トラウマケア(身体/ソマティック・アプローチ)に関する本の紹介

トラウマを受けた人にとって、元気で自然な人生に向かう道のりには症状の軽減以上の意味がありますーそれは変容を意味します。トラウマをうまく再交渉できた時、私たちの存在には、根本的な変化が起こります。(略)
トラウマ状態と平和状態の間で変容が起こると、フェルトセンスを通じて体験される私たちの神経系、感情、知覚が根本的に変化します。神経系は硬直からしなやかさへ、感情は恐怖から勇敢さへ、知覚は狭量さから受容性へと向きを変えます。
変容を通じて、神経系は自己調整能力を取り戻します。感情は落ち込むのではなく高揚し始めます。(略)ものの見方は広がり、批判せずにあるがままを受容できるようになります。人生経験から学べるようになるのです。許そうと努力せずとも、責めるものは何もないことが分かるようになります。より柔軟で自然になると同時に、より確かな自己感覚を手に入れることもよくあります。この新しい自己肯定感のおかげで私たちはリラックスし、楽しみ、人生をさらに豊かに生きられるようになります。人生の情熱的な側面にもっと調和できるようになるのです。

ピーター リヴァイン『心と身体をつなぐトラウマ・セラピー』(p.218)

トラウマの変容は、トラウマ被害者が機械的に行い、のんきに座って待っていれば結果が出るといったものではありません。魔法の薬は存在しないのです。変容のためには、自分が何者かという基本的な信念に進んで挑戦する意欲が必要です。自分が完全に理解できない反応や感覚を信じ、一見つじつまの合わない自分の知覚を支配し、バランスを取る原始的な自然法則と調和して進んでいく体験を意欲的に持たなければなりません。トラウマを受けた人は、健康に戻るプロセスを完了するために、すべての思い込みと先入観を手放す必要があります。手放しは決して一度にすべて起こるものではないことを忘れないでください。

ピーター リヴァイン『心と身体をつなぐトラウマ・セラピー』(p.230)

本書でピーター・リヴァインは、トラウマというのは、心理的、感情的な問題というよりもむしろ、一義的には身体的な(神経系の)問題であり、身体面を無視してトラウマの癒しはありえないということを豊富な実例と説得力ある理論づけで示しています。
従来のトラウマ治療は、この点を完全に見逃していたために、トラウマ治療に対して思うような効果を上げることができずにいました。深いトラウマを負ったときに、心理療法の場で自分の体験について話をしたり、同じような経験を持つ者同士がグループで体験を分かち合ったりするのは大切なことです。しかし、「安全な場で話をし、聞いてもらう」、あるいは「話すことを通じて洞察を得る」という作業だけでは、トラウマを完全に癒すことはできません。 本書が繰り返し指摘するように、トラウマはストレスに対する身体の正常な反応が理性(大脳新皮質)によってゆがめられた結果起こるエネルギーのブロックであり、それを解決するには、身体からのアプローチが不可欠だからです。ましてや、表に出ている症状を抑えるだけの薬物療法に限界があることは言うまでもありません。

従来のトラウマ治療のひとつに、カタルシス療法と呼ばれる、激しい感情の解放をうながす手法があります。ピーターは、カタルシス療法は癒しよりも、むしろさらなるトラウマを引き起こす可能性があり、それによって実際には起きなかった虐待の記憶が作り出される場合もあると警告しています。そして、虚偽の記憶が作り出されるメカニズムについて、本書の中で詳細な説明を行っています。

人間は、思考する生物であり、自分が苦しいときには、「なぜ自分は今こんなにも苦しいのだろうか」という理由を求めずにはいられない存在です。しかし、苦しさの理由を探して「自分は過去にこんなひどい体験をした」という記憶にしがみつくとき、身体が自然に導く「癒し」のプロセスは妨げられてしまいます。 真の変容と癒しは、記憶を何度も何度も掘り起こし、そこで起きた出来事を再体験することにより起こるのではなく、身体が発するメッセージに耳をかたむけ、そのプロセスを妨害しないことによって、初めて可能になるのです。「癒しのプロセスは、劇的でなければないほど、またゆっくりと起これば起こるほど、より効果的である」という彼の言葉は、トラウマを癒すためには、苦しい過去の記憶に繰り返しさかのぼってつらい感情を吐き出さねばならないと思い込まされてきたトラウマ被害者たちにとっては大きな救いとなることでしょう。

ピーター リヴァイン『心と身体をつなぐトラウマ・セラピー』
訳者あとがきより(訳者:藤原千枝子)p.312-313


記憶に関する研究でノーベル賞を受賞したエリック・カンデルは、彼の辛い記憶を消去したいかと尋ねられた。カンデルは、子供時代にホロコーストを体験し、想像を絶する苦しみを味わった。しかし驚くべきことに、彼はこのように答えている。
「記憶を増強することについては、何も難しいことはありません。しかし記憶の消去はもっと複雑です……頭のなかに入り込み、辛い恋愛の記憶を切り抜いてしまおうというのは、悪い考えです。結局のところ、当たり前ですが、ありのままの自分が、本当の自分なのです。すべては自分たちが経験してきたことです……。ウィーンでの経験を自分の中から消し去りたいですかって? そうは思いません。あれは確かに悲惨なことでしたが、それも私の一部なのです」

P.A.ラヴィーン『トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復』(p.217)


どのような体験でも、そこから目を背けようとすると、脳とからだはその危険を記憶する。よく言われるように「抵抗すると、ずっと続く」のだ。そのため、昔からよく言う表現「時がすべての傷を癒す」は、トラウマには単純に当てはまらない。短期的に見れば、不動感覚の抑圧は、麻痺と無力感を寄せ付けないように(否認のバイアスを受けたこころには)思える。しかしやがて、回避作戦が絶望的な失敗であることが明らかになる。「臭いものに蓋をする」と、避けられないことが長引くのみならず、最終的に不動状態と直面することがいっそう恐ろしいものになることが多い。

ピーター・A・ラヴィーン『身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア』(p.108)

自分が感じているものについて説明できないと、私たちは必ずといっていいほど勝手に理由を作り出してしまう。こころは常にオーバードライブ状態にあり、過去の原因を脅迫的に探し続け、未来におびえ続ける。常に緊張して不安と恐怖と無力感を感じ続ける。なぜなら、からだが脳に対して危険信号を送り続けているからである。赤旗信号は、からだが一連の動作を終了するまで消滅しないだろう。人間はこうなるべくして創られているのだー私たちの脳とからだにあらかじめ組み込まれているのである。

ピーター・A・ラヴィーン『身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケア』(p.218)


人は秘密を守って情報を伏せておくかぎり、基本的に自分自身と闘っている状態にある。自分の核心にある感情を隠すには厖大なエネルギーが必要なので、やり甲斐のある目標を追い求めるためのモチベーションが奪われ、辟易として、機能停止に陥ったままになる。その間もストレスホルモンは体にあふれ続け、頭痛や筋肉痛になったり、便通や性機能に問題を生じたりする。さらに、不合理な行動をとるようになり、それによって自分もばつの悪い思いをし、周囲の人を傷つけかねない。こうした反応の源泉を明らかにして初めて、自分の感情を、緊急の注意を要する問題の合図として使い始めることができる。
心の中の現実を無視すると、自己感覚や自己同一性感覚や目的意識も侵蝕される。臨床心理学者のエドナ・フォアとその共同研究者たちは、患者が自分自身についてどう考えているかを評価するための、外傷後認知尺度を開発した。PTSDの症状として、「自分の内面が死んでいるように感じる」「普通の情動を二度と感じることはできないだろう」「私は永久に悪い方向に変わってしまった」「自分が人間ではなく物のように感じられる」「私には未来がない」「もう自分で自分がわからないような気がする」などと患者が述べることがよくある。
肝心なのは、自分が知っていることを知るのを自分に許すことだ。それには途方もない勇気が必要となる。
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人生を安全に歩んでいくためには、その身体感覚を認識し、それに基づいて行動しなければならないのだ。麻痺状態に陥る(あるいは埋め合わせとなる感覚を追求する)ことによって、人生は耐えられるものになるかもしれないが、人はその代償として、体の内部で起こっている出来事に気づけなくなり、そのせいで、肉体的感覚を持ちながら思う存分生きていると感じられなくなる。(略)
彼らは、どのような状況に置かれても、自分が本当はどう感じているのかや、なぜ気分が良くなったり悪くなったりするのかがわからない。これは麻痺の結果だ。彼らは体の通常の要求を穏やかに、注意深く予期したり、それに応えたりできなくなっている。同時にこの麻痺のせいで、日々の感覚的な喜びが鈍る。(略)
人は自分の体の欲求を自覚していなければ、体の面倒を見ることはできない。空腹を感じなければ、自分に栄養を与えることはできない。不安と空腹を取り違えたら、食べ過ぎてしまうかもしれない。満腹のときに、そうとわからなければ、食べ続けることになる。だからこそ、感覚を自覚する力を養うことが、トラウマからの回復にとって重要なのだ。

従来のセラピーの大半は、内部の感覚世界における一瞬一瞬の変化を軽視、あるいは無視している。だが、こうした変化にこそ、生体の反応の本質がある。その本質とは、体の化学的な特徴と、内臓と、顔や喉や胴や手足の横紋筋の収縮に刻まれている、情動の状態だ。トラウマを負った人は、自分の感覚に耐え、内部の経験と友達になり、新たな行動パターンを培う能力が自分にはあることを学ぶ必要がある。

ベッセル・ヴァン・デア・コーク『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』(p.382, p.449-450)

表紙絵について・・・

『身体はトラウマを記録する』は、大変な名著/大著ですが、この表紙絵は、マチス晩年の切り絵作品、ジャズシリーズの「イカロス」という作品です。
現在、東京都美術館で開催されているマティス展(https://matisse2023.exhibit.jp/)でこの作品が展示されているので、行ってきました。「色彩の魔術師」と呼ばれたマティス。鮮やかで今も新しさを感じる作品は、人間の躍動する力や自由を表現しているように感じました。

先日、ある方が「自由は努力して勝ち取るもの」と話していました。本当にそうなのかもしれないな、と感じます。それは歴史のうえだけでなく、個人としてもそうなのでしょう。トラウマによる傷つき体験から逃れて自由になるために、私たちはじっと耐え忍ぶのではなく、努力していくことが必要なのです。それは、根底から自分をいたわるための努力です。スタート地点や到達地点は、決して一様でなく、他人と比較できるものでもなく、自分自身、個人の戦いです。私自身、トラウマ反応の深さによって、大きなマイナスからのスタートになっていると感じます。トラウマから自由になり、本当の意味で自分らしく、幸せを感じられる人生を歩んでいくために、日々少しずつでも努力を重ねて、残りの人生をできる限り自分らしく生きたいと思います。生きている限り、一日でも少しでも長く、そんな日々を過ごしたいですね。