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【ためにならないコラム】故事成語辞典その6 「恙なく」の巻 本当は知識欲を刺激して人間性を深めるコラム

 低浮上クリエイターのnaoでございます。何度も皆さまの時間を無駄に失わせる迷惑千万な存在ですが、フォロワーが少ないのでそれほど被害を受けた方は少ないのではないでしょうか。このまま細々と続けさせていただき、やがては世界をフィールドに闘いたいと思います。世界中の人々から役立たず呼ばわりされる日が来れば、それは本望というものでございます。

 罵倒されたい・・・

 さて今回のタイトル、「恙なく」です。一発で読めた人は手を上げて下さい。あえてふりがなを振らないこの意地悪さ・・・罵倒してください

 正解を発表します。こちらは「つつがなく」と読みます。「知ってるよ」という人は知らないふりをしながら、・・・罵倒してください

 それでは早速いきましょう。「恙なく」です。


【恙なく(つつが・なく)】

意味:心配事・病気・事故・災難を示す「恙(つつが)」が存在しないことを示す。多くの場合、疑問形で用いられる(『恙なくお過ごしでしょうか』『恙なきや』・・・などなど)。転じて、物事がスムーズに運ぶことを示す。

用法:昨今では日常会話でこの単語を使用する場面は殆ど見受けられないが、稀に年配者の手紙のなかに見受けられる。それを若者が形だけ真似をして、冒頭から「つつがなくお過ごしでしょうか」などという挨拶文から始めても、決して尊敬されることはない。逆に「どうしたんだこいつは」と怪しまれるので、注意が必要である。

 また、疑問形で用いられることが多いと先述したものの、それ以外の使い方も僅かながら存在する。

 その多くは、ビジネスの場面であろう。上司の立場にある者が、部下に対して「恙なく実行してもらいたい」と言うことによって、有無を言わさず従わせることができるため、比較的多用される。丁寧なように聞こえるが、これは非常に強力な言葉なのである。

 なお、国会での質疑応答で野党の追及にたじたじとなり、答弁に詰まった大臣が「関係各所に連絡を取り、つつがなく実行したいと思います」などと言っている場面は、非常に多く見受けられる。しかしそれらはすべて、口先だけのでまかせである。
 したがって、国民はこれにも注意する必要がある。

由来:古来から話し言葉として頻繁に使われていたようであるが、当然ながらそれは記録に残らないので定かではない。しかし実際に使用した形跡の認められる例が、史記「匈奴列伝」の中に確認される。「恙なく」という単語が現れるのは、これが最初であり、記録に残る最古の例である。

 なお大辞泉などによれば、この「恙なく」という言葉を語源として、ダニの一種が「恙虫(ツツガムシ)」と名付けられた、とある。
 が、「恙なくお過ごしでしょうか」という言葉のもともとの意味は、

悪い虫によって煩わしい思いをされていませんか?

 というものなのである。よって、「恙」はもともと虫を指していたものと判断されるが、それが実際にツツガムシを指していたのかどうかは不明である。ゆえに、この点における大辞泉をはじめとする辞書の記述は、必ずしも間違っていない。

ツツガムシ なるべく気持ち悪くない画像を選んだつもりです

経緯:先述したとおり、その初登場は「史記・匈奴列伝」である。
 匈奴とは当時の中国北方に存在した遊牧騎馬民族の部族名であり、たびたび国境を侵犯して略奪、強盗などの行為を行った。史書によると周末からその存在が確認でき、漢に王朝が変わった際に、初めて両者の間に大規模な戦闘が繰り広げられたという記録がある。
 しかしこのときの勝者は匈奴であり、漢は敗れた(白登山の戦い)。これ以降両者の立場は、匈奴が兄・漢が弟という位置づけとなり、それは紀元前100年頃の武帝期に至るまで変わらなかった。

画像はWikipediaからの借用です(権利フリー画像:CC表示-継承3.0)

解説:遊牧民族は、一般に文字を持ちません。このためその歴史は明らかでなく、中国側に残される資料でしか、その存在を確認できないのです。しかし幸いなことに、歴代中国の王朝は記録を残すことに熱心で、漢の時代には司馬遷という非常に優れた歴史家が登場しています。作家・司馬遼太郎先生の司馬という姓は、司馬遷にあやかって付けられたペンネームです。

 その司馬遷の記録によると、当時の匈奴の酋長は冒頓単于(ぼくとつ・ぜんう)という人物でした。彼は先代酋長である自分の親を殺して、自らその地位に就いたといいます。
 当時の中国にまだ儒教は根付いていませんでしたが、それでもこれは彼らにとって恐ろしい事実でした。家父長制が国家の基礎となっている中国では、子が親を殺すなどという行為は考えられないことだったのです。
 「」の精神に反する、というわけです。

 それだけでなく、匈奴は見た目も当時の中国人とは異なりました。匈奴の男は髪を剃り上げて頭頂部分だけ残し、後ろでそれを編んでいた、といいます。いわゆる「辮髪」なので、今となっては私たちもそれに驚くことはありません。それに日本人も「ちょんまげ」という海外の人から見れば極めて異質なヘアースタイルを用いていたため、それほど変わったこととは思わないでしょう。ですが、情報の少ない当時の人々が、初めてそれを目にしたときのことを想像してみてください。たぶん、恐ろしさで逃げ出したことでしょう。

 前置きが長くなりましたが、匈奴は典型的な遊牧騎馬民族で、馬を大きく育てることがうまく、またそれを乗りこなす技術も漢人に比べて優れていました。このため、たびたび生じた戦争で勝つのはいつも匈奴側です。ただ、漢は農耕文化がものすごく発達した国であったため、生産力があり、人口も多かったのでどうにかその命脈を保っていた、と言えるでしょう。

 ただ、両者の間で起きた戦争によって、お互いに捕虜が多数生じました。その数は戦争が起きるつど増え続けたのですが、皮肉なことにこれが両者の意思疎通を可能にしたのです。

 文字を知らなかった匈奴人は、漢人の捕虜に自分の言葉を代筆させるようになりました。酋長の冒頓単于は、当時漢の実質的な政権運営者であった呂后(りょこう・高祖劉邦の妻であった人です。要は太后です)にあてて、次のような手紙を送っています(紙の発明は後漢の時代になってからなので、実際は竹や木板に文字を記したものですが、便宜上手紙と表記します)。

「陛下獨立,孤僨獨居。兩主不樂,無以自虞,願以所有,易其所無」
(陛下、あなたも独り身。我も独り身。お互いに楽しみもないことだし、我の『あるところ』をもってあなたの『ないところ』に入れたいと思うのだが:原文 班固著『漢書』匈奴伝 上)

・・・これは一見よくわからないかと思いますが、非常にヒワイなことを言っているのです。直接言及することは避けて皆さんの想像に任せますが、要は寝所に二人で入り、行為に及びたい・・・そういうことです。
 結局直接言及してますね。

・・・罵倒されたい。

 これに対し呂后はそれをうまくあしらう内容をしたため、返書のかたちで冒頓単于へ手紙を送りました。
「年老氣衰,髮齒墮落,行步失度,單于過聽,不足以自汙」
(私は年老いて、髪や歯も抜け落ち、よぼよぼの婆さんなのです。単于をがっかりさせたくないので、今回はお許しなさって:原文 班固著『漢書』匈奴伝 上)
 冒頓単于はこの返書を受け取り、謝罪の使者を漢に送ったといいます。漢と匈奴における首脳間での手紙のやりとりは、どうもこれが最初のようです。

呂后 今回は私の勝手なイメージではなく、ほんとの肖像画です

 かくしてそのようなやりとりが漢と匈奴との間で為されるようになりました。これにより、出会えばいきなり戦争ばかりしていた両国の間に、外交というものが生まれたのです。

 そしてここからが要点。時は文帝の時代です。紀元前176年、冒頓単于は文帝に手紙を送りました。

「天所立匈奴大單于敬問皇帝無恙」・・・原文:司馬遷著 「史記」匈奴列伝
(天が立てたる匈奴の大単于は謹んで皇帝に挨拶を送る。つつがなきや)

 これに対して文帝も冒頓単于あてに返事を送りました。
「皇帝敬問匈奴大單于無恙」・・・原文:司馬遷著 「史記」匈奴列伝
皇帝は匈奴の大単于に謹んで挨拶を送る。つつがなきや

 冒頓単于と文帝とのこうした手紙のやりとりは、幾度か繰り返されました。先述の通り、「つつがなきや」という表現が世に現れるのは、これが初めてです。当時も手紙の挨拶文だったのですね。二千年以上経った現在も変わらず、手紙の挨拶文です。

お変わりないですか」という意味も、そのまま変わっていないのです。

諸説あります・わたし個人の脚色あり・信憑性は疑わしい


いかがだったでしょうか? ムダに長い上に、話そのものがムダでしたね!

まったく役に立たない話です(笑)!

次回も皆さまの貴重な時間を損なわせることに尽力致します!

では、次回もお楽しみに。

バックナンバーを収録したマガジンです。以前の記事もお楽しみください。


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