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死別者はなぜ避けられるのか?

死別者は疫病神か?
C.S.ルイスは英国の著名な作家、英文学者で、日本では映画化もされた「ナルニア国物語」の作者として知られています。また、『指輪物語』(『The Road of the Ring』として映画化)の著者、J.R.R. トールキンとも親友でありました。

 彼は62歳の時に妻と死別しますが、その時の体験を「悲しみをみつめて」という著作の中に、実に率直にリアルに、そしてとても鋭く描きだしています。
 
 ルイスが戸惑ったことは、妻を亡くした悲しみを周囲の人に話すことが非常に困難で、死んだ妻のことを話そうとしても周囲の人々に避けられてしまうことでした。それは身近な家族も同様で、ルイスはこのように書いています。

「わたしは子供たちに彼女のことを話すことができない。話そうとしたとたん、子供たちの顔には悲しみでも,愛でも、怖れでも、憐れみでもなくて、あらゆる絶縁体の中でもっとも致命的なもの、すなわち困惑が現れる。彼らはわたしがよせばいいと願っている。わたしは自分の母の死後、父が母のことを口にすると、ちょうど同じ感じを抱いたものだった。わたしは子供たちをとがめるわけにはゆかない。子供とはそうしたものだ。」

「ときどき私は思うのだが、はにかみ、ただ間が悪いだけの愚にもつかぬはにかみは、私たちの悪徳のどれにも劣らぬほど,善い行いと実直な幸福の妨げることになるのだ。それも、子供のときだけではない。」

「私が妻を失った、その奇妙な副産物は、わたしが出会うだれかにとっても、私が(彼らにとって)困惑の種になっているとわかることだ。仕事をしていても、クラブでも、通りでも、ひとびとが、わたしに近寄りながら、「あのことについて何か言おう」か言うまいか、なんとか覚悟をきめようとしているのがわかる。もし彼らが言えば言ったで、言わねば言わないで、わたしはそれがいやだ。ある人はまるっきり逃げ出してしまう。Rは一週間わたしにあわないようにしていた。まるでわたしが歯医者であるかのように、近づいてきて、真っ赤になって、お悔やみを言い、それから非礼にならぬ程度に、できるだけ速くバーに逃げ込んでしまうような、育ちの良い、まだ少年くらいの青年が一番好ましい。多分、遺族というものは癩者のように特別な収容所に隔離されねばなるまい。」

「ある人々にとっては、わたしは困惑の種どころではすまないのだ。わたしはしゃれこうべだ。わたしは幸福な夫婦づれにあうと、二人の考えていることが分かるのだ。『わたしたちのどっちかが、いつかは今のあの人のようにならなきゃならないんだ』と」


 死別を体験された方なら、ほとんど誰でもルイスが記したようなことと似た体験をされているのではないでしょうか?私の場合、例えば妻の死後間もない頃、高校時代の後輩からすごく久しぶりに電話がかかってきました。少し酔っている様子で、互いに共通の高校時代の恩師に再会したということを知らせてくれました。そのときに電話をもらったこと、恩師との再会の知らせを私は喜び彼に感謝したのですが、その時つい、正直に、最近妻が先だったという知らせも彼に伝えました。すると、彼は「とんでもないことをしてしまった」とばかりに恐縮し、慌てて、「すみませんでした」と電話を切ったのでした。以来、彼からの電話は一度もかかってきていません。おそらくわたしは、彼に対して「言ってはいけない」「狼狽、恐縮」させることを言ってしまったようでした。わたしとしては、自分の身にふりかかったことを「事実」として彼に知ってもらいたいと思ったのですが、相手にとっては、それはとても無理なことのようでした。

 死別者が目の前にいると、多くの人を不安や恐怖に陥れるようです。まるで死別者は、今、幸福な夫婦生活や家族生活を送っている人にとっては「疫病神」や「死神」のような存在なのかもしれないと感じることがあります。
 尤も、その不安は恐怖心に、たいていの人は無自覚、無意識で、その素振りや表情を見ていると、そのように感じ取れるということです。そして、死別者の前から、なるべく早く立ち去ろうとし、あるいは電話を切ろとするでしょう。

中には、死別者に寄り添い、何かできることはないかと助けの手を差し伸べてくれる人もいます。彼らは、わたしが死別の悲しみから「立ち直り」、「前向きに生きる」ために何でもできることをしてくれる準備のある親切な人たちです。

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【引用・参考図書】
C.S ルイス、(西村徹訳)、『悲しみをみつめて』 新教出版社、1976年

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