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「臨床の知」について

1.「臨床の知」とは何か
 フロイトの精神分析理論をはじめ、臨床心理学、心理臨床の基礎をなす理論の科学上の不整合を指摘することはたやすいことです。しかし、そうした不整合は知的怠慢に起因することものではなく、それどころか今日の「知」のあり方をめぐって、切実な認識論的テーマをその内に胚胎しています。科学の理想に反して、その内部に多数の流派の存在を許している心理療法・心理臨床は、どのような知的特色をもっているのでしょうか?またそれは何を基礎として成り立っているのでしょうか?心理臨床の各々の理論は、それについて述べられた文献の内容を理解するだけではとらえきれないものがあります。つまり、実践や経験を要するのですが、臨床心理学、精神医学だけでなく、文化人類学、動物行動学(ethology)、民俗学といった、いわゆる近代科学の概念の枠組みからはみ出た学問で、一種のフィールド・ワークを通した対象との相互交渉が理論そのものにとって不可欠であるような領域に認められる知の形態を、哲学者中村雄二郎は「臨床の知」と呼び、その特色を次の3点にまとめています。

①近代科学の知が原理上客観主義の立場から、物事を対象化して冷ややかに眺めるのに対して、それは、相互主体的かつ相互行為的に自らコミットする。そうすることによって、他者や物事との間に生き生きとした関係や交流を保つようにします。
②近代科学の知が普遍主義の立場に立って、物事をもっぱら普遍性(抽象的普遍性)の観点から捉えるのに対して、それは、個々の事例や場面を重視し、ものごとのおかれている状況(トポス)を重視する。つまり、普遍主義の名のもとに自己の責任を回避しません。
③近代科学の知が分析的、原子論的であり論理主義的であるのに対して、それは総合的、直観的であり、共通感覚的である。つまり、目に見える表面的な現実だけではなく深層の現実にも目をむけます。

 こうした特色をもつ知の形態は、近代において今日的意味での科学概念が確立してからは、時代のマイノリティーとていわば周辺に追いやられてきました。まさに近代科学において、19世紀の物理学にその典型が示されるように、普遍的、客観的、分析的な形ををとって、その「正しさ」を証明してみせることができなかったためです。
 科学は認識の対象となる物事を徹底的に客体化、対象化し、その物事が認識者の感性に訴えてくることによって生じるイメージ性、多義性、曖昧さを捨象します。こうして科学における知識は、個々の人格的、文化的前提とはまったく無関係の、独立したものとして、自己の一義性、普遍性、絶対性を主張します。しかし、一見、超然としていかなる前提も持たないかのように見える科学知ではありますが、それを支える根底には、たとえば、認識の客体としての物、それに対する、主体としての精神を、純然と、実体的に区別しようとするデカルト的二元論という認識論的習慣があり、人間主体の絶対性を確信する人文主義の伝統などが見て取れます。ですから、実は科学も、ある特定の文化的、社会的事情を背景に持つ、一つの認識の習慣に他ならないのです。それは、先に挙げられたような科学知の特性を保証し、対象を限定、細分化し、そうして分割されるところの諸々の要素、部分の間の因果関係を秩序立てる際にはその有効性を発揮します。しかし、さまざまな意味と可能性を持って全体を構成しているような状況、ないしは「場」における認識者と対照との有機的なかかわりが前提とされるような知的探究においては、そういった力は限界を呈することになります。
 こうして中村の説く「臨床の知」は科学偏重の学問状況を反省するととともに、科学の尺度が及ばない領域に対して新しい可能性を持った学問の視点を提供しようとしています。心理臨床の実際においては、認識者と対象は明確に、または実体的に別つことが不可能な状況にあります。両者は「セラピスト - クライエント」として相即不離の「場」にあって、ともに感覚や感情の喚起を「受ける」身体を備えた存在として、まさにまさに「身をもって」そのかかわりに参与しているからです。そのため「臨床の知」は、「トポス(場)の知」、また「パトス(情念,受苦)の知」とも呼ばれます。そしてここでは、科学の普遍主義に対しては「コスモロジー」が、分析に対しては「シンボリズム」が、客観主義に対しては身をもってコミットすることこと、すなわち「パフォーマンス」が知の基準として蘇るとされてます。

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【参考文献】
中村雄二郎(1992)『臨床の知とは何か』、岩波新書
若山隆良(2018)『心とことば ー人間理解と支援の心理学ー』、八千代出版

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