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【ためになる?コラム】故事成語辞典:その22「良薬は口に苦し」の巻

 もともとこのテーマの記事を連日で投稿することはないのですが、昨日の記事中に内容の抜けがあったり、誤字があったり、と……それを修正して再投稿したらまたそれにも誤字があったり、と散々な出来映えでした。とても満足できるものではありませんでしたので再挑戦、というわけではないのですが、本日も連続して投稿させていただきたいと思います。

 拙い記事内容ではあるものの、一応私としては……独り言などではなく、ごく少数とはいえ人様に読んでいただくことを目的に投稿していますので、内容以前に初歩的なミスはあってはならないと思っています。どうも申し訳ありませんでした。
 今後さらに内容の方も熟考を重ね、楽しんでいただけるようなものにしていきたいと思っています。


 あらためまして今回は「良薬は口に苦し」という故事成語についてご説明させていただきたいと思います。こちらはだいぶ前に大衆薬のテレビCMでさんざん流れたフレーズですので、特に私と同世代の方には馴染みのあるものだと思われます(龍角散だっけ? ちょっとその辺はあいまいです)。お前って何世代だよ、と言われるかもしれませんが、そこはあえてスルーしてください。

 では始めさせていただきたいと思います。「良薬は口に苦し」です。


【良薬は口に苦し(りょうやくはくちににがし)】

意味
忠言とは素直に聞きづらいものであるが、有益なものである」ということのたとえ。非常によくできたとえであり、これを最初に考えた人は、天才だと思われる。
 どんな人が考えたのだろうと調べたら、あの孔子だった。納得。
 以下、「由来」の項でそれを説明したい。

由来:孔子曰、「藥酒苦於口而利於病忠言逆於耳而利於行。湯、武以諤諤而昌,桀、紂以唯唯而亡。君無爭臣,父無爭子,兄無爭弟,士無爭友,無其過者,未之有也。故曰、君失之,臣得之、父失之,子得之、兄失之,弟得之、己失之,友得之。是以國無危亡之兆,家無悖亂之惡,父子兄弟無失,而交友無絕也。」(原文:『孔子家語』六本より)

 以下は訳文である。
 孔子曰く「薬酒は口に苦けれども病に利あり忠言は耳に逆らえども行うに利あり。殷の湯王、周の武王は諫めによって繁栄したが、夏の桀王、殷の紂王はそれがないゆえに滅んだ。君臣の間に争いがなく、父子の間に争いなく、士は友と争いなく……これらはすべて、過ぎたるは及ばざるが如し。ゆえに曰く、君主は失い、臣下は得る。父は失い、子は得る。兄は失い、弟は得る。己(おのれ)は失い、友は得る。……この精神があれば、国は危機を迎えることなく、家は安全、父子兄弟の間に失われるものがなく、友情も途絶えることがない」


解説
孔子家語」は全体的に難解だとの評判で、非常に訳すことも難しいとされます。上記の口語訳は意味がよくわからないですね。しかし最初の一文の意味するところはわかりやすいかと思われます。

 要約すると、「上の立場にいる者は、下の立場にいる者の本音を聞きなさい」ということを言いたいのでしょう。君主は我を張らず、臣下の思うとおりに話させなさい、父は頑固にならず、子の言うことを聞きなさい、兄も強情にならず、弟の言うことを聞きなさい、自我を捨て、友人たちの言うことを聞きなさい……そういうことだと思います。親しい間、君臣の間柄とはいえ、言い争いがまったくないことは、かえって逆効果だ、と……。そのうえで下の立場の者が満足するように、上の者ははからいなさい、と言っているようです。

 要するに、上位の立場の人間が自制することで、組織はうまく回る。かつ下位の者が発する言葉には、意外に聞くべき価値があるものだ、と言いたいのでしょう。いわゆる「諫言」に耳を貸しなさい、と孔子は言うのです。

 ところで「孔子家語」とは「論語」に収まりきらなかった孔子とその弟子たちの逸話をまとめた二十七巻の書物だったようです。が、すでに漢の時代には散逸しており、現存するものは魏(三国時代・魏志倭人伝の魏です)の時代に再編集された四十四編からなるもの、とのことです。
 つまり、「孔子家語」は古代においてそれほど普及した書物ではなく、その言い回しだけが世に伝えられたということでしょう。

 実際にこの言葉が使用された例が、「史記」の中に記録としてあります。時代は秦が衰退したときで、俗に言う楚漢攻防の時代です。しかしまだこのとき、漢という国は誕生していません。

 以下、この言葉が実際に使用された場面を解説していきたいと思います。

 長くなりますが、ご了承いただきたいと思います。

劉邦陣営の軍師・張良子房です

【張良という人物】

 張良という人は、戦国時代における韓の遺臣です。彼自身が韓に仕えていたわけではありませんが、祖父・父ともに韓の宰相としての役割を担いました。彼も成長すれば間違いなくその役目を担ったことでしょうが、残念なことに彼が仕官する前に、韓は秦によって滅ぼされてしまいました。そういう出自です。まさに名家の出です。彼の家には三百名を超す召使いがいたという事実が、そのことを証明しています。

 そのような家に生まれたため、祖国を滅ぼされた秦に対する彼の怨みは尋常ではありませんでした。若くして家長となった彼は、病で死んだ弟の葬儀も出さず、その費用を秦に対する復讐のために貯め込んだといいます。

 司馬遷は張良の外見について「婦人美女のようであった」と記していますが、その彼が計画していたことは、全財産をつぎ込み、始皇帝を暗殺するための刺客を雇うことでした。このことについて司馬遷は、「まさに人は見かけによらない」とも書き記しています。

 張良は貯め込んだ金で大力の士を雇いました。そのうえで重さ百二十斤・72kg相当の鉄槌を作り、これを始皇帝暗殺のための武器としたのです。
 始皇帝が東方に巡幸した際、張良とその力士は博浪沙(はくろうさ)という地において、これを襲撃しました。始皇帝の乗る「轀輬車」(おんりょうしゃ)めがけて72kgの鉄槌を投げ放ち、車ごと破壊してその命を奪おうとしたのです。

 しかし狙いは僅かに逸れ、鉄槌は轀輬車の隣にある副車に当たりました。始皇帝は激怒し、犯人の捜索を全国に命じました。張良は力士とその場で別れ、名を変えたうえで下邳(かひ)という都市に潜伏します。

 その際に張良は不思議な老人に出会いました。そのあたりの顛末は長くなるので割愛しますが、そのとき彼は老人から一巻の書物を授けられます。それが太公望による兵法書でした。彼はそれをいつも携え、暇さえあれば読みふけったといいます。

 その後陳勝呉広の乱が発生しました。張良もこのとき若者数百名を集め、叛乱に参加しようとするのですが、その際に出会った人物が沛公(劉邦)です。
 司馬遷の記述にはこの過程があまり詳しく描かれていませんが、それまで張良は幾人かの人物と接触はしていたようです。しかし残念なことに彼の話(主に太公望の兵書についての話)について行ける人物は皆無で、唯一聞き入ってくれたのが劉邦だった、というわけでした。
「沛公殆天授(私にとって沛公とはほとんど天からの授かり物というべきだろう)……原文:司馬遷著『史記』留侯世家」

 こうして張良は、以後劉邦のもとで軍師となります。その後の活躍は、何度かこちらのコーナーでもご紹介したとおりです。

【劉邦の暴走を止める】

 漢・楚の戦いで勝利を収めたのは漢の側ですので、漢王劉邦におおらかな印象を持つ一方、楚王項羽には暴虐な人物像を描く方も多いのではないでしょうか。しかし実際はどちらも似たり寄ったりで、最終的に勝った側が後世によい印象を持たれるよう記録するのです。司馬遷はかなり客観的な記録を残す歴史家ですが、彼も漢の歴史官であることは確かなので、あからさまに劉邦を批判するような書き方はしていません。しかし数ある登場人物の台詞の中に、劉邦という人物の本質を記しています。

 この時期に項羽はまだ楚の上将軍という立場でしたが、その幕僚に范増という人物がいました。その范増が劉邦を評して言った台詞が以下のようなものです。
「沛公居山東時,貪於財貨好美姬(沛公がまだ山東にいるときは、財貨をむさぼり、美人を好んだ)。……原文:『史記』項羽本紀より)

 これでもかなり控えめな表現と言うべきでしょう。張良はこのように短絡的な行動をとりがちな劉邦を、その生涯で何度か諫めています。これからお話しするのは、その一例です。


 当時、劉邦と項羽は単なる将軍で、いまだ王ではありませんでした。ふたりはともに楚軍に在籍し、懐王という人物から命令を受ける立場だったのです。このとき懐王は、秦の首都である咸陽を攻略しようと考えていました。

 咸陽は関中台地のただ中にあります。よって懐王は諸将に対して、以下のように命じます。
「先入定關中者王之(まっさきに関中を平定した者を関中王としよう」……原文『史記』高祖本紀より)

 その過程には紆余曲折がありましたが、最終的にこれは項羽と劉邦ふたりのマッチレースとなります。二人はそれぞれ別々の軍を率い、やはり別々のルートを辿って咸陽へ向かいましたが、先に到着したのは大方の予想に反して劉邦でした。この意外な結果についても、張良は多くの功績を残しています。が、それは話の大筋から外れますので、ここでは割愛します。

 項羽に先だって咸陽入城を果たした劉邦は、喜びを隠そうとしませんでした。「史記」の中での表現は、「休息しようとした」というあっさりしたものでしたが、実際は違うと考えられています。劉邦は咸陽の財物を貪(むさぼ)り、宮殿内にいる美女を追いかけ回したのだ、それが真実だ、とも言われています。

 しかし真っ先に辿り着いた者を関中王とするという懐王の言葉はあったものの、事実上の武勇は項羽率いる軍の方が上回っています。劉邦が先に咸陽へ辿り着いたことは確かですが、いざ項羽がやってきたら奪い去られるであろうことは目に見えていました。

 そして項羽は乱暴な男です。咸陽にやって来たら、おそらく好き放題に振る舞うことでしょう。財物は奪われ、女たちは間違いなく犯されるはずですから、本来であれば劉邦としては、その反対の行動を示さねばなりません。咸陽の民衆たちが「項羽より劉邦の方がよかった」と言ってくれるような支配をしなければならなかったのです。

 ところが肝心の劉邦自身が、そのことをわかっていませんでした。配下の諸将たちが呆れるなか、美女と戯れることに夢中になり、溺れるように酒を飲む主君を樊噲という将軍がついに意を決して止めました。

ここを出て他の地に宿営しましょう

 樊噲は言いました。一説にはこのとき、遊び回ろうとする劉邦を羽交い締めにしたとか、馬乗りになったとか言われています。

漢の将軍・樊噲です(向かって左)。右は項羽。こういう視点でねぶた祭は見てほしいですね。
これは有名な「鴻門の会」を描いたもの。北村蓮明氏作成・2010年作。

 ここで樊噲の援護射撃をしたのが軍師張良です。美女との戯れを樊噲に止められて名残惜しそうにしていた劉邦を、彼は口酸っぱく説得しました。

「秦が無道の政治を行ったからこそ、沛公はここまで来ることができたのです。天下のために害賊を除こうとするのならば、喪服でも着て死んだ民を弔うなど、事が成就するよう自ら仕向けなければなりません。咸陽に入城したばかりのいま、いきなり逸楽に溺れることなど、あってはなりません。とかく忠言は耳にさからいがちですが、徳行のためになります良薬は口に苦うございますが、病には効く(忠言逆耳利於行,毒藥苦口利於病)のです。お願いします沛公……樊噲の言葉をお聞き入れください」

 そこで劉邦は美女を手放し、ついに遊ぶことをやめたと言われています。実際に「良薬は口に苦し」という言葉がその効力を発した場面が、以上のようなものなのでした。


 いかがでしたでしょうか。長いですね。とても。

「良薬は口に苦し」という言葉……皆さんも一度は耳にしたことがあると思います。もともとは孔子が残した言葉でしたが、張良はそれを実によいタイミングで使用した、彼の頭の回転の速さがうかがえるエピソードでしたね。

 樊噲と張良のふたりは、この直後に行われた「鴻門の会(こうもんのかい)」で大車輪の活躍を見せます。すでにご存じの方も多いかと思われますが、気になった方は検索してみてください。ひらがなで入力してもすぐヒットします。

 故事成語に由来する話でしたら、こちらの話を紹介してもよいくらいなのですが、そこまで書くと話が止まらなくなりますので、今回はここでいったん筆を置かせていただきます。

 それでは、今回も最後までご覧いただき、ありがとうございます。

 次回もお楽しみに。

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