随筆:理屈はウザいが役に立つ。だがウザい。
この記事は、
論理的:好意的表現
理屈っぽい:嫌悪的表現
…ということで、2つは同じ意味という前提で書かれています。
理屈はウザい
「論理的である」とは「情報変換の形式・手順が正しい」こと
論理的な結論は、その論理性が厳密であればあるほど、
誰もが同意できる事柄(公理)から出発していて
正しい形式・手順に沿った情報変換のみを経て
導かれた結論
…という性格を持ちます。
「論理的に真」であることは「現実的に有意義」ことを意味しない
$${A \Rightarrow B}$$という命題があったとして、「$${A}$$が偽ならば命題は常に真」という主張は完全に論理的です。
参考. 数理:「前提が偽なら命題は常に真」の証明
したがって、
「筆者がビル・ゲイツならば、この記事の読者は明日から全員億万長者」
…という主張は、完全に論理的です。
しかし、筆者はビル・ゲイツではありません。
仮にビル・ゲイツだったとしても、単なるブログの読者に1人1億円以上配るなんて奇特なことをする自分を全く想像できません。
論理的に正しいことは、現実的な有意義さを必ずしも意味しません。
ゆえに論理的指摘が現実的意味を持ちうるのは形式NGチェックのみ
繰り返しですが、論理的な正しさ ≠ 現実的な有意義さです。
したがって、ある事柄への論理的指摘が現実的な意味を発生しうるのは、
「その情報変換の形式、間違ってるよ?」
という場合のみです。
これはウザいですね。
だが役に立つ
モンティ・ホール問題という面白い問題があります。
問題内容や、それが引き起こす非直感的な現象、その背景機序については、筆者の何億倍も説明の上手なヨビノリたくみ先生が動画にまとめてくれているので、そちらをご参照ください。
このモンティ・ホール問題を一般化して、用意された扉の数を$${N}$$個、司会者が開けてくれる扉の数を$${M}$$個とします。
この時、選ぶ扉を変える選択は変えない選択に比べどれくらい当たり確率が高いのか…という比率$${R}$$は、下記式で表現できます。
$$
R = \frac{N-1}{N-M-1}
$$
式導出は「モンティ・ホール問題を一般化して解いてみる」 by @dugnuttを参照してください。
具体値を当てはめることで、$${R = \frac{N-1}{N-M-1}}$$がどのように振る舞うかを可視化してみましょう。
ただし$${M}$$については、$${N}$$個のドアの何%を司会者が開くのか…という形で計算します。グラフは下図のようになります。
20%の扉($${N}$$=20ならわずか4つ)を開けてもらうだけでも、そのままの選択肢を維持するよりも変えたほうが成功確率が約1.3倍高くなります。
理屈は
$$
\begin{array}{l:l}
モンティ・ホール & 現実世界 \\ \hline
扉の数 & 採りうる選択肢の数 \\
司会者が不正解の扉を開く & 選択肢を論理的に棄却する
\end {array}
$$
…というように捉えれば、論理の(非創造的でありつつも)有用性を実感できると思います。
だがウザい
当たり確率が上がったとしても外れる時は外れる
元祖モンティ・ホール問題では、選ぶ扉を変えると当たり確率が2倍に跳ね上がりました。
それでも、当然ですが、外れるときは普通にあっさり外れます。
外れた時にヒトは「言動・選択が不適切だったからだ」と思いがち
よく知られ、反復的に確かめられた認知バイアスのひとつに、公平世界仮説があります。
人間の行いには常に公平な結果が返ってくる
だから悪い結果が出た時には当事者の言動・選択に問題があったのだ
…というようなバイアス・思い込みです。
これは当然思い込みであり現実とイコールではないのですが、一方で人間が社会活動を営むにはある程度必要な思い込みでもあるため、それだけ人の心に深く根ざした思い込みでもあります。
筆者は、選択の結果が当人にとって重要であればあるほど、公正世界仮説が働きやすくなると考えています。
「その情報変換の形式、間違ってるよ?」
という指摘だけでもウザさがあるのは間違いないのに、それをこらえても当たりが保証されていないというのは、これはウザいです。疲弊します。
挑戦は人が行なうもので、疲弊した精神での取り組みはそれ自体が成功確率を下げたり、挑戦の継続を困難にしたりします。
自分ひとりで完結する取り組みならともかくも、チームで行なう場合には、精神的コストを考えて「非論理的な選択をあえて放置」するほうが中長期的視点で合理的という場合も往々にしてあると筆者は考えています。
その上しんどい
「慣れてない論理的思考」はROIが悪い
ダニエル・カーネマンのファスト & スローで示されているように、論理的な思考は、その実施自体がそもそも精神的に高コストです。
元祖モンティ・ホール問題のように選択肢が3つと明示されている場合ならともかく、選択肢が大量にあったり、そもそも選択肢の数が自明でなかったりする場合、論理的思考に必要そうな(時間消費や精神疲弊も含めた)コスト見積もりは大きく膨らみがちです。
すると、
論理的思考で不適切な選択肢を棄却する効果をわかっていても
(時間消費や精神疲弊も含めた)コストを考えるとROIが合わない
だから「直感を信じて突っ走ろう」
…となりがちです。
行動は手持ち情報の拡充を生み、より的確な判断を容易にしてくれるので、直感を信じて突っ走ることが一概に悪いことだと筆者は思いません。
むしろ、考えるだけで動かないよりかは、考える前に動くほうがずっと良い場面も珍しくなくあると思います。
慣れるには「思考の筋トレ」の継続が必要
それでも、ゲームオーバーに近づくリスクが大きい勝負をする時や、絶対に勝たねばならない局面では、やはり再掲する下図グラフの効果を見過ごすのはもったいないと筆者は考えます。
そしてそのためには、方法:習って、考えて、それから慣れろで示したように、論理的思考・数理的判断が(乗り慣れた自転車に乗るのと同じくらい)に「無駄に頭を使わずできる」レベルまで”慣れて”おく必要があります。
そこには、高負荷な筋トレを日常的に継続するようなしんどさがあります。
まとめ
理屈はウザい
現実に対する論理的指摘は本質的に「形式NGチェック」
理屈や論理で「現実的な正解」が分かるわけじゃない
分かるとしたら不正解な選択肢
成功確率が上がっても(100%でなければ)外れる時は外れる
取り組み人員の心理を論理よりも優先すべきタイミングもある
理屈はしんどい
「不慣れな論理思考」は時間や心と言った貴重リソースの浪費が激しい
慣れるためには筋トレのように日々実践し続けるしかない
それでもいざという時には役に立つ
ゲームオーバーに近づくリスクが大きい時や絶対に勝たねばならない時
ある程度の不正解を排除できるだけで成功確率はn倍オーダーで変わる
Very Fast SYSTEM-1 & Enough Fast SYSTEM-2
$$
\begin{array}{l:l}
思考のタイプ & 説明 \\ \hline
Very \ Fast \ System-1 & 直感に基づく超迅速で探索的な行動 \\
Enough \ Fast \ System-2 & 慣れた論理思考に基づく十分に早い決定的な行動
\end {array}
$$
…のどちらが常に有意というわけでもないので、どちらもできるようになることが望ましく、そのためには、
行動が不足しがちな人は行動を
論理思考が不足しがちな論理思考を
筋トレのように日々継続していくしかないと筆者は考えています。
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