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大学レポート考再び

 手紙、電報、ポケベル、メール、ノート、Word、LINE…。人は文字を発明してからというもの、時代を問わずずっと書き続けてきた。そして、書くという営みには常に宛て先があった。今日会う約束の友達に、同僚に、家族に、さらには愛する誰かのために。書くことは、だからコミュニケーションの一形態である。日記でさえ、過去の自分、あるいは未来の自分とのコミュニケーションである。だからなのだろうか、最近よく見かけるようになった、イヤホンをつけて歩きながら話す人、傍目から見るとちょっと不気味である。彼らは誰かと電話しているのだ。そう気づくまでには少し時間が要る。

 と考えてみて気づくのは、大学のレポートの宛て先はどこにあるのかということである。多くの人が、教授に向けて書いていると言うだろうか。だとすれば、私はいつも既読無視をされている気分だ。確かに学期末に、AAやB、C、最悪の場合にはX(不可を意味する)というアルファベットが与えられる。なるほど、学期末に一つのアルファベットを与えるという意味では返事をしていると言えなくもない。でも、それは不完全なコミュニケーションではないか。友達に長文のLINEを送った後の返事が、たった一文字の「り」だったら、きちんと相手に受け止めてもらえたと感じられるだろうか。いや、そんなはずはない。

 その上、学期末に成績が与えられるのは何もレポートだけの評価ではない。平常点や小テストの成績、授業態度など総合的に判断されることになっている。つまり、私たちはレポートを書いても、いつも相手に届いている実感がないのだ。そんなことを考えてみて、多くの大学生がレポートを書きたがらない理由がちょっと分かった気がする。所詮、レポートを書きたくないだけの大袈裟な言い訳に過ぎぬかもしれないが。

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