Takayoshi Wakayama

配偶者との死別を体験した臨床心理士、カウンセラー 自らの体験を振り返りつつ、「喪の仕事…

Takayoshi Wakayama

配偶者との死別を体験した臨床心理士、カウンセラー 自らの体験を振り返りつつ、「喪の仕事」としての心理療法・カウンセリングについて考える。 特に「生命体」としての人間の心と自然との関係性について、ずっと考えています。

最近の記事

死別者はなぜ避けられるのか?

死別者は疫病神か? C.S.ルイスは英国の著名な作家、英文学者で、日本では映画化もされた「ナルニア国物語」の作者として知られています。また、『指輪物語』(『The Road of the Ring』として映画化)の著者、J.R.R. トールキンとも親友でありました。  彼は62歳の時に妻と死別しますが、その時の体験を「悲しみをみつめて」という著作の中に、実に率直にリアルに、そしてとても鋭く描きだしています。    ルイスが戸惑ったことは、妻を亡くした悲しみを周囲の人に話すこ

    • 「知音」友を得ること、喪うこと。

      自分の中の魅力や才能は自分ひとりの力だけでつくり上げられるものではなく、他者との出会いの中で発見されることが多いものです。その出会いは恋愛であったり、友情であったり、良き師とのとの出会いであったりするかもしれません。いったん魅力的な出会いを体験すると、自分の心の中にその人のイメージが棲むようになって、あたかもその人が背後に立っているかのように指示をしたり忠告したりすることがあります。例えば「そういう無神経で愚かな振る舞いをしてはいけない。君らしくないよ」と言われているかのよう

      • 「臨床の知」と共通感覚

        新しい知の可能性としての「臨床の知」に先立って、哲学者中村雄二郎は、知ることを生命的な営みとして捉え返すべく「共通感覚論」を展開していきました。  共通感覚という概念は、「現実」を一義的にのみ扱い、その多義性を捨象する科学に代表される近代の合理主義的な知のあり方に対する反省の立場から強調されてきました。この共通感覚は英語ではcommon senseと表記されます。common senseは日本語の「常識」に対応しており、この概念はひとつの社会の中で人々が共通に持つ、まっとうな

        • 「臨床の知」について

          1.「臨床の知」とは何か  フロイトの精神分析理論をはじめ、臨床心理学、心理臨床の基礎をなす理論の科学上の不整合を指摘することはたやすいことです。しかし、そうした不整合は知的怠慢に起因することものではなく、それどころか今日の「知」のあり方をめぐって、切実な認識論的テーマをその内に胚胎しています。科学の理想に反して、その内部に多数の流派の存在を許している心理療法・心理臨床は、どのような知的特色をもっているのでしょうか?またそれは何を基礎として成り立っているのでしょうか?心理臨床

        死別者はなぜ避けられるのか?

          日本人の原罪意識とグリーフケア・大祓の祝詞より

          私の知り合いで、ある悲惨な殺人事件によって身内を大勢亡くした女性がいる。  有名な事件なので、彼女はその体験について著作に記している。 その中で、彼女のお母様が、その事件について罪の意識を感じていることが、どうしても受け入れられないと書かれている。大切な子どもや孫達を殺められた、まさに被害者である母親が罪障感のようなものを抱え苦しんでいることが、どうしても受け入れられないということらしい。現代人で、しかもモダンな知的教養の中で生きてきた人にとっては、当然の感じ方であろう。

          日本人の原罪意識とグリーフケア・大祓の祝詞より

          [『三年の愛』と死別について]

          論語に「三年の愛」という言葉がある。 孔子が弟子に、父親が死んで1年以上が過ぎたが、家が父親の生前のままになっている。片づけてもいいものだろうか?ということを問うてきた。 孔子は「あなたがそうしたいのなら、そのようにすればいい」と答えたという。 それを聞いてその弟子は安んじて帰って行った。  その後、孔子は「彼は『三年の愛』をもらえてこなかったのだなー」と呟いたそうだ。 「三年の愛」とは、生まれてきた子どもを親が全力で守り慈くしんで世話することだ。その時間は、人間の子

          [『三年の愛』と死別について]

          あえて「前向き」に生きないこと

          「悲嘆からの立ち直り」とか、「悲しみの克服」とかという言葉をよく聞きます。精神医学の領域でも、長期間悲嘆の状態にある人を「病理的」なもの(つまり病気)として、医療の対象に囲い込もうとしています。  それに対する私の正直な気持ちは、「いい加減、放っておいてほしい」です。立ち直りたい人は立ち直ればいいし、「前向きに」生きたい人は生きればいいのです。  大切な人を失って悲しいのは当たり前のことです。その愛情や思い、そして一緒に過ごした時間が貴重であればあるほど、喪失の悲しみが長

          あえて「前向き」に生きないこと