる橋の上を歩く人型二足歩行ロボット”Sculpture”と何度か遭遇してしまったのは、ひとえに昔からマナブの運が悪いからに他ならなかった。今までの二十八回のマナブの誕生日において雨が降らなかった日は一度もなかった、卵を割ると黄身が入っていないことが頻繁にあった、みんなになつく犬によく噛まれた。歌の才能があったが、楽典を理解する才能がなかったので歌い手にはなれなかった。しかし「運が悪い」ということは見方を変えれば、つまり確率が低い事象が起こったという点においては、そのまま「運が良い」のだと主張することもできる、起こった事象の解釈や認識こそが人間の処世術の見せどころだ。人型ロボットを見かけるのは一年に一度か二度の稀なことだったので、これは作戦がうまくいく吉兆だとドンキは考えた、マナブは不幸の前触れだと考えた、リキとメイは、どんな解釈や意味づけも行わなかった。
 作戦と言うのは、「救出作戦」だった。しかしその「救出作戦」には謎や不明点が多く、作戦の遂行者として指名を受けたメイたちはもう少しで目的地に着くというのに未だに判然としないような、曖昧な不安の感覚を持ち続けていた。というのも、そもそもメイたち四名は、その「救出」する人物が何者であるかも知らされていなかったからである。女天狗は、四日前のSSD-V109による御岳山ベースへの襲撃の後、夜の野生動物が木を揺らす音や土の上を移動する音を内包し続ける森の側の、古い書類を保管している小さな小屋で、四人を集めてランタンを顔の横に掲げながら言った。「多摩川を南下し、古墳が複数あることで知られている多摩川台公園に行くのです。そして、いくつか公園内にある古墳のなかから、「五号古墳」を探し出してください。一年中決して枯れることのない、レンゲショウマが一つ、咲いているはずです。見つけたら、そのレンゲショウマの花の角度と同じ分だけお辞儀をしながら、次のように語りかけてください。「お兄様がた、お久しぶりでございます。かわいい妹が巨人のつま先のような山地で窮地に立たされているというのに、実際に巨人であるところのお兄様がたが地中の中で熊の冬眠よろしく何年も眠りこけているというのは、あまりに薄情がすぎるというものではないでしょうか。しかし、何も私はお兄様がたの情に訴え、嘆願しに来たわけではございません。千五百年前の借りを返しにもらいに、約束を果たしにもらいに参りました。お兄様がた、結局のところ、私はあなた方をお慕い申し上げているわけです」今の言葉を、一字一句間違えずに話すのです。メイ、この役割はあなたがやるべきでしょう。私と声の質が似ているからです。なるべく私の話し方を真似てさっきの口上を唱えなさい。この口上の内容についての質問には一切お答えしません。また、悪性知能(Malignant Intelligence)たちの索敵の網に引っ掛からないよう細心の注意を払うため、大人数で動かない方がよいでしょう。多くても四人、そう考えてあなた方にお願いしているのです」このようにして、特に隠密行動に優れていると判断されたメイ、マナブ、ドンキ、リキの四名が本作戦を遂行するスクワッドに選出されたのだ。今日は作戦が始まってから四日目で、もう少しで多摩川台公園に到着するところだった。緩やかに蛇行する川の表面が、未だ地平線の上に上がりきっていない朝の太陽に照らされて光り輝いているのを眺めていると、時折、ひときわ強くきらめく点が見られた。ボラが跳ねたのだ。ハゼもいるはずだったが、跳ねない。アユは、いなくなってしまっていたのだが人間が居なくなってからはまた少しずつ戻ってくるようになった。風が海の方角から何となく吹いていて、その風によって川面が煽られるからなのか、それとも河口から海の水が入ってきているからなのかは分からないが、川はゆっくりと逆流しているようにも見えた。四人は大きな鉄橋のたもとまでやってきた。周辺からの視界が遮られて影になっているので、四人はそこで休憩をとることにした。ずっと先頭を歩き索敵を続けてきたマナブはとても疲れていた、少し目を閉じると、自分がどこにいるのか分からなくなるような気がした。そのうち、きっと自分は今、御岳山の針葉樹林が立ち並ぶ夜の真っ暗な森で一人、何かに対して祈りを捧げているのに違いない、と思い込むようになった。パキ、パキ、と枝がしなる音が聞こえるのはムササビだろうか? チャク、チャク、と地面を踏みしめる音が聞こえるのは、鹿が私たちの様子を見に来たのだろうか? それとも、この御岳山以外の地域をめぐり切った死神が、仕事を全てやりきらないうちは家には帰らないぞ、という几帳面さゆえに、とうとうその脚を使ってわざわざ俺たちのもとにやってきたというのだろうか? 足首を撫でる灌木の感触が全長三十センチメートルの大ムカデが足元をうろついているように感じられた。地面に落ちずに皮一枚でつながり揺れている木の枝が縊死した遺体がぶら下がっているように見えた。ひとりぼっちの夜の暗い森が面白いのは、まるで私たちの心の中の猜疑心や恐怖心がそのまま上映されているスクリーンのような様子を呈することだ。しかし、今日のマナブは疲れ切っていて、なんだかそうした恐怖心やら猜疑心やらがどうでもよいもののように感じられた。恐怖するのにも元気がいるのだ! 代わりに穏やかな虚脱状態が訪れた。目の前の暗い森の木々の隙間から、何かが燃える様子がぼんやりと見える気がした。こうしたことはよくあった。マナブは赤子の時のボヤのイメージを覚えているのか、朝早く起きてしまって何となく外に出て眺める森の薄暗闇の中に、何かが燃える様子がぼんやりと見える気がいつもした。マナブがそれらのイメージと戯れていると、東の空の方から、太陽がゆっくり昇ってきた。自分がさっき暗闇の木々の中に見ていたイメージはボヤのイメージではなく、いつか見た朝焼けの景色ではなかったか。それにしても、あんなに深く暗かった世界に再び朝がやってくるとは大変な驚きだ。しかも、その朝というものは毎日やってくるのだ! メイがマナブの頭に小さな蟹の死骸を投げつけてきて、マナブの目が覚めた。四人は、マナブ、ドンキ、メイ、リキの順番で一列になり、橋のたもとの影から出て再び歩き始めた。上を見上げると、朝焼けの中、太陽から遠い方の空に、正確にプログラミングされたV字編隊を組んで飛んでいく鳥型ロボットたちの様子がみられた。それは実はロボットではなく本物の雁の群れであることには四人とも気づいていたが、何とはなしに、あえて何かをしゃべろうとは誰も思わなかった。


 砂漠の青年は、秋が深まり、木々の枝の葉の枚数から冬の気配が感じられ始めた十一月の昼の谷の中を歩いていた。左右にこんもりとそびえる山々にはまだ紅葉の感じが少し残っていて、時折吹く爽やかな風と共に、汗を含んだ衣服の不快感に苦しむ砂漠の青年を元気づけていた。さっきまで降っていた雨で少しぬかるんだ獣道の先の方から糞のような獣の匂いが強まったので、青年が警戒しながら歩いていると、前方から俄かに池が見えてきた。池では、体長四メートルはあるように思われる巨大なヘラジカが、身体をお腹のあたりまで浸からせていた。池は穏やかで、雨で濡れたヘラジカの角からたまに水滴がぽたっ、ぽたっと垂れて水面に円状の波紋を作る以外にはどんな動きも見られなかった。池から少し離れた白っぽい色をした木の幹に背中をもたらせながら、青年はヘラジカの様子、あるいは池とヘラジカの様子、または池とヘラジカと紅葉した樹々と山々と空の様子を眺めていた。青年が衣服を乾かそうと服を脱いで裸になると、ヘラジカはその体をゆっくりと動かして池から出て、青年の方に歩いてきた。青年は驚いて木の後ろに隠れ、いつでも逃げられるように周囲を見渡して最適な逃走経路を考え始めていたのだが、ヘラジカはそんな様子を全く気に留めずに、獣道を青年が歩いてきた方に向かって、のっそのっそと歩いて行った。


 緯度35.59074度、経度139.66554度。多摩川台公園の中の第五号古墳の上で、四人が一輪だけ咲いているはずのレンゲショウマを探していると、ドンキが奇妙なものを見つけた。それはすっかり生い茂った、深紅と表現するのにふさわしい、真っ赤な花をたくさん咲かせている一本の薔薇の木だった。「久しぶりにこんなに濃い色の物体を見たぜ」とドンキは言うと、花を一つもぎり、匂いを嗅いだ後、頭上に投げ上げた。花びらが空中で散らばって、一つ、また一つとひらひらとゆっくり回転しながら地面に落ちてきた。薔薇の花ことばは「愛」だ。実は、この地上には愛があふれているのだが、その事実に気づく者は少ない。愛の中に自分がいるのを感じるのは、世界の中で自分がまさに生きていることを発見することとそれほど違いがない。そんな簡単に言えることだろうか? 探しているレンゲショウマは、まだ見つからない。ドンキが言った。「なんか嫌な感じだな、この古墳、何が入っているんだ?」そういえば、この作戦は救出作戦だったわけだが、その救出とこの古墳、一体どのような関係があるというのか? ここらの古墳が誰かとの待ち合わせ場所になっていて、女天狗が言っていた口上やらレンゲショウマへのお辞儀やらは合言葉のような役割を果たしているのということだろうか。それとも、まさか、例の「救出」対象がこの中にいるとでもいうのだろうか? 女天狗は「巨人であるところのお兄様がた」と言っていたが、大昔の、しかも巨人とやらが、この古墳の中で眠っているとでもいうのか……。全体像を知らされずに個別具体的な作業に従事させられることほど、苦痛を感じることはない。傑出したある物理学者のエピソードで、ロスアラモスのあるプロジェクトで若者たちに計算機での計算を手伝ってもらったとき、計算の目的を知らせずに仕事(意味が分からない数字をIBMの機械にパンチカードでどんどん打ち込んでいくという仕事だった)を任せたところどうも捗々しくなかったのだが、その計算が何のために行われているのか、その仕事の意味を理解させると、一気に能率が上がり、さらには若者たちは自発的に過程の改良まで行い始めた、という話がある。それにしても、実はこの計算というのは原爆開発に関わる計算だったのだが、彼らが見出した仕事の意味というのが戦争の勝利への貢献とするならば、そして戦争の勝利への貢献というものを今度は「個別具体的」なものとみなしたとしたら、「全体像」に対応するのは、戦争それ自体であって、その中には無数の死者、悲惨、痛みや憎しみが内包されているだろう。その物理学者や若者たちは研究や計算業務に従事している時、自分たちの「個別具体的」な仕事が、「全体像」としての戦争それ自体、そしてそこに含まれる無数の死者、悲惨、痛みや憎しみと結びつくことを考えなかったのだろうか。それとも、そもそも私たちは「個別具体的」なものであって、「全体像」的なものとして生まれついていないのだから、そして「個別具体的」なものはまるで「全体像」であるかのように振舞うことはできても恐らく究極的な「全体像」にはなれないのだから、どこかで自分の身の丈に合うサイズの「全体像」的なもので満足しなくてはならない、ということだろうか。実際のところ、やらなければやられるのだ……。だとしたら、「個別具体的」なものとして生まれついたこと自体が問題だったのだろうか。古墳にはバラの木以外にも様々な樹々や草花が生い茂っていた。メイがたまたま視界に入っていたオレンジ色の花をよく見ると、茎に白いアブラムシがびっしりとくっついていたので、メイは適当な木の枝を足元から拾いあげ、枝でこそげ落とすようにアブラムシを落下させて楽しんだ。レンゲショウマはまだ見つからなかった。「理由は分からないが、女天狗の目論見が外れちまった、っていう状況か? ここはひとつ、こいつを試してみよう」とドンキは言うと、自走式四足歩行型輸送用ロボットに積んでいた荷物の中から、手のひらサイズのアメフトのボールのような形状をした地中構造解析用デバイスを取り出し、足先で土を掘り返した後、そのデバイスを埋めた。「耳をふさげ!」フラッシュバンが炸裂したようなキーン、という音が響いた後、ドンキはタブレット端末を皆に見せるようにしながらモニターした。「見ろ! なんだかすごいぞ」映し出された、再構築された古墳の空洞の3次元構造を見ると、そこにはたくさんの小部屋とそれらをつなぐ通路が張り巡らされた、立派なアリの巣が構築されていた。渋滞が発生しないようにと考慮された見事なネットワーク構造、これだけの複雑な構造を、一定の強度を保ったまま、落盤事故を起こさずに建築するのは至難の業だった。そのアリの巣の最深部には、人間が一人そのまま入るような、大きな空洞があった。その空洞の部分をドンキがピンチアウトし拡大すると、人間の骨のようなものが見えた。実はこの瞬間、女天狗の目論見が外れたことは決定的になった———結局のところ、何がこの中に入っていることが想定されていたのかは女天狗のみぞ知るところだったのだが———女天狗も知らない間に、誤って古墳の中に入っていたのは、———この時代の人は、当然だが誰一人その人物のことを知らなかったのだが———白骨化した小坂雄二だった。


 小坂雄二は、両親、上の姉、上の姉の息子ら四名に自らのアイデンティティを証明することができず、実家を出禁になった。何もする気が起きず、一か月と言う間、雄二は失意の中ふらふらと東京中を放浪した。最初のうちは文字通り全く無目的に歩き回っていて、そのことに楽しさも見出し始めていたのだが、すぐに飽き、見つけた公園で日がな一日中野球のスイングなり体操なりをして過ごした。当然、それにもすぐに飽きたので、雄二はラジオを買ってきて公園のベンチで寝っ転がりながらずっと聴いていた。最近のベンチは、わざわざ真ん中にひじ掛けを設置しているものが多いせいで、横になるのに最適なベンチを探すのに苦労する……。夜になって、雄二しか公園にいない状況になっても雄二はほとんど眠らずにラジオを聞き続けていた。人の声が聞こえているだけで、なんと心がやすらぐことか! しゃべりまくれ! ラジオDJ! 朝になり、そろそろまた彷徨い歩きたくなったが、目的地が欲しかったので、ラジオで聞いた地名を適当に、コンビニで買ってきた東京都の地図に印を入れ始めた。国立科学博物館、大森貝塚遺跡庭園、石神井公園、日比谷公園、秋葉原ラジオ会館、銀座ソニービル、多摩川台公園、昭和記念公園、…… 。
 国立科学博物館と石神井公園と日比谷公園に行った後、開いた地図に向かって木の枝を投げつけてみると多摩川台公園の近くに当たったので、多摩川台公園に行くことにした。多摩川の河川敷を歩いていると、土手の向こうに一段高い丘があって、広葉樹が密集していた。多摩川台公園があった。公園はよく整備されていて、赤、黄色、紫色など色とりどりの花が植えられている花壇がある広場の周辺では、小さな子供たちがポコペンをして遊んで走り回っていたのだが、隠れられる場所がそれほどないように見えたので鬼ごっことかの方が面白いのではないか、と雄二は思い、子どもたちに提案したのだが子どもたちは首を横に振った。「熟練したポコペンの遊び手は、多少場所が適さないからといって、ほいほいと違う遊びを始めるなんて軽薄なことはしません。僕たちはポコペンを愛していて、ポコペンの可能性を広げようと努力しているんだよ」このクソガキども! 雄二は広場から少し歩いてベンチに座り、上に顔を向けて、頭上を覆いかぶさるように枝を広げているピンク色の百日紅の花をずっと眺めていた。そのうち、顔の上に水滴が落ちてきた。雨が降ってきたのだ。雨宿りするための場所を探して走っていると、石造りの東屋があったので中で雨宿りをした。
 東屋の中には、雄二以外にも雨を逃れて入ってきた者が二名いて、最初は三人ともそれぞれが全速力で雨のなか東屋へと駆ける姿を見られてお互いに照れ合っていたが、照れを隠すように雄二が話かけるといつの間にか三人は奇妙な連帯、友情の中にいた。「一か月も外をふらついているのですか! それは災難ですなぁ」と雄二に同情したのは白いポロシャツに七三分けの、清潔そうな雰囲気の男だ。表情を動かすたびに目じりにたくさんの皺が寄るその男は、時折お尻を持ち上げては、両手をお尻の下に敷いて尻たぶを温めていた。石でできたベンチが妙に冷えるのだった。「ミミジュ、食えるよ、ミミジュ……」もう一人は、野球チームの帽子を被った舌ったらずな年配の男で、サ行やザ行をうまく発音できないのだった。帽子にはアルファベットのTとBが組み合わさったようなエムブレムが刺繍されていたが、おそらく少年野球チームか何かのロゴなのだろうと雄二は推測した。「ミミジュ、ミミジュの血、人間と同じで赤いよ、ねえ、ミミジュ」「赤いんですか? 黄色じゃなくて?」雨が止んだ。おしゃべりは続いた。わずかでも感情を伴って、一度でも自分の思い出や境遇をお話したのなら、もうその相手とは友達だ。多摩川台公園に振ったにわか雨が、三人の間に友情を作った。雄二は七三分けの男から電話番号が書いてあるメモを渡された。06-から始まっている。「私は、西の方に帰ります」七三分けの男は髪を右手で撫でた。「死んだ母ちゃんを、埋めなくてはいけない。三年前に、母さんが死んだのです」撫でた右手の手のひらをじっと見た後、七三分けの男は誰にも分からないように手のひらの匂いを嗅いだ。「そのままにしてきてしまったので、空き巣に、母ちゃんの身体、母ちゃんの遺体、いじくりまわされてなければいいけど……」それらの言葉を聞いて、芽生えかけた友情が俄かに消え去ったのを雄二は感じた。「もし西の方に来たら、その番号に連絡くれれば、家、泊めてあげる。宿代は、取りません」晴れてきていた。七三分けの男は去っていった。それからしばらく無言でいたが、野球帽の男も去っていった。雄二も、もともといた百日紅の近くのベンチに戻り、濡れた座面を服の袖で拭いて座った。雄二が頭を掻き、伸びた爪に溜まったフケを丸めて投げつけると、地面に落ちたそのフケ団子をアリが運んで行った。アリたちは彼らの身体の五倍はありそうなフケの塊を、ベンチの脚部の付け根に入り口が見える巣にむかって、せっせせっせと運んでいるのだった。なんて間抜けなんだアリたちは……美味しいお菓子か何かと間違えているんだろうが、お前らが一生懸命運んでいるその塊は、俺の、単なる人間の皮膚のカスに過ぎない……。


その時だった、小坂雄二が天啓を受けたのは。


まてよ……そうか!


そうだったのか!


分かった!

今ようやく、俺は、全てを理解した!


つまり、地球は……


宇宙は……


自然の法則は……


朝日は……


草原は……


馬は……


あらゆる生物が、人間が、そして、俺がこの世に産まれたのは…………


「全ての抽象と具体に告ぐ! ………… ! …………」


 この時に雄二の頭に浮かんだ、この世の全ての謎に対する解答が確かに含まれる、冒頭が「全ての抽象と具体に告ぐ。…」から始まる日本語にするとわずか二百字足らずの詩、未だ人類が空気の振動として震わせたことのない、口に出して確かにこの世に産まれた言葉にしようとしていたその最後の二百字の核心の詩を、雄二は言うことができなかった。突然あたまに降ってきたその詩を口にしようとしたその瞬間、雄二の心臓が停止してしまったからである。狭心症による、心不全だった。「塩分を摂りすぎてはいけません。あなたにはもともと高血圧の気があるのだから、自覚を持って食事に気をつけなくてはなりませんよ、結局のところ、私にできるのはあなたの健康を手助けすることだけで、身体の責任はあなた自身でとらなくてはならないのだから」六年前の診察で医者は雄二にそう言うと、雄二の目をじっと見て、目を逸らし、パソコンの画面に向き合い、微笑みながら続けた。「海から長い時間をかけて進化してきたというのに、現代の生活においては、残念ながら人間の身体というものは塩とは徹底的に相性が悪いのですから」、雄二は停止してしまった心臓のあたりを右手でぎゅっと強く抑えた。医師の再三の忠告を無視して好物の塩鯖を際限なく食べ続けてきたツケが、とうとう回ってきた、ということのようだった。
 背中のあたりをダガーナイフで刺されているような、激しく鋭い痛みが雄二の顔の筋肉を中心の鼻から外に引っ張ろうとしたため、目は見開こうとし、口は喉の奥のぶつぶつが見えるほどに開こうとし、頬は斜め上に吊り上がろうとした。他方で、腹の鳩尾のあたりをウォーハンマーで殴られているような、激しく鈍い痛みが雄二の顔の筋肉を中心の鼻先に向かって内側に収縮させようとしたため、目はほとんどとじかけようとし、口はタコのようにつぼめようとし、頬はより一層顔の中心に向かって寄ろうとした。その結果、二種類の痛みによる顔の筋肉の収縮と変形が打ち消しあい、雄二の顔にはなんの筋肉の移動も見られなかった———つまり雄二は激しい痛みを感じていたはずにも関わらず、完全な無表情になっていた。いや、見る人が見れば、これは微笑みという表情である、と主張する者さえいただろう。「食えるよ……食えるよ……」野球帽の男が雄二の遺体に近づき、懐から出したナタのような刃物を使って、太ももからブロック状に肉を切り出し、袋に入れて塩を大量にかけ、袋を揉みながらまた去っていった。男は刃物を使うのが久しぶりだったので、肉を切り出すまでに腹部など関係ないところも傷つけてしまったために、雄二の遺体はボロボロになっていた。夕方に通行人から通報を受けた警察官が駆け付け、現場を封鎖し、夜になってから詳細な検証を始めたが、雄二の死を悼むために夜自身がこのあたり一帯をいつもより暗くしており、警察官たちはあまりに眠く、みな居眠りを始めてしまった。その状況を好機と見たのは、この公園に昔から住んでいる蟻たちだった。一年分の食料だ! こんな機会は滅多にないぞ! 古墳の中を住処にしている蟻たちが、巣の最深部のスペースを空けるために中身を全て公園内の池に打ち捨てた後、警察官たちが居眠りしている隙をついて小坂雄二の遺体を丁寧に巣の中に運んで行った。それは蟻たちにとって、あまりに重く、今まで経験した中で最も難しい輸送だったので、疲れ切ってしまい、働きアリたちのうちの六割近くがこれ以降全く働かなくなった。


 夕日が西側の低い角度から多摩川台公園の木々を照らしていたので、公園を歩く人には幹が妙にきらめいて見えた。秋だった。公園の中にはどんぐりがたくさん落ちていて、昼には保育園の児童たちが公園中を駆けずり回り、袋いっぱいにどんぐりを持ち帰っていたが、そのうちの何割のどんぐりにどんぐり虫が潜んでいて、児童たちを驚かせることになるのだろう。夕方になった今では、慣れ親しんだ道を静かに散歩する近隣の住民たち、そして赤いリードにつながれているゴールデンレトリバー。
 部活終わりの高校生が古墳の横の細い道を二人歩いてきて、ベンチに座った。ベンチは工事の時のミスなのか、それとも長時間人が座るのを防ぐためなのかは分からないが座面が全体的に若干前傾していて、ひどく落ち着かなかった。目の前はそこだけ樹々がなく開けていて、蛇行してきらめく川と、その向こうには等々力競技場が見えた。二人は、足元に投げ置いた部活用のバッグを足で蹴って適当に位置を調整すると、コンビニで買った白いチョコパンやチキンを食べながら話し始めた。

「この前おれ、エレベーターに閉じ込められてさ」

「どこの」

「家のだよ」

「すげえな」

「すごくねえよ、そんで書いてある電話番号に連絡して管理会社の人に連絡してさあ」

「それは怖いね」

「スマホなかったらどうすんだよって思ったよ」

「誰か他の住民が通報してくれたりするんじゃないの」

「待ってんのがこえーんだよ、落ちたりしたらやばいだろ」

「やばいね」

「やばいよ」

「俺、エスカレーターに閉じ込められたヤツの話知ってるよ」

「何の話だよ」

「エスカレーターに閉じ込められたヤツの話」

「エレベーター、な」

「いや、エスカレーター」

「意味が分からない」

「なんか大井町だったかな、エスカレータ―めっちゃ長いところある」

「りんかい線に行くやつ?」

「多分そう。りんかい線って、あの「トウキョウリンカイコウソクテツドウリンカイライン」って車内放送されるやつ?」

「知らねえよ」

「あそこさ、めっちゃ長いエスカレーターあるんだけど、なんか特定の時間にエスカレーター乗ると二度とエスカレーターから降りられなくなるらしいよ」

「オカルトかよ」

「オカルトだけど」

「うん」

「その時間に乗っちゃったヤツはさ、最初、自分以外に誰もエスカレーターに乗っていないことに最初気づくわけよ。あれ、今日はなんだか空いているなあ、なんてな。呑気にな。で、まあスマホでも見ながら待ってんだけど、いつまでも終わりが見えないわけ。あれ、やっぱり何だかおかしいぞ、五分、いや、下手したらもう十分くらい乗ってるんじゃないか? そんで、駆け下りてみるんだけど終わりは見えない。やばい、何が何だか分からないが、降りられなくなっちまったんだ、とか嘆いてみてももう遅い。で、俺たちがこうしている今でも、エスカレーターに閉じ込められた連中は、ずーっとエスカレーターに乗り続けてんだってさ」

「なんなんだその話」

「オカルトだけど」

「特定の時間、っていつだよ」

「それは知らない、七時くらいじゃないきっと」

「なんだそれ」

「というか、時間ってよりむしろ、『そのエスカレーターに一人しか乗っていない』っていう状況がトリガーなのかもしれない」

「こええな」

「こわいでしょ」

「うん」

「で、この話には続きがあってさ、一旦閉じ込められたら絶対やっちゃいけない行動ってのがあるんだってさ」

「ご飯に箸を立てるとか?」

「それは別にいつでもやっちゃだめでしょ。で、閉じ込められた後にやっちゃいけない行動ってのは、エスカレーターを逆走すること、なんだって」

「逆走?」

「そう」

「逆走するとどうなんの」

「それは」




















































砂漠の青年は月の表面の上を歩いていた。

ここはなんだか、故郷に雰囲気が似ていて落ち着く感じがする。見上げた空には雲ひとつなく、ただ星々が戯れていた。何も音が聴こえない。自分の足音や心臓の音、呼吸の音も、やはり聴こえない。この静けさには覚えがあるぞ、と青年は思った。この静けさは、俺がこの世に生まれる前に居たあの巨大な虚無とそっくりだ。

風は全く吹いていない。

気分は特別よくもないが、特別悪くもない。

砂漠の青年は足元の石を何気なく拾った。そして親指で石の表面を撫でているうちに、何かその石に気になるものを感じた。その石は砂漠の青年に———小さい頃、まったく同じ石をこうして握ったことがあるような、あるいは未来からやってきた未知の鉱物をたまたま手にしたような、そんな矛盾した印象を彼に与えた。(おわり)







(参考文献)

・p.43(縦書きpdf)の聖書の引用は、YouVersionの『ヨハネの黙示録 12』(新共同訳)より引用いたしました(https://www.bible.com/ja/bible/1819/REV.12.)。

・p.50(縦書きpdf)の「傑出したある物理学者のエピソード」は、『ご冗談でしょう、ファインマンさん(上)』(著:R.P.ファインマン、訳:大貫昌子、岩波現代文庫、2000年)の「下から見たロスアラモス」(p.175~234)の中のエピソードを参考にいたしました。


以上、『Deneutralized, neutralized』でした。
最後までお読みいただき本当にありがとうございました。

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