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【ためになるコラム】故事成語辞典:その21「太公望」の巻

 note内に同じ名前で登録されている方をたまたま目にしましたので、仕方なく「naoさん」と改名させていただきました。名前と記事とはまったく関係がありませんが、今後ともよろしくお願いします。ちなみに私を呼んでくださる際には「さん」付けなど必要ありません。親しみを込めて「ブタ野郎」とでも呼んでください(太ってはいませんが)。

 さて今回は故事成語というより単語の由来についてのお話となります。だいぶ前に「馬鹿」とか「阿呆」とかもご説明させていただきましたが、今回もそれに類するお話です。

太公望」とは「釣り師」を意味し、日本語としても広く浸透しています。実を言うとこれは、後述する有名な人物が釣りを趣味としていたことに由来するのです。ただ正直な話、そのあたりまでは皆さまご存じなのではないかとは思います。
 でも具体的にそれがどのような人物だったのか、ということを知る方はあまり多くないのではないか、と勝手に思いました。そこで今回ご紹介させていただく運びとなった次第です。

 今回、意味や用法に関しては説明するまでもないと思われますので、そちらは省かせていただきます。「解説」から始めたいと思いますので、ぜひお付き合いください。


【太公望(たいこう・ぼう)】

解説:

 現在では「たいこうぼう」として単語となっておりますが、由来の面から解説させていただきますと、「たいこう・ぼう」となります。つまり「望」という名前の「太公」の意です。

 この人物を肩書きから姓名まで正しく表記すると、「太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)」となります。

「太公」は始祖を示す称号。
「望」が名前。
「呂」が名字。
「尚」が字(あざな。通り名)。

「太公」の「」という文字は「最初」とか「一番目」を示します。例を挙げますと、「太子」は王さまの数ある子のなかで王位継承権を持つ存在を示します。たいていの場合は長男の場合が多く、それ以外の子は「公子」と称されます。これが派生した結果、長男が「太郎」で、次男は「次郎」、三男が「三郎」なのです。
 名前の後ろに「太」を付ける場合も同じです。「寛太」とか「幸太」「源太」とかはいずれも長男に付ける名前です。たまに次男にこのような名前を付けている方もいらっしゃいますが、意味合いから言うとこれは誤りです。ただし、法的には問題ありません(当たり前ですが……)。

 少し話題が脇に逸れました。次に「」という名前についてご説明したいと思います。

 この人物の名前が「望」であることに間違いはないのですが、昔の社会では今以上に「呼び捨て」に神経質です。日本でもこれは同様で、たとえば源義経を実際に「義経」と呼ぶ人は後白河法皇くらいでした。肉親である頼朝は彼のことを「九郎」と呼び、臣下である弁慶は彼のことを「御曹司」と呼び、その他の人は彼の官職である「判官」と呼ぶことが多かったようです。

 中国の場合はこれより厳しかったようです。この人物のことを「望」と呼べる者は、彼の親だけです。ほかの人たちは字(あざな)である「」と呼ばねばなりません。わかりやすい例としては三国志の登場人物ですね。劉備玄徳は「劉」が名字、「備」が本名(諱・いみなといいます)、「玄徳」が字です。曹操孟徳や関羽雲長、張飛益徳(翼徳)、趙雲子龍などもみなこれと同じです。

 名字について説明しますと、古代中国では「」と「」が別物であるという話を前回の「傍若無人」でお話ししました。「」という文字はこの人物の「氏」をあらわします。そして彼の姓は「姜(きょう)」なのですが、男性は「氏」を自称するのが通例ですので、一般に彼は「呂尚」と呼ばれるのです。

 太公望呂尚は、王朝として周が始まり、殷を滅ぼした際に功績を認められた人物でした。その褒美として彼は現在の山東省一帯を領地として与えられたのです。その領地が「」であり、彼がその始祖であったことから、「太公」と呼ばれたのです。

画像右上に「姜太公」と記されています。呂尚の姓は「姜」なのです。

 太公望呂尚については司馬遷による「史記・斉太公世家」に詳しく記述されています。しかし聞いた話でも断定的に書く傾向にある司馬遷としては珍しく、ここでは複数の説が並行して記述され、最終的には読者の判断に委ねるような形に収まっています。

 珍しく結論を出さず、投げ出してしまっているのです(笑)。

 呂尚が世に出た時期は、殷王朝の末期であることは間違いないようです。彼は暴虐な紂王に対抗するため、西伯昌という人物と接触しました(詳しくは『酒池肉林』の項を参照してください)。そして登用されるに至るのですが、その経緯にはさまざまな説があるのです。

 司馬遷はいきなり「ある人の話によっては……」と始めます。確証がないのでしょう。
「呂尚は博学で、かつては殷の紂王に仕えていた。しかし紂王が無道だったので、去って諸国に遊説した。しかし誰にも知遇を得られないでいるうち、ついに周の西伯に身を寄せることとなった」

 続いて司馬遷は「またある人の言うところでは……」と記します。あくまで自信がないのでしょう。
「呂尚は海浜に身を隠していた。周の西伯が讒言によって拘禁されていたとき、周の重臣のなかに呂尚について知っている者がおり、これを招いた。呂尚もこれに従い、彼らは西伯のために美女や珍奇の品を集め、これを紂王に献上した。これによって西伯は罪を許され、ようやく帰国することができたのである」(これについても『酒池肉林』の項を参照してください)

 司馬遷は以下のようにまとめています。
「このように呂尚が周に仕えたいわれについては色々な説がある。しかし要するに彼は、結果として文王・武王の師となったのである」
 最後には結果だけを述べて、途中経過を投げ出しています。「しかし要するに」……って(笑)。
 ちなみに文王は西伯昌のことで、武王とは周王朝を実質的に打ち立てた姫発(きはつ)のことで、文王の息子です。
 呂尚は彼ら二代に仕えました。その主な役目は、いわゆる「軍師」です。

呂尚は釣りをしている最中に、狩りに赴いた西伯昌と出会い、意気投合したいう説もあります。

 周の文王、武王の二代はともに呂尚を「師」と仰いだといいます。これにより「軍師」とは単なる役職名ではなく、本当の意味で仰がれる存在であったことがわかります。武王は殷の紂王による暴政を打倒するための攻撃を決めかねていましたが、最終的には呂尚の強い勧めにより、それを決断したのです。こうして「牧野の戦い」は周の勝利で終わり、武王は殷の紂王に替わって「天子」と呼ばれることとなりました。

 ちなみに姫発が武王を称したのは、この戦いに勝利して正式に周が王朝として君臨することになってからです。彼の父親である西伯昌はこれより数年前に亡くなっており、存命中に文王と名乗った時期はありませんでした。西伯昌には生前に遡り、文王という諡(おくりな)が与えられたのです。

 さらに言うと、武王姫発は西伯昌の次男です。長男は西伯昌が紂王に捕らえられた際に殺され、獄中にあった西伯昌は、長男の肉体を出汁にしたスープを無理やり飲まされたそうです。彼が復讐心に燃え、殷を滅ぼそうとしたのも当然ではないでしょうか。

文王に仕えた際、すでに呂尚は老齢と言える年齢だったようです。でもこの絵は勇ましいですね

 呂尚は武王に軍事を指南するだけでなく、実際にその指揮を執って戦ったと考えられています。彼は、殷を滅ぼしたあとも周の政治に助言を与え、その行為が結果として天下泰平の世につながった、とされています。

 しかし残念ながら、いずれも具体的になにをしたのかという言及は見当たりません。とても謎が多い時代なのです。

 いずれにしても、周が殷を滅ぼすにあたって呂尚はその功績を大きく評価されました。その褒美として彼は武王から領地を授けられたのです。それが山東省にある営丘という都市でした。

 彼は地元の民衆に寄り添い、その習俗に従って儀礼を簡略化したといいます。さらにもともとこのあたりは海が近く、農業には適さない土地だったようですが、呂尚は漁業を盛んにし、塩の生産を奨励し、商業や工業も発達させることに成功しました。これによって周囲の民衆が営丘周辺に集まり、そこを首都とする「」が国として成り立ったのです。

 もともと営丘の近辺には、土着の「莱(らい)」という民族がいて、数度にわたって戦いが生じましたが、結果的に呂尚はこれを追い払うことにも成功し、斉の統治を盤石なものとしました。

 以降斉は並み居る諸侯国のなかでは最大のものとなり、他の諸侯が謀反を起こした際には、それを誅伐する権利をも周から与えられました。これによって斉は名実共に最大の諸侯国となったのです。

 呂尚は存命中にいくつかの兵法書を残したと言われます。彼の書物を参考にして、後世に完成されたものが「六韜」・「三略」です。呂尚はのちの人物にも大きな影響を残し、その代表的な例として、戦国時代における縦横家の蘇秦(『鶏口牛後』の項を参照)や漢の軍師である張良(『乾坤一擲の項を参照)などが挙げられます。

 兵法家としては「孫武」や「孫臏」あるいは「呉起」などが有名ですが、呂尚はそれに先駆ける人物であった、と言うことができましょう。


 いかがだったでしょうか。この時代は謎が多いですね。はっきり言って呂尚が魅力的な人物だったのか、という基本的なことさえも、よくわかりません。そのためかどうかは不明ですが、呂尚には仙人のようなイメージが与えられるようになりました。どんなことが起きても泰然自若として釣りをしている印象が強調され、一説には百余歳まで生きた、とされています。当時としてはあり得ないと言えるほどの長命です。

 というわけで私も司馬遷に倣い、判断を読んでくださっている皆さまに委ねることとします。

 ちなみにですが「」という民族は現在でも存在し、中国内に数ある少数民族の中では最多を誇るものとなっています。そのなかには日本に渡ってきた人もいるという話……。興味深いですね。これについては現在公開中の小説「斉の残党」で若干触れています。ご興味のある方は閲覧してみてくださいね。

 長くなりましたが、以上が「太公望」という言葉が成り立つことになった背景でした。

 次回もお楽しみに。


追記(6/24・16:11)

 肝心な所を書きそびれていましたので補足します。
「太公望」の由来について
 一説にいいます。西伯昌は渭水のほとりに狩りに出かけました。その際に占いをしたところ、
「獲るところは竜ではなく彲(みずち・これも竜の一種)でもない。虎でもなければヒグマでもない。獲るところは覇王の輔佐なり」
 と出たそうです。

 このとき西伯昌が出会った人物こそが、釣りをしていた呂尚でした。二人は意気投合し、その際に西伯はその心情を言い表します。
「私の亡祖父太公のときから、『やがて周に聖人が現れ、その人によって周は興隆するだろう』と言い伝えられてきたが、あなたはまさしくその方でしょう」
 さらに言います。
「わが太公があなたを待されたことは、久しいものでした」

 このときの「太公」とは西伯昌の祖父である古公亶父(ここうたんぽ)を示すようです。その太公が望んだ人物であったから呂尚は太公望と呼ばれることとなった、という説が太公望誕生のもっとも有力な説、とされます。

 ですが当時の「太公」という言葉には単純に「父」とか「祖父」という意味もあるらしく、それによればやはり呂尚は斉国の太公(始祖)という解釈となります。

 いずれも「一説には……」という注釈がつくのですが、もはや正解は見出せません。



 以上の一文が、タブを切り替えした際にごっそり抜け落ちてしまいました。大変お恥ずかしい限りです(汗)。書き終えて公開ボタンを押したあとになんか落ち着かないなあ、と思い続けて見返してみたら、消えてました。

 今後気をつけます。

過去記事をまとめたマガジンです。こちらも付け忘れていました。


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