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あ:愛は与えること?

あいうえお順でネタ書きます♪ 自分でお題つくり(笑)

ちなみに、写真は関係ないです。

都道府県の想い出の地を貼ろうと思います☆

今回は北海道。雪まつりとバスツアーで横断はしました♪


難しいネタを選んでしまったが「愛」

前提

私ほど、この言葉に焦がれている人もいないのではと思う。

誰からも、愛されていると感じたことがないから。

大事にされている

と、感じたことはあるけれど。


私を知る人なら解るんだけど、

私はかなりのゴーイングマイウェイを歩んでいて

どんなに否定したくても、血筋なんだよね。

両親も自分中心。

人の言うことは聞かないし、相手を思いやる、なんてなかった。

頑張ってはいるけれど、私も相手を思いやるのが苦手だ。

相手に寄り添って、とか、相手の気持ちになって、とか

どうしても、どうしても、できない。

受け入れるようには、なれたけれど。


その上で、

私の大好きな話に、鳥とおじいさんのお話がある。

おじいさんの死とともに、鳥も生きていけなくなる話。

我慢の知らない子どもは、我慢だらけの大人の世界に壊れるという。

どちらも、実は与えるだけの、自己満。

鳥も子どもも、生きるすべを知らずに未来にたどり着いてしまう。


私は幸か不幸か、親が放任主義だったので

私の意志で考えて全てを選んできた自負がある。


体感が大事

聞いたら答えてもらえる

求めたら与えてもらえる

行動が伴わず得られたら、大切な経験、体験を逃してしまう。

どうしたら答えにたどり着くのか

どうしたら得られるのか

自分の意志で考えることができなくなる。


自分の言動が本当に相手を想っての「愛」からくるものなのか


全ての言動を、、などとは言わない。

四六時中考えることでもないだろう。

けれど、大切な人を想っていると、本当に言えるだろうか。


ケースバイケースはある。

私の場合、先に聞いて後で調べるが多い。

なぜなら、聞いた答えを待たせている人がいるから。

なぜその答えなのか、後で確認する。次は自分で答えられるように。


後は、性格にもよる。

だから、正解はない。

ないけれど、乞われるままに与えることは、自己満でしかない。

と、今は思っている。

知ってることを教えるのは、自分が与えられる喜びは、至福を感じるもの。

自分も嬉しいし、与えられた方も嬉しい。

けれど、大事な体感を奪う。


今は永遠には繰り返されない。


体感として

過剰なのも、よろしくないけれど。

私の場合、大好きな人がいたんだけど、強くなって欲しくて、

伸ばした手を抑え込んだ。

彼は、これから強くなる。必要なのは、私じゃない。

あの時、手を伸ばしていたら、、抱きしめられていたら、、

絶対にありえないのだけれど、そんなことも想った。


自分も相手も我慢しろというのではない。

時には優しさも必要だけれど、そこに甘えや依存が発生しないこと。


誰だったかな。

先生は、生徒が考えて答えにたどり着こうとするところで

「ヒント」を与えて、

せっかく自らたどり着こうとしている貴重な体験を奪っているという。

のび太君だね。ドラえもんが与えなければ、自らたどり着く。

人は本当に得ようと思っているものの答えは、必死になって探す。

考えて、行動して得たものが、何より貴重な財産になる。


教えることは、かつ教わること。

尊敬している方の一人に、池間哲郎氏がいる。

この方ほど、講演の想いが変わらない方を知らない。

気分感情が、上下しない方。

唯一、感情的になっていたのは

ドラム缶の男の子が亡くなった後の講演かな。

なぜ、想いの熱量が変わらないのか。

それは、本気で命と向き合い、いつも体感し、本気の想いで伝えているから。

ボランティア活動しながら、大事なことを学ばせて頂いている

その姿勢は、崩れない。


教えることは、かつ教わること。


コミュニケーションに正解はない

自ら手にする体験。これにまさるものはないと想っている。

そして、本気で考えたプレゼントは素敵だと想う。

それでも、繰り返しになるけれど、相手の性格にもよる。


与えられて成長した人に、いきなり何もかも自分で考えろ、はできない。

断言できるが「できない」のだ。

まずは、考えさせることが必要。

考えられるようになるだけで、人は大きく変わる。

どうしたらいいか、を考えられるようになるから。


愛を感じたことのない私は、30歳まで人の目を見て話すことができなかった。

人の目を見て話すことができていない、ということにすら気づいていなかった。

でも、気づいたのだ。

人は、まず、気づかないといけない。

その気づきを与えらえる人が、何より凄い。

気づいたら、考えらえるようになる。

どうしたら、人の目を見ることができるようになるか。

まずは、目を見ることから。


別ブログで叱るについても書いたが、

叱ることも「愛」が前提。


私の親のように、愛を伝えようともしないのも

なんでも愛だと与えてしまうことも

そこに気づくものがなければ、自己満しかない。


人は環境の生きもの。

けれど、やっぱり性格もある。

同じ言葉でも、子どもの性格によって、受け止められるものも変わる。

何でも与えられてきた子どもも、恩返ししようと自立をするかもしれない。

少数派だろうけれど。。


危ないと言う言葉ほど危ないものもない。

あぶない!

と、何かを静止するだけで、

止められた、と捉える子どもと

危険から回避させてくれた、と捉える子どもと

二極する。

前者は親の意図を考えることもなく萎縮する。

後者は親の意図を考えて、行動も考えるようになる。


ここに、私の苦手な相手に合わせる、ということが発生する。

前者のタイプはよりハッキリと意図を伝えないといけない。


「愛」は難しい。

けれど、一緒に考えていける人とは、必ず愛情をはぐくめる。


本当の愛情、考えてほしい


生意気にすいません。

ツラツラ思い浮かぶままに


本当は違う角度の愛と、恋愛の愛を書こうと思ってたはずなんだけど

書き始めたら、ほぼ親子or上司部下、先生生徒をイメージしていた。

愛ある関りがあるといいな

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