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「自分らしく生きるためのルーツをたどる②」

いらっしゃいませ!

ありがとうございます!!

本日も一日、

よろしくお願いします!!!


フロア中に響き渡る大きな掛け声で
一斉にお辞儀をする。

これが新入社員として入社した大手旅行会社、
(仮にA社としておこう)
A社本社の朝礼風景である。

体育会系のノリの会社に
バブル崩壊後の超就職氷河期の中、
約150名の新入社員の一人として入社することが出来た。

希望を胸に、社会人として
新たな一歩を踏み出したところだった。


バブル崩壊後の就職活動は、とても困難なものだった。
当時の就職活動は、希望する会社にハガキを出すところから始まる。
一字一句丁寧に、心を込めて手書きで熱意をアピールする。
一体何十枚書いたことだろう。

しかし「今年は新規採用の予定はありません。」という
なんとも無情な返事がくるばかりだった。

とにかく、私の大学生活は終わる。
これ以上、両親からお金を出してもらうわけにはいかない!
何としてでも就職するんだ!

と、強い信念で向かっていった。


当時の人気職業には、CA(スチュワーデスといっていた時代だが)
や旅行会社の名前が上がっていた。

航空業界と旅行業界は華やかなイメージがあり、人気だった。
もちろん私も憧れた。

CAには、美人でスタイルの良い友人たちが
こぞって受けていたが、彼女たちでも何次面接かで夢を打ち砕かれていた。

その頃の私は、サービス業に向いている、となぜか思い込んでいたので、
大手百貨店、大手流通スーパーなど、サービス業に就職できれば何でもいい、くらいの勢いで臨んでいた。

それでも
華やかな(と思っていた)業界への思いは諦めきれず、
旅行会社に何社かトライした。


運良く、その後急成長を遂げて
大手旅行会社の仲間入りをするA社に
あれよあれよという流れで、採用が決まった。
本当に嬉しかった。
両親にも喜んでもらえた。
これで一人立ちが出来る!


内定が決まった大学4年生の夏には、既にそこでアルバイトをしていた。
していたというより、内定者は研修と称して(新入社員研修はさらに別にあるのだが)
任意ではあるが、外回りやティッシュ配りをさせられた。

当時、航空券は
今のようにチケットレスの時代ではなかったので、
自社で発券するほか、いろんなエージェントからも購入していた。

そのエージェント巡りをして、航空券を受け取ったり、
大使館にビザの申請や受領に行ったり、
さまざまな旅行業の仕事を
バイトさんたちがやっていた。

かなりキツかったが、入社前には
その後上司となる人、逆に私が指示する立場になって
動いてもらう人たちとの交流が出来た。


入社後、海外ツアーの手配担当になった私は、
希望を胸に、意気揚々と業務に取り組んでいた。

しかし実情は、お客様を獲得するノルマ競走。
インターネットも無い時代、
電話を誰が早く取って予約につなげるか
の争いの日々だった。

手配すること自体はとても楽しかったが、ノルマの数で成績がつけられ
大変な手配内容だったのか、逆に簡単だったかは関係なく
丁寧にやっていたことが、損している気分にさえなった。


つらい…

心も身体もつらく疲れていた。


そんな時、今でも忘れられない決定的な出来事が起こる。

体調を崩して、大事な繁忙期の3連休に休んでしまったことがあった。

「忙しいのに休みを取るなんて、どこかに旅行にでも行っているんじゃないか?!」

と副支店長から疑われ、同僚が申し訳なさそうに
「ごめんね…かけろって言われて」
と自宅に探りの電話を入れてきたのだ。

もう、びっくり!!
言葉を失った…
こっちは体調崩して医者に行き、一人寝込んでいるのに、
旅行だってぇ〜〜!!!!!
悔しくて、腸が煮えくり返りそうになった。

一年過ぎて、部署移動を希望した。

今度は本社のブレーン的な部署。
仕入れ&マーケティング部門。

私はマーケティング部で、航空券の値段を決める担当部署に移動になった。
「エイビーロード」という旅行雑誌に掲載する記事も書いていた。

ツアー手配のようなノルマで苦しめられることはなくなったが、
何かが違う。
どこか違和感を感じていた。

そんな時、先輩社員からのツテで、
さらに大手旅行会社への転職話が持ち上がった。
(その会社をB社とする)

B社に入れる!!
私は喜んで転職を申し出、なんとかうまいことA社を退職して、
B社に行くことになった。

嬉しい!!認められたんだ!

そんな誇らしい思いと
期待と緊張とが入り混じっていた。


何もかもが違っていた。

大声で誰にでも挨拶する
体育会系のA社とは違い、
挨拶はそこそこのB社に驚きつつも
専門性の高いこの会社の手配が新鮮だった。

私は、外資系会社の海外出張を手配する課に配属になった。
システムを覚えることはもちろん大変だったが、
それよりも英語でのやりとりが増えたことが大変だった。



大学では英文科を専攻していた。
実は小学生の頃から英語に憧れていて、好きだったのだ。

実家は、新聞販売店をしていたが、
そのかたわら、小さな英語塾を開いていた父の勧めで
6年生の時には、毎朝お手伝いの新聞配達が終わってから、
NHKラジオの基礎英語を聞いて学校に行っていたほどだ。

その頃の夢は「通訳」だったが
通訳になる為の勉強も挑戦も全くせずに諦めた。
でも英語に関わる仕事がしたかった。

中学と高等学校の英語教諭の免許は取得したが、
教師も違うと感じ、旅行業界にたどり着いたのだ。

そして、英語を使いながら旅行の手配をするという、
私にとっては未知の領域ではあったが、チャレンジでもあり
うってつけの仕事だった。

しかし、英語に憧れはあったものの
たいして会話ができる訳でもなく、
流暢に受け応えする周りの社員たちをみては
負い目を感じていた。

この思いは実はいまでも続いている。

英語が好きなのに
話したいのに
全く話せない訳ではないのに
ほんのちょっとの勇気が出ない。

頭では考えられるのに
口から出てこない。


日本人秘書のいる取引先とは難なくやっていたが、
外国人本人から電話がかかってきた時が厄介だった。
メールでのやりとりはなんとか出来ていたが、
直接のやりとり、しかも電話というのは大変なのだ。

状況を説明したり、納得してもらったり。
混み入った話ができなくて、他の人に代わってもらったり
悔しい思いをたくさんした。
その分、手配は一生懸命やった。

それらの積み重ねなのか、
秘書たちからの評判が良かったらしい。

課内のミーティングで、私のオペレーションが
「丁寧で素晴らしい。みんなも見習うように。」

と、リーダーからも褒められた時は
とても嬉しかった。

お客様のために丁寧に、一生懸命やる。

私が自然にやっていたそのスタイルが
受け入れられ、認められた。
ありがたい職場だった。



しかし、当時の旅行業界は、近年でいうところの「新3K」
「帰れない」「厳しい」「給与が安い」(そのほかにいろいろあるようだが)
の業界。

身体がボロボロになり、辞めることに。


いま思えば、ひとに頼まれたら断れない、断る気もない性格の私。
お客様のために、と心身を注いでいたのだろう。

自分を大切にすることに気づかないほど、本当に一生懸命にやっていた。
よく頑張っていたと思う。



普段は手配している側だが、自分が旅行するときは
ビジネスクラスに乗れたり
ホテルの部屋がランクアップされたりと、
(いまはどうかは分からないが)
当時の旅行業界ならではの旨味もたくさん味わった。

さらには、生涯の友人たちにも出会えた。

きつい時期をともに過ごした仲間たちとの
結束は堅かった。

だから、辞めることに全く悔いはなかった。

「旅行」という明るく華やかなイメージとは違い
裏では一席、一室の確保や、機内食、送迎、
オプショナルツアー、現地でのトラブルなど
ひとつひとつの細やかなサービスに心身を注いでいる人がいる。


「旅行」するのは大好きだが、
手配する側の醍醐味は、苦労やこだわりがあるから面白いのだと思う。

いまは、インターネットでほとんどを手配できる時代ではあるが、
その裏には、いろんな人の思いや努力があり、
全ての関わりを通して、自分の想像を超えた体験をした時に

また旅行しよう!
またここに来よう!となるのだと思う。

そういう思いになって欲しくて
手配をしていた自分の過去をようやく振り返る

と…見えてきた。

人の役に立つことで、喜びを感じ、自分も輝ける。
そんな自分が好きなんだ
、と。



いまが落ち着いたら、
自分でひとつひとつ手配して、
思いっきり旅行を楽しんでみたいな。

子供たちも忙しく難しいお年頃。
家族旅行もチャンスは少なくなっているが

どうか想いが叶って

楽しい旅が、早く実現しますように♪

〜自分らしく生きるためのルーツをたどる③ につづく〜

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