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愛とは、フライパンを洗うことである。

 家に友達を呼ぶことがよくある。そんなときは、だいたいみんなで鍋を囲むのだが、一人で食べるときよりも圧倒的に洗い物が多い。だから最近は洗い物を少なくするために、割り箸と紙コップを常備している。そんな私の最も嫌いな家事は皿洗いである。実家のキッチンのように、シンクも大きくて、洗い終えたものを置く場所が広ければいいのだが、一人暮らしではそうも行くまい。かくして、私はちびちびとお皿を洗うことになるのである。

 先日、家で手巻き寿司パーティーをした際に、焼き鳥を振る舞った。フライパンでちゃちゃっと作ったのだが、鶏肉から出る油は無限大。当然、フライパンの二度洗いは必須だ。日付が変わる少し前、終電に駆け込んで友達はそれぞれの家に帰って行った。皆が帰った後の独特な静けさの漂う家で、一人、フライパンを洗っていたとき、多少酔ってはいたのだろうが、私は一つの真実に辿り着いた。そう、愛とは、フライパンを洗うことだということに。

 僅かばかりの解説を加えたい。油汚れを落とすためにフライパンを洗う。それなりの力で擦らなければならない。だが、表面にあるコーティングを傷つけて仕舞えば、次使うときに困る。私たちは、だからコーティングを傷つけずに汚れが落ちる強さ、言ってみればフライパンが心地よいと感じる強さで洗おうとする。これはまさに他人に触れる時のそれと同じではないか。強ければ痛みを感ずるし、弱ければ刺激が不足する。そのあわいを探りながら触れ、触れられる側はその詮索の感覚から愛を感じるのだ。

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