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[『三年の愛』と死別について]
論語に「三年の愛」という言葉がある。
孔子が弟子に、父親が死んで1年以上が過ぎたが、家が父親の生前のままになっている。片づけてもいいものだろうか?ということを問うてきた。
孔子は「あなたがそうしたいのなら、そのようにすればいい」と答えたという。
それを聞いてその弟子は安んじて帰って行った。
その後、孔子は「彼は『三年の愛』をもらえてこなかったのだなー」と呟いたそうだ。
「三年の愛」とは、生まれてきた子どもを親が全力で守り慈くしんで世話することだ。その時間は、人間の子どもがそこそこ成長するまでのおよそ3年間。これは人間だけでなく動物にも供わっていること。犬でも猫でも、アリにも蜂にも、その時間の長さに違いこそあれ、そなわったものだ。
論語の「孝」は「動物にも供わっているものだ」だと孔子は言っている。
(現代でも生後8週齢未満の犬や12週齢未満の猫の売買を違法としている国があるのはこのためである。}この「孝」は親から子へと注がれる情愛、思いやりのことだと考える方が自然。ところが後世の論語の注釈者たちは、これをまったく逆の意味に捉えてしまって、長い間「孝」とは子が親に対して尽くすものだと考えられてきた。それによって家族制度や封建的な社会秩序を維持するのに「孝」という考えは利用されてきた。
孔子が言いたかったことは、幼いころにおやから十分な愛情を、すなわち「三年の愛」を受けた子どもは、自然と親を愛するようになる、ということだったらしい。
儒教の徳として「忠」という言葉があるが、これは「心の真ん中にいる」という意味でとらえた方がいい。例えば父親のことが好きで好きで堪らない子どもは、3年たっても父親の喪失が悲しくて、父親の部屋を生前のままにして、模様変えしようという気持ちになかなかなれないだろう。それは彼が親から3年の愛を与えられが記憶があるからであり、それこそが「孝」であり、「忠」であると言える。
参考文献:
安冨歩「生きるための論語」、ちくま新書
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