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【中編小説】 Deneutralized, neutralized (Part 1)

第67回群像新人文学賞に応募した作品です(結果は一次落ちでした)。
面白いのでぜひご覧ください😌

なお、縦書きでもご覧いただけるように縦書きverのpdfを用意いたしました。
よろしければご活用ください。

それでは以下より本文になります。


 茶色に枯れていく植物を見て、植物が死ぬ瞬間というのは一体どの瞬間のことなのだろう、と誰かが呟いても答えを得る前に季節は移り、草花が新たな生命の喜びを発散させる、そうしたサイクルが何千年と繰り返されているために我々人類はかろうじて生きながらえている。外では白い花の上でミツバチがせっせと花粉を集めているというのに、ガラス張りのきれいな建物の中では、これから始まるオーケストラの演奏を聴きにきた整った身なりのご婦人方や青年たち、小さい子供を連れた家族連れたちがコンサートホールへの入場口付近で賑やかに談笑しているのを横目に、一人の男が何をするでもなく外の芝生の広場を眺めていた。いや、男が眺めていたのは外の景色ではなく、ガラスに反射する自らの顔だった。十年前は二十歳だった彼は十年が経過した今は三十歳になっていて、実際に顔つきにもちょうど十年分くらいの時間が現れてはいたものの、彼はそのことがまるで嘘のように感じられた。二十年に十年を加えたら三十歳だなんて! そんなの当たり前じゃないか、どうしてこんな当たり前でつまらないことがこの現実の世界で実際に起こりうるのだろうか? 男はもしかしたら四十歳かも知れなかった。男の名前は小坂雄二と言った、雄二という名前ではあったが次男ではなく長男で、姉が二人いるが、二歳差の下の姉とは頻繁にやりとりしている一方で、八歳差の上の姉とはもうほとんど会話していなかった。上の姉は正月にも実家に姿を現さないため、皆は上の姉が来る可能性を信じていつも上の姉の分のおせちの各品を一人分ずつ残しておくのだったが、雄二は自分の分をひと通り食べ終わると慌てて余ったおせちを食べていた。栗きんとんがカピカピになっていくのを見るのが忍びなかったためである。
 雄二は飽きずにガラスの方を向いていた。ガラスの外の芝生では大きなゴールデンレトリバーが二頭散歩していて、それを見ていた雄二は、自分がゴールデンレトリバーではなく人間として生を享けたことに驚いた。振り返るといつのまにかコンサートは始まったようで、誰も入場口前には残っていなかったうえにさっきまであった気がした壁際の観葉植物までなくなっていた。雄二は自分が何をしにきたかを思い出そうとした直後に咳が止まらなくなったので建物内のスリーエフで咳止めの飴を購入したが、パッケージに載っている髪の長い有名人の名前が思い出せずに苦しんだ。
 そのことを帰宅してから夜に下の姉に電話で伝えると、「のど飴だから歌手じゃない? 篠原涼子だよきっと」と返ってきた、なるほど歌手か、じゃあ篠原涼子だろうと雄二は手の爪を切りながら無根拠にそう思っていると、足の爪を切っていて髪の長い、また別の女性の姿が頭に浮かんだがその女性が誰なのかはよく分からずに思考に気を取られた雄二が思わず深爪をしたのは左手人差し指だった。下の姉は続けて言った。「今度また新宿で、飲もうよ、ね?」
 新宿のごく大衆的なバーで下の姉と雄二はジントニックを飲んでいるが、それは雄二が大学生の頃に見たネット記事の「ジントニックでそのバーの実力が分かる」という文言とは何も関係がなかった———味が好きなのだ。
「中塚通りのリニューアルした歯医者さん、どうだった?」
「悪くなかったよ、ウォーターサーバーの水が少し臭かったけれども」
「トムとジェリーは流れてた?」
「流れていたよ、いつものように。大きな犬に襲われる回を、いつもと同じように、何度も何度も……」
下の姉は雄二の肩越しに、隣の二人用のテーブル席で一人で壁にもたれかかりながら膝小僧をずっとかきむしっている半ズボンの男を見て、感じた嫌悪を身体の外に出すため、口に服の上腕部を押し当て、周りに聞こえないように、くそ野郎、と呟いた。隣の席の男は、膝のかさぶたを剝いでは指で丸めて、無意識のうちに雄二たちのテーブルの方に爪で弾き飛ばしているのだった。雄二はテーブルの下で、下の姉に見つからないように足首にできたかさぶたを爪で剝がしながら言った。「マグロ、マグロ食いてぇ!」ここは寿司屋ではなかった。店内は雑居ビルの地下の入口から入って奥に細長く、客はみな声が小さかった。大衆的なバー、というかつまりチェーン店ということで、とはいえ姉と二人でバーでお酒を飲むなんて姉弟にしては親密すぎるのではないかと誰もが思うのだが実際雄二と下の姉は親しすぎた。身体の関係が雄二が中学生くらいの頃からあってそれが今に至るまで続いている、と下の姉は友人たちに明け透けに話して驚かれる一方で雄二は周りの友人たちには伝えなかった、というよりはお酒が回ってくるとそのことを雄二は何か武勇伝として話しているつもりなのだが、呂律が回っていないため友人たちは全く聞き取ることができなかった。お前は酒が入ると何言ってるのかわからねぇんだよ、と友人たちに指摘されたために雄二は呂律を鍛える舌の運動を数年前から毎朝継続してきたので、呂律は改善しなかったものの下の姉へのクンニには活かされた、バーを出た雄二と下の姉が直行したホテルは外装も内装も綺麗で大袈裟にキラキラした輝きの中で動いているとまるで高級なシャンパンの中で踊っているようだ、などと雄二は事後に下の姉に言って笑い合っていると、この種のホテルでは珍しく開閉できたので初めに全開にしておいた窓の外に何か光る物体が飛び去っていった気がしたので調べると今はペルセウス座流星群の時期であった。裸の下の姉がベッドに腰かけ、願い事を小さな声で三回唱えたのを雄二は聴いたのだが、それは"homo homini lupus"というラテン語であり意味は"人間は人間にとって狼である"。明らかに願い事ではなかった。

 翌日、雄二が近所の図書館の机の上で、適当に棚から取ってきたカセットテープをいくつか試聴していると、落語のカセットテープを再生している時に突然、脈絡なく、若い青年の声で次のようなセリフが流れてきた。
「狼は、月の美しさを知る唯一の生き物なのだ……」
この奇妙な音声は、何にしても鈍い———動きにしても、勘にしても、頭にしても———雄二の、狼への興味を駆り立てるのに十分であった。狼を見たことがない雄二は、北海道の旭山動物園に狼がいるという話を昔どこかの中華料理屋で流れていたテレビで聞いたのを思い出して、さっそく飛行機に乗り北海道に行こうとしたが長崎に着いた。オーストラリアに留学していた機長の娘がお土産に買ってきた、北と南がさかさまの地図を機長が操縦席に飾っていたため、機長と副機長が北と南を間違えてしまったのである。前川清が歌った内容とは裏腹に長崎はとてもよく晴れていたことを雄二は年を取って死ぬ前の病床で思い出すことになるだろう、そう太陽が告げているのを聴く雄二の身体からは汗が吹き出し、それを見た雄二の恋人のカオリはただ「ああ、八月の汗だ」と思ったが「この人は自分の姉とセックスしている」とは思わなかったのは、お酒が回ってくるとそのことを雄二は何か武勇伝として話しているつもりなのだが、呂律が回っていないためカオリは全く聞き取ることができなかったためである。眼鏡橋は結構よかった。教会群も素晴らしかった。路面電車も二人ともほとんど見たことがなかったので、物珍しく乗るのは楽しかった。長崎は他の都市と違って、旅行で訪れると本当に異質な文明、生活空間と接している気分になるというか、単に「日本の地方都市の一つに来た」という感覚とは全く違う。グラバー邸があるグラバー園の敷石にはハートマークがあるとのことだったが、雄二とカオリは全く見つけ出すことができなかった代わりに拾った五百円玉で「ダッチコーヒー」を飲んだ。オランダ人によって開発されたスタイルのコーヒーとのことだったが、そのオランダ人というのは一体誰なのか。「コブサラダ」のように名前が残っていないのはなんだか不憫だ。グラバー園から見るのんびりとした稲佐山や、その下に佇む長崎港を見ていると、雄二は自分が思いつく限りの感謝の言葉を叫びたくなったが、実際には、ありがとう、と小さく呟くことしかできなかった。それを聞いてカオリは、その言葉が自分に向けられたものだと思って目を閉じ、雄二の手をそっと、しかし強く握った。夕方になった。旅館に向かうタクシーの運転手が言うには、長崎は坂が多いため、長崎市民は自転車に乗れない人が結構いるのだという。雄二もカオリも、そのことは今までの人生で二〇回は聞いたことがあったが、へぇぇ、と興味深そうに答えた。雄二はカオリとのセックスのことしか考えていなかった。それは嘘だ。この都市で最も権威のある、長崎の首長になるにはどうしたらよいかを考えていた。一方でカオリは雄二とのセックスのことしか考えていなかった。これは本当だ。夜が始まった。ショーツしか身に着けていないカオリが、ベッドの上で全裸の雄二の身体を撫でまわしていた。やがてカオリは雄二の方にお尻を向けると、ショーツを脱がすよう催促した。雄二がショーツに手をかけカオリの足首の方までおろすと、カオリの餃子の皮のような美しい女性器の上の方に、つまりお尻の穴に、銀色の本体に紫色の大きな宝石があしらわれたような意匠のアナルプラグが挿入されていた。それは思いがけないことだった。「外してみて」そう言われたので、雄二は半ば催眠術にかけられたような挙動でアナルプラグを外した。抜けるにつれて肛門がめくりあがり、雄二の期待も高まり、目は血走り、口が半開きになっていた。肛門の拡張が頂点に達すると、魚を手づかみしようとして取り逃したみたいに、ずるっ、と肛門からプラグが抜けた。プラグが無くなった後も名残惜しそうに、カオリの肛門はくぱくぱと開いたり閉じたりを繰り返していた。今すぐにでも飛びつきたい気持ちだったが、そんな雄二にカオリは薄く笑いかけながら、人差し指を口元に当て、しーっ、のポーズで制止した。「続きがあるの」カオリはそう言うと、肛門をこちらに向けたまま、きばり始めた。肛門が再びめくれ上がり始める……。続き? 続きって? 一体なんなんだ……。「んんっ、出るっ!」カオリの声が部屋に反射した。二秒間の沈黙の後、カオリの肛門から、黒い昆虫———それは白亜紀の頃には既に誕生し、今に至るまで日本中で繫栄し続けている偉大な昆虫———ゴキブリが出てきた! 「うわぁ!」もちろん、それは本物のゴキブリではなく、カオリが悪戯で仕組んだプラスチック製のゴキブリの模型に過ぎなかったわけだが、雄二はそれに全く気づかず、全裸のまま部屋の扉の方に走り出すと、扉を開け、そのまま廊下に出て行ってしまった。すぐに帰ってきたが、極度に気が動転していたためか、手にはなぜか消火器が握られていた。
翌日も長崎は晴れていた。福山雅治の実家はあの辺にあるのじゃ、という真っ白なTシャツを着た街のお爺さんの声が壁に反射して遠吠えのような音の塊になり狼のように街を駆け巡ったのを見て雄二は絶滅したはずのニホンオオカミがお爺さんの口を通って長崎に現れたのだとの確信を得たのは午後十四時二十五分のことであり、雄二とカオリはお昼に卓袱料理という長崎の食事を食べて満足してお腹いっぱいで雄二の口からゲップが出たのを見逃さず咎めるカオリのその目つきはまるで狼のようだった。カオリには意外と怒りっぽいところがあるのだ。「いやぁ、ごめん、でもまあそんなに怒らなくても」この台詞を旅行中に果たして何回言ったのだろう? 雄二は密かに十五回目までは数えていたものの、それ以降は数えるのを止めてしまった。午後十七時二十分、雄二とカオリは東京へと帰着する飛行機の便に乗り込んだ、乱気流のせいで飛行機は揺れに揺れたので、カオリは、まるでFatboy Slimの「Ya Mama」のMVに出演しているみたいだ、と思った、長崎から彼らが住む東京に帰った雄二とカオリは、カオリの家でのんびりしていたはずなのにいつの間にか二人で口論していることに二人とも驚いたがなおも口論を続けているとカオリのお気に入りのガラス製の小さめのテーブルが何かの拍子に粉々に割れてしまい、その破片を踏んだ雄二の足が血まみれになったのを見たカオリが慌てて応急処置を施しているその光景を雄二は子供の頃夢で見た気がしていたのだがカオリは血を見るのが苦手で必死だったので雄二の頭の中など全く想像せずに真剣な顔で包帯を巻いているカオリの茶色の髪を見た雄二はカオリのことが愛おしくてたまらなくなり痛みを我慢して立ち上がりカオリを抱き締めるとそのままセックスしたので部屋の中はたちまち動物的な甘美で後ろめたい空気が充満してベランダのエアコンのドレンホースから侵入しようとしていたゴキブリは察して今日は侵入することをやめた。口論の原因となったのは、買ったはずのインスタントの長崎チャンポン袋麺が荷物のどこにも見つからないという些細なことであった。

 雄二は東京で一人暮らしをしている。古いクリーニング屋の上の二階の部屋で畳の劣化がすさまじく、ささくれが刺さり痛くてしょうがないので雄二は家にいるときは大体布団か座布団の上にいた。実家に住んでいた子どもの頃から畳の感触を足の裏で感じながら生活していたので、畳の上にカーペットを敷く発想を持つことは原理的に不可能だった。今日も雄二は窓を開けて座布団の上にいた。眼下では、午後三時の太陽の陽に照らされている舗装したてのアスファルトの上を、茶色の猫が一匹、その後ろを追いかけるように黒い猫が一匹、唸り声をあげながら駆け抜けていったので、この二匹の猫の足は黒く汚れてしまったに違いない。正面には、並んでいる家々の隙間から小学校が見える。チャイムがなり、しばらくすると下校中の小学生たちが話す声が聞こえてきた。
「飼育している兎が脱走してしまった、二年一組のサボテンが枯れてしまった……」
その時、携帯電話が鳴った。母からだった。
 雄二の上の姉が日本に帰国したという知らせを母親からもらった雄二は上の姉が海外にいたことを知らなかったし上の姉に配偶者がいて子どもまでいることも知らなかったのだが、実家のアルバムには上の姉の結婚式で笑顔でテリーヌを頬張っている雄二の写真が残っているのだから雄二が知らないはずはなかった。何となく雄二は上の姉が姿を現すことをここ数日予見していた。雄二が育てているサボテンも理由もなく枯れ果ててしまっていたからである。明らかに不吉な予兆であったために雄二は神社にお守りを買いに行ったが、神社のご神木も枯れ果てていたので、お守りは買わずに玄関に塩を撒いた。実家に帰って久しぶりに会った上の姉の身体は、特に両腕は、異様に発達していた。隆起した立派な上腕二頭筋、上腕三頭筋が作る山々の中を血管がまるで雄大な川の流れのように巡っているのを見ている雄二は偉大なる中国の古代文明や黄河、あるいはチグリス川、ユーフラテス川のことを想起していた内面とは裏腹に外面は口をあけてポカンとしているその顔を見た雄二の母が何か菓子でも用意した方がよいかと思うや否や雄二の父が居間に胡椒のきいた煎餅を片手に入ってきた。実家は木造の日本家屋だ。居間の西側に、細い廊下を挟んで台所兼食卓、居間には低い机と座布団五つとテレビの方を向いた座椅子、居間の東側は縁側だ。下の姉の奥歯の詰め物が突然取れてしまった。上の姉は中国の砂漠を旅していたのだと言う。上の姉は砂漠で一度死にかけた。それはある晴れた日———とは言え、砂漠はだいたい晴れているものだが———のことだった。どこの方角を見てもおおむね同じ景色が繰り返されている砂漠の真ん中を一人で歩いている上の姉は髪をひもでまとめているが全身を長く大きい布で覆っていたためにうなじは見えない。突風が起こった。突風が去った。上の姉は砂漠に胸の辺りまで埋まっていた。助けを求めて一時間後、背の高い痩せた男が通りかかり姉を救助した。その夜、二人はセックスをした。子供ができた。子には「漠(ばく)」という名前が与えられた。二人の結婚式はそれから三年後に東京のホテルで開かれた。この話を改めて聞いた下の姉は、とれてしまった奥歯の詰め物をサランラップで包みながら立ち上がった。「次は私の番ね」下の姉はそれだけ言い残すと、玄関を出て中国の砂漠の旅へ、空港に向かっていった。
 下の姉がいなくなって、雄二は安堵のような感情を感じないでもなかった。というのも、この地球で生まれそして滅んでいった、あるいは今も継続している数々の文明において姉弟の性行為が正当化されている文明などほとんどなく(この文章は正確ではない。もちろん、「ほとんど」という表現がどの範囲を指すかが問題だが、ゾロアスター教やその他古代の文明を中心に、タブー視されていた文明ばかりではない)、つまり雄二たちは人類史から拒絶されていて、そのことは深い孤独を雄二にもたらしていたからだ。加えて、下の姉と身体を重ねる度に、下の姉が生得的にもつずるさや不寛容さ、他者を最後には信じきらない弱さ、無理解に対する怯えを皮膚から伝わる温度と共に感じとり、そしてそれらが翻って自らの身体の中で根を張り、自分がもともと持っていたずるさ、弱さ、怯えと結びついて身体の中で繁殖していくような、不気味な感覚を雄二は感じていたからである。しかし、昔から伝わるように、「一難去ってまた一難」だ。下の姉が日本を出国した翌日、花泥棒が現れた。雄二が住んでいるクリーニング屋の上の部屋の近くの小さな公園の話だ。今日は雲ひとつない青空で、近隣の暇人が三人ほど公園に来てベンチに座っている様子を俯瞰するとちょうど彼らの配置は正三角形になっていた。正三角形の面積は√3/4 a^2で求めることができるが、導くのは容易なため覚える必要は全くない。ここは晴れているが下の姉がいる中国は雨だ。フィンランドは曇りだ。盗まれたのはペチュニアだ。「いや、盗まれたのは花ではないのだ」と雄二に語りかけたのはシルクハットが似合うジャミロクワイみたいなヒゲの紳士。「その花泥棒が盗んだのはそこに不法投棄されていた洗濯機なのだよ」花泥棒が花以外を盗むことが可能なのか? 「無論、可能だ」夏だった。「お前もむかし花泥棒だったのだろう」と話を続ける紳士のシルクハットには鳥の羽が一枚付けられていた。「何を盗んだのか言え!」タバコを盗みました、と言う雄二の頭上を覆いかぶすように葉桜の枝が発達しているのを見た通り掛かりの区の職員は、来年はこのあたりの地域でとても立派な桜が咲くだろう、と小学校に来年入学する自分の娘の入学式の写真がとても華やかになるであろうことに深く満足を覚え、近くに来たカラスを笑顔で威嚇した。カラスは驚いて飛び去り、しばらくは怒りと羞恥と共に飛行を続けていたものの、やがて自分には翼が生えていて、こうして空を飛ぶことができることを生まれてから初めて意識した。なんてことだ! 僕は最初から自由だったのか! 自由に生まれたからには、自由を行使しなければならない。カラスは未だ行ったことのない、アメリカ大陸を目指して、太平洋を渡り始めた。風は穏やかで、海は凪いでいた。
 結局、三か月もの間、カラスは太平洋の上を飛び続けた。ハワイがあった。ワイキキビーチには黄色のパラソルを開いて並んでのんびりくつろいでいる中年の夫婦がいて、彼らが去ると夜が来た。ビーチの近くの宿泊施設では焚き火が焚かれていて、その火に引き寄せられてくる昆虫を狙ってカラスが施設の屋根から急降下して焚き火の周りの人から歓声が起こったのを聞いて得意げになっているカラスの嘴には食べ残した昆虫の脚がついていることにカラスは気づいていなかった。翌朝、カラスはハワイをたち、アメリカ大陸へと向かった。途中で小さな漁船の船員が手を振った。日本での生活をカラスは思い返していた。アメリカ大陸が近づいてきた。カラスがよく目を凝らすと、海岸にはこちらを観ている人々が沢山いて、彼らが掲げている横断幕にはこう書いてあった。「黒い羽根が素敵な孤高のカラスよ、アメリカ大陸へようこそ。君の幸福を祈る」その下に、誰かが酔った状態で書いたのか、ペンで小さく手書きでこう添えられていた。「初恋と海は同じ味」本当にそうなのだろうか? その時、ひとまずアメリカ大陸に到着して一安心、とばかりにのんびり内陸の方を眺めながら飛行していたカラスの横顔を何かがかすめた。蜘蛛の巣だった。蜘蛛の巣が空中を漂っていた。しかしスピードはカラスよりも速かった。カラスが振り向くと、そこには大量の蜘蛛の巣が、カラスと同じく内陸の方に向かって飛んでいた! 蜘蛛が自らの糸を使って空を飛行することをバルーニングと呼ぶが、彼らもまたカラスと同じく日本から太平洋を渡ってここまでやってきたのかも知れなかった。いいだろう、こうなったからには全速力で、最後には翼の先すら動かせなくなるほどの全速力で飛び続けてみようじゃないか、蜘蛛たちよ、俺についてくる覚悟は決まっているか? カラスは翼をはためかせ、スピードを上げた。黒い美しい羽根が二、三本抜けてヒラヒラと青い屋根の民家に落ちた。アメリカ大陸の上を流れる風の勢いが強くなった。蜘蛛たちは、その風に乗って速度を上げ、カラスの少し後ろを追いかけるように流されていった。その様子を酒場の二階のバルコニーから眺めていたおじいさんが呟いた。「初恋の味は海の味」カラスと蜘蛛の一行は、地平線に隠された向こうの世界に、いざ、巻き込まれに行かん、とばかりに飛び続け、やがて姿が見えなくなった。「あの蜘蛛の巣を、この辺りでは昔は食用にしていたものだ。なんでも、東洋では寿命を伸ばす薬にもあの蜘蛛の巣が使われると評判で、高値で取引されていたこともあった」とおじいさんが言った。独り言だった。独り言ではなかった。この土地そのものに話しかけていた言葉だった。おじいさんはバルコニーの椅子に座ると、椅子の下に置いてあったウイスキーの瓶を開けて直接口をつけて飲み始めた。瓶のラベルには、バッファロー・トレース、と書いてあった。日が暮れた。お爺さんは椅子に座ったまま眠っていた。

 ブラジルで、一人の少年が生を享けた。まだ手軽に使えるようなカラー写真機が普及していなかったので当時の写真は全て白黒ではあったが、それは世界が白黒であったことを意味せず、少年が友達たちと遊んでいる道の色は濃い茶色、彼のTシャツと半ズボンはサッカーブラジル代表の黄色と青色といった具合だったが、少年が蹴っているボールは白黒で、少年にとっては白黒のボールが世界の全てだった。どこかで犬が吠えた。少年は後方からボールを奪い取ろうとする友達を"クライフターン"で華麗にかわすと、ゴール目掛けて右足の甲でボールを蹴り込み、ゴールキーパー役をやっているダヴィ、その母親がダヴィの誕生日に一晩夜鍋して作成したお手製の小さいゴールポストの位置を後方に50cmずらした。
「ゴラッソォ! ゴル、ゴル、ゴル! オ・ティーグレ!(「虎」)」
ヨハン・クライフによりこのフェイント技術が有名になる何年も前の出来事だった。少年はTシャツを脱ぎ、ついでに半ズボンも脱ぎ、全裸であたりを走り回ったその身体では、幼い頃に父親の牧場での事故でついた四本歯のピッチフォークによる腹部の虎のような横縞の傷が、熱くて湿気の多い空気によって揺らいだためダヴィは虎が少年の腹から飛び出してくるような錯覚に襲われた。「オ・ティーグレ!」「オ・ティーグレ!」友人たちが次々に囃し立てていた熱狂的な声が、夜になって誰もいなくなっても道の壁の間を反射し続け、徐々に移動し、ついには都市部の方まで届いた。都市の住人たちは、「オ・ティーグレ」が誰かも知らなかったし、その声がどこからやってきたのかも知らなかったが、何となく愉快な気分になり、もう寝ようと準備していたベッドの中から起き上がると、窓の外へ向かって叫んだ。「オ・ティーグレ!」あまりに都市中が「オ・ティーグレ」の声で満ち、賑やかだったので、太陽が間違えて昇ってしまいいきなり朝がやってきた。都市で二番目に大きい四つ辻の交差点の近くに立つ五階建てのアパートの屋上では、今夜観察する予定だった惑星の整列、つまり水星と金星と火星と木星と土星が一列に並ぶという天体現象を観るために準備された天体望遠鏡の側で一人の男が被っていた帽子は緑色のキャップではなく黄色だった。「なんてことだ! 一週間前から楽しみにしていたのに、太陽が昇って見られないだなんて」白いシャツの上に、薄い茶色の、四角いパターンの柄が入ったジャケットを着ていたその男は、帽子をおもむろに手に取ると、そのまま屋上から下の道路に向かって帽子を投げつけた時に肘に痛みを感じた。「オ・ティーグレ!」どこからか声が聞こえた。「オ・ティーグレ!」答えるように天体観測の男も叫ぶと肘の痛みが消えた。「オ・ティーグレ!」オ・ティーグレ、その声がどこからきたのかを調べるために男は屋上から下に降りて外に出ている人々に聞いて回ったが返ってくる答えはてんでばらばらだった。男は母方のおばあちゃんが昔教えてくれた道案内のおまじないを思い出し、実行するために近くの人に尋ねた。「水の入ったたらい、ありませんか? あと、何か野菜を」男がそう言い終わるか言い終わらないかの内に、いつも天体観測の男が懇意にしている太っちょの野菜屋のおじさんがブロッコリーの入ったピンク色に塗装されているたらいから水がこぼれないように慎重に足を引き摺りながら歩いたので、おじさんの歩いた跡が土の上に二本のレールのようにまっすぐ伸びていた。たらいを受け取った天体観測の男は、右手の人差し指を口に含んだ後にブロッコリーの幹にその人差し指を突き刺しこう言った。「汝、我に光の道を示せ」水に浮かんでいるブロッコリーの位置が南西の方角に移動したのを確認した天体観測の男が南西の方角に移動したのを見た人々は、何か面白いことをやってるぞ、と皆次々と彼の後ろに加わったので、彼らの移動した後には土埃が舞い、道沿いに住んでいる人々は汚れてしまった窓を雑巾で丁寧に拭かなくてはならなかった。一同が歩くたびにどんどんと人が加わり、彼らが街を出て山あいの坂道にさしかかった時には人の数は百名を下らず、いつの間にか六頭ほど犬までついてきて、さらに最後尾にはどこから脱走してきたのか牛までもが一頭ついてきている有様だった。牛の近くの、緑のシャツを着たベージュのロングスカートの女が牛を撫でてやった。牛はスカートの端を齧った。スカートの端がほつれてしまって不機嫌になった女は牛を撫でるのをやめた。やがて一同は、山あいの小さな集落にたどり着いた。家々の白い外壁に挟まれたある道路で、少年たちがサッカーをやっていた。「見ろ! ブロッコリーが動かなくなった。ということは、ここが目的地ということか?」とたらいを持った天体観測の男が呟くや否や、ブラジル代表のユニフォームと同じカラーリングのTシャツと半ズボンを着た一人の少年が、サッカーボールを蹴って空高く打ち上げた。ボールがあまりに高く上がり、その間誰も呼吸すらせずボールの行方を追っていたので、どこかで枝が折れる音以外は物音は何もしなかった。そして皆の視線が上から下へ、ボールが上から下へ落ちてくると、ボールは天体観測の男の持つたらいの中に勢いよく突っ込み、ブロッコリーは弾き出されてボトっと地面に落ちた。「オ・ティーグレ!!」一同がワッと沸くと集落の人々も集まってきてまもなく宴会が始まるという雰囲気の中で、一人の黒いスーツを着て山高帽を被った男がまたもや服を脱いで全裸で辺りを疾走している四本傷のオ・ティーグレの前にしゃしゃり出てくると、こう言った。「君の才能は、こんな小さな村で収まっていてよいものではない、それはお前も当然分かっているのだろう?」「どこならいいって言うの?」「欧州だよ」そうしてスーツの男はウインクすると「君のご両親の家はどこかな?」と言い、オ・ティーグレの手を取り歩き出した。通りかかった水瓶を持った村の女が落ちていた人の拳の形をした石につまづき、水瓶を落として割ったので辺りの湿度が上がった。暑くて湿気の多い空気のせいでオ・ティーグレの四本傷が揺らいだため一同は虎が少年の腹から飛び出してくるような錯覚に襲われた、水瓶の女は思わず両手を頭に当てしゃがみ防御姿勢をとってしまったほどだった。
 このようにしてオ・ティーグレは、十三歳の時にブラジルを旅立ち、スペインのクラブチームの下部組織に入団した。当時は南米の有力選手がこぞって欧州クラブに移籍するような時代ではなかった、欧州と南米のリーグではそれほど大きな差はなかったはずであるので、山高帽の男が「欧州だよ」などと言ったのは青田買いのためのある種の方便だったと考えられるが、とにもかくにもオ・ティーグレはスペインにやってきたというわけだった。オ・ティーグレの母は航空機に対して何か恐怖心があるのか息子のスペインまでの渡航手段として船舶を必ず使用するように主張したため、オ・ティーグレは非常に長い時間、船酔いに苦しまなくてはならなかった、これ以降、オ・ティーグレは船による移動に強い恐怖心を抱くようになってしまったので、どうしても船で移動しなくてはならない時には、周囲の人間が移動前の食事に強力な睡眠薬を混ぜて、昏睡している間に船移動を終わらせるという手順が用いられた。あの小さな村では比類する者などいなかったオ・ティーグレは、スペインにやってきて初めてチームメイトと練習をし始めた一時間後、自分よりボールを足でコントロールする能力に長けた人間が存在していることを初めて理解した。落ち込んだ日はいつも、オ・ティーグレは一人で夜空を見上げた。落ち込んでいない日、良いことがあった日もいつも、オ・ティーグレは一人で夜空を見上げた。トップチームへの昇格が決まった十八歳の夜、ずっと目をかけてくれていたコーチとその家族とのお祝いの宴から寮へと帰宅する時、酔いを覚まそうと街の広場の噴水の水溜まりで顔を洗っていると、水溜りに星々の光が反射していた。思わず夜空を見上げると、空では、水星と金星と火星と木星と土星が一列に並び、さらにそのすぐ近くを彗星が尾をひきながら流れていった。「おめでとう、オ・ティーグレ!」そう呼ぶ声がどこからか聞こえた気がして、オ・ティーグレは後ろを振り向いたが、茶色の猫、二組が、レンガ組みの地面の上でそれぞれ交尾をしていただけだった。

 神奈川県川崎市にある等々力陸上競技場は、J1所属チーム『川崎フロンターレ』のホームスタジアムであり最大入場可能人数は26827人であるが、この日の入場人数が10000人程と振るわなかったのは、この試合が余興的なエキシビジョン・マッチであったことと、対戦相手がスペインの一部でなく二部リーグのクラブチームであったことが関係しているのかもしれない。七月の終わり頃、例年に比べて今年は冷夏となるだろう、稲作など農作物への影響は甚大であり供給不足は免れ得ないだろう、という予報が完全に外れ、灼熱の鉄板の上のような猛烈な暑さが日本列島を襲っていたにも関わらず小坂雄二が長袖長ズボンという格好で観戦しているのは、一週間前に行った九十九里浜で日焼け止めを塗らなかったために身体中の皮膚がボロボロになり、それ以来彼は日焼けすることをあまりにも恐れていたためである。
「ちくしょう! あの岡田とかいう気象予報士、全然予報と違うじゃないか! あいつ、つい一か月前は冷夏になるとかぬかしてただろ、コインの裏表で予報してるんじゃあるまいし」
「そうね、下駄占いじゃあるまいし」
「下駄占い?」
カオリが言った"下駄占い"、その言葉を何十年ぶりかに聞いた雄二は、小学校の校庭や親戚の叔父さんの家の前の道路で靴を飛ばして天気を占っていた自分の後ろ姿と前から見た姿が同時に脳の真ん中に浮かんできた気がして懐かしくてたまらなくなり、その感情をカオリへの想いと取り違えてカオリのことが愛おしくてたまらなくなり、ここがサッカー場のスタンド席「メインS席116ブロック」であることを忘れセックスしようと腰を両手で掴んだが拒絶された。
「ちょっと! なんなの?」
空は当然晴れていた。何が当然なのか? てんとう虫が何匹かスタジアムの中に人知れず侵入した。拒絶された雄二は、太陽の光に目を細めながら、上の奥歯に挟まったねぎの繊維を舌を尖らせて取ろうと奮闘している。午前中に等々力渓谷に行った後、観戦前に雄二とカオリが蕎麦屋で食べた蕎麦は100%の蕎麦粉でできており、そのあまりの香り高さ、濃密さは、もし蕎麦アレルギーの人がこの店の近くを通ったら、それだけで命に関わるのではないかと思われるほどだった。食べ終わる頃、なぜかイライラしている自分を発見した雄二は、カオリの蕎麦の食べ方、ずずーっと啜らずに、もっ、もっ、もっ、もっ、と箸で少しずつ輸送しながら口に入れるそのやり方を、お店で会計をしている時から店を出てスタジアムに向かう間中、ずっと真似をしてからかっていたので、カオリは腹が立ち口を聞かなくなっていたが、試合が始まる頃には、どちらともなくポツリポツリと会話し始めて、二人は曖昧に仲直りしていた。
 なぜ雄二はあの時イライラしていたのか? 緑色のカマキリが何匹か、ユラユラと揺れながらスタジアムの中に人知れず侵入した。試合が終わり、選手が整列しているのが斜めから見える雄二たちの席の下では、後ろの席の人が持ち込んだクーラーボックスから溢れた溶けた氷がコンクリートに染み込み、蝶々によく似た形になっていた。反響する館内放送。「本日の姉妹都市間フットボールクラブ交友試合をもって、こちらのミゲル監督、長い間スペインのファンに親しまれておりました智将『オ・ティーグレ』監督は、チームを離れることとなります。今年で七十歳、日本でいえば古希となるミゲル監督ですが、今後、スペインを離れて故国のブラジルにてサッカー指導者を続ける予定とのことです。リーガ・エスパニョーラでの長年のご活躍、そしてブラジルでのさらなるご活躍を願って、今一度、会場の皆様も拍手をお願いいたします」感動しいのカオリが神妙な顔でアナウンスに従順に拍手しているのを見て雄二は言った。
「誰? オ・ティーグレ? 有名?」
「海外サッカー好きな人は知ってる、って感じじゃない? なんか監督でしょ」
「二部だけど有名なんだ」
「もっとすごかったんじゃない、あんまり知らないけど」
「ちょっとは知ってるんだ」
元カレがなんかたまに言ってた、みたいなことをカオリがぶつぶつと言った。オ・ティーグレ監督は、その顔の深い皺と無口のせいなのか、思慮深く、哲学的で、重厚な雰囲気を纏っていた。その時だった。あ! なんで自分がさっき蕎麦屋でイライラしていたのかが分かった! 雄二は、カオリがトッピングの卓上の天かすをこれでもかというくらい使っていたのを、そんなに使ったら店の迷惑だし何より品がないじゃないか、と思ったことが原因であることに思い当たり、足元を何となく眺め、顔を上げた時には観客たちは皆帰る準備をしていた。そういえばカオリの顔は、どんな顔だったのだっけ? 何か日本のバンドのロゴが胸にある白いTシャツの上の頭では、茶髪のボブカットの隙間から暑くて赤くなった耳が出ている。キリッとした眉と目の間の距離が短くて、少しオレンジがかった口紅との相乗効果でとてもハンサムな印象を受けた、雄二は何かスピリチュアルな拘束を感じ、その美しい唇から目を逸らすことができなくなってしまった。注意深く見ると、唇は油でテラテラと光っていた。天かすだ! 昼にこの女が食べた、あの途方もない天かすの山、そして、涼しい夏のまどろみのような滑らかさで蕎麦つゆへと溶け込んでいった、恐らくキャノーラ油だと思われる天かすの油……。容赦の無い真夏の陽光が唇を反射して、フロリダやアイスランド、果ては希望峰に至るまで、世界中のあちこちに散らばっていった。雄二は、全く唐突に、俺はこの人と結婚しなくてはならない、と感じた。俺は、この人と朝から晩まで生活を共にしなくてはならない、お互いに、お互いの心と身体の世話をし続けなくてはならない、そして可能な限り多くの子を産み育て、地球の陸地の表面を、俺たちの子孫たちで、足の踏み場もないほどに埋め尽くさなくてはならない。一週間後、雄二はカオリの前に跪き、婚約した。婚約指輪は、少し無理した、カルティエの指輪だった。
 しかし結婚には大きな障害が立ちはだかった、それは結婚相手を親に紹介しようと、雄二がカオリを実家に連れてきた時のことだった。昔から少しも変わらないこの木造二階建て一軒家には、雄二の両親、そしていつの間にか住み着いた上の姉と子どもの漠(ばく)がいた。上の姉の夫はこの時はいなかった。
「この女の人、だれぇ? だれぇ? え、かのじょ? かのじょ? かのじょっ!」
うぅーっ、とか素っ頓狂な声をあげて漠が玄関前に突っ立っている雄二とカオリの周りをぐるぐると走り回るのを上の姉は止めずにけらけらと笑っていた、雄二の母は孫の漠に一言、うるさい、落ち着きなさい! と一喝すると漠は家の奥の方に引っ込んでいった、その時、漠が何かキラキラとした物を廊下に落としていったのをカオリは見落とさなかった。雄二たちが玄関口から居間へと移動する時、カオリがさりげなくそのキラキラとした物体を拾い上げてみると、それは人間の形をした小さくて透明な樹脂の塊だった、もっと細部を見ようと色々な角度から見ているうちに手が滑って口の中に入ってしまい、そのまま飲み込んでしまった。
「げほっ、げほっ、うぅ、げほっ、げほっ……」
だ、大丈夫? げほっ、うぅ、すみません、トイレはどこですか…… トイレ? トイレならそこの階段の付け根のところのドアだけど…… ほんとに大丈夫? カオリがトイレで喉の奥の異物と格闘している間、雄二たちは居間で話していたが、父は極端に寡黙だし、上の姉は漠と二階に上がっていったのでしゃべりかけるのはほとんど母だけだった。
「カオリさん、ほんとに大丈夫かしら」
「ちょっと心配だね、顔赤くなっていたし……」
「カオリさん、とってもかっこいい人だわね」
「まあ、確かに、結構九州で育ったから……」
「子供の頃あんたが飼ってた文鳥の名前覚えてる?」
「サラちゃんだよ、忘れるはずもない、何てったって母さんが間違えて踏んじゃって死んじゃったんだから」
「私とお父さんが出会った時のこと、知ってる?」
「母さんと父さん? 母さんが高校卒業して、新潟から就職で上京してきてまもない頃に、上野のカフェで父さんにナンパされたんだろう?」
「小学三年生の時の担任の先生、誰だっけ」
「田井中先生だろう? 蚕をクラスのみんなに配って、育て方とか繭の取り方とか教えてくれた……」
「一番好きな食べ物は?」
「ソーキそば、かな……」
「お前、本物のうちの子じゃないな?」
突然、母の顔が表情を失った。雄二はその顔を見て最初は、母が笑おうとしたが顔の筋肉の動かし方を忘れてしまったのだと思ったが、その目を見て、その無表情がそのまま母の感情を表していることを知った。目は真っ黒だった。本来白目であるはずの部分までもが真っ黒だった。雄二は場の雰囲気の変化、迫力にドギマギして、立ち方を忘れてしまって後方に一歩、二歩、とよろめいた。
「お前は、本物の雄二であるならば当然答えられるであろういくつかの問いに、完全に誤った回答を出した」
「いつ入れ替わった? 本物の雄二をどこにやった? お前は誰だ?」
と母の言葉に被せるように言ったのは父だ。気づくと父は雄二のすぐ横に立っていた。目が黒い。父は息子の婚約相手が来る日だったからか、いつもの灰色のジャージみたいな格好ではなく、紺色の半袖のシャツを着ている。母は白黒のボーダー柄の半袖だ。ピーっ! しゅーっ、しゅーっ、と台所の方からやかんのお湯が吹きこぼれる音が聞こえてきたにも関わらず、ここには誰一人動く者がいない。
「父さん、母さん、一体何のことやら全然分からないよ……」
「雄二はどこだ?」
「お前は誰だ?」
「誰だって……雄二だよ、決まってるじゃないか……」
「企みは分かっている。地下室が目的だったんだろう?」
「どこで地下室のことを知った?」
「地下室? ほんとに何のことやら……ただ単に俺は……」
「この男の人、だれぇ? え、しんにゅうしゃ? しんにゅうしゃ? しんにゅうしゃっ!」
とニヤニヤ楽しそうにしているのは漠だ。いつの間にか、上の姉と一緒に雄二のすぐ後ろに立っていた。このクソガキがよ! あっちいってろ! と雄二は蹴り飛ばしてやりたい気持ちだったが現実には舌打ち一つさえ出さなかった、代わりに、声を荒げてこう言った。
「こんな悪い、質の悪い冗談を、よりによって結婚相手の紹介の日に仕掛けられるなんて! 母さん、父さん、親しき者にも礼儀あり、だぜ。流石に今回の悪ノリには、いくら家族とはいえ心底がっかりしたよ。失望した! こんな家族にとって大事な日に。それとも、大事だと思ってたのは俺だけだったのかな? 本当に、最悪だよ。カオリだって、とても悪い印象を持つだろう。やっていいことと悪いことがあるだろう!」
「ごちゃごちゃ喚くな!」と言い放ったのは母だ。もうすぐで七十代だと言うのに、その声は大きくよく通ったので雄二は近所の目、いや耳が気になった。
「言い訳はよろしい。お前がやるべきことはたった一つしかない。お前が雄二であることを、お前がうちの子、私の子、雄二である証拠を、我々に見せるのだ」
「なんだ、まだこの芝居を続けるのか…… 本当に不愉快だな…… いくら家族とはいえ、こんなくだらないことをこれ以上話していてもしょうがない、ここでカオリを連れて帰ってしまっても良いのだが……」
と周りを見たが、カオリはまだトイレから帰っていない。それならば、と雄二は思った。カオリが来るまでに、この状況にかたをつけてやろう。そうして終わった後、何もなかったかのように振る舞ってしまおう、そうすれば、俺も、カオリも、そして家族も、何もかもが万事元通り、つつがなく流れていくに違いないのだから……
「やれやれ、付き合うしかないのか! どうしたら、俺が本物の雄二だってこと、納得してもらえるのか?」
「弁明しろ」
四人が同時に、無表情で同じことを喋った。
「弁明しろ」
弁明しろ、弁明しろ、弁明しろ……。どうしてこんなことになってしまったのだろう? と雄二は意識が遠のいていく気がした。震度二、三程度の揺れを感じて、雄二、そして母と上の姉の三人は一瞬、地震が実際に起きたのか、それとも自分が揺れただけなのかを判断するために、天井照明から下がっている紐スイッチを見上げた。揺れてなかった。ともかく雄二は、以上のような経緯で、自分の家族の前で、自らの存在を弁明する責任に追われるのであった……。


以上、『Deneutralized, neutralized』Part1でした。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
Part2もぜひご覧ください。

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