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辻村深月「かがみの孤城」を読んで

辻村深月さんの「かがみの孤城」を読んだ。

とある出来事があってから学校に行くことができなくなった中学一年生、安西こころを中心に、中学生たち七人が不思議な孤城で日常を過ごしながら願いを叶えてくれる鍵を探す物語だ。

この小説を読んでいる時、私は自分の過去の学校生活を思い起こしていた。あまり、いい思い出ではない。



私は学校という場所に対して、非常に複雑な感情を持っている。

学校は楽しかったかと言われれば、楽しかったのかもしれない。つまらなかったのかと聞かれれば、そういうものではなかった。もしかすると怖かったのか、そう問われれば、そうなのかもしれない。

学校とは、私にとって「非日常」だった。なぜそう思ったかと言えば、私自身が学校教育、とりわけ義務教育というものの恩恵をほとんど受けていないからだ。

私が小学校の六年間と中学校の三年間、いわゆる義務教育と呼ばれる期間の中でしっかりと教室に通った年月は、すべて合わせても半年もない。義務教育のうちの二年ほどは相談室だったり校長室だったりに通っていた。だが残りの期間は、学校自体に通っていなかった。

元々の家庭環境が悪かったこともあってか、それとも幼い頃から団体行動が苦手だったためか、私は学校という場に馴染むことができなかった。そしてそれは今も、人の集まりなどに対して「しこり」のようなものとして残り続けている。

小学生だった期間のほとんどは、学校に行くことなく過ごした。小学生たちが登校している間に公園に遊びに行って、警官に補導されそうになったこともある。その出来事があってから、少なくとも小学生が登校している時間は家で過ごすようになった。

家庭環境が悪かったと書いたが、この頃には両親は離婚して母と二人で暮らしていた。日中は母は仕事でいないため、私は家で一人で過ごした。そんなところも、物語の主人公、こころと重なった。

中学生になって、今度は父親と暮らし始めて、なんとか相談室にだけは通えるようになった。これも相談室の先生の尽力があったからだと思う。そうでなければ、私は大人という大人を信用することもなく中学校を卒業していただろう。

以下は物語の根幹部分に関わるネタバレも書くので、これから「かがみの孤城」を読むという方には注意していただきたい。



主人公のこころや、孤城に招かれた中学生たちは一人を除いて、それぞれが学校に行けない事情を抱えている。それはクラスメートとの問題であったり、家庭環境についての問題だったり、様々だ。

私はこの物語を読んでいる時から、着地点に薄々感づいていた。だが、本当にそれで良いんだろうかと、考えていた。紆余曲折あってもこころは最後、学校に、教室に行けるようになるのだ。

物語の終わり、こころは中学生二年生に進学する。新しいクラスで新しい先生と共に、孤城で共に過ごした男の子と一緒に、新たな一歩を踏み出す。物語は、それでハッピーエンドとなる。

私は、そんな彼女に置いていかれた気がした。

私は確かに中学校時代に恩師と呼べる先生に出会えたし、今もネットで繋がっている中学校時代の友人がいる。教室に行かなかったことに後悔はない。それでも、結局は「こころちゃんはそちら側に行ってしまうのか」と思ってしまった。

義務教育である中学校までの学校生活は、私にとって非日常でしかなかった。ようやく学校生活が日常となったのは通信制の高校に通い出してから、学びたかった学部のある大学に進学してからだ。

学校に、教室に行けるようになることがゴールだとするなら、こころはゴールまでにほぼ一年、私は九年もかかったことになる。私のような人間はそうはいないだろうが、世の中には私のような人間もいるのだ。

物語自体はとても面白かったし、心がほんわかと暖かくなるような、そんな終わり方だった。だが物語の内容を思い返せば思い返すほど、自分が今まで歩んできた人生がどれほど他の人間の日常から乖離していたかを思い知らされる。

「かがみの孤城」は他者に全力でオススメしたい小説ではある。だが、心に少なからず傷のある者でなければ、この物語の良さはわからないかもしれない。心に傷ばかり作りながら生きてきた私は、そんなことを思うのだ。

きっと、「遊んでる子」に分類されるような人々にはこの物語の主人公、こころの気持ちは、孤城に招かれた中学生たちの気持ちは、わからない。私は「遊んでる子」ではなかったけれど、こころの気持ちの半分ほどしか理解できなかった。

「かがみの孤城」は、私には眩しすぎる物語だったのかもしれない。そんなことを感じた、物語だった。

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