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Three Dog Night - Black and White / ブラック・アンド・ホワイト - 1972

彼らのことを知ったのは、今は亡き漫画家・三原順さんの「はみだしっ子」と言う作品の中。

彼女が音楽好きだったようで、よくキース・エマーソンとか、ジェファーソン・エアプレインとか、その辺りのバンドや曲など、アルバムタイトルなど音楽名が良く出てきたんですよね。

「カッコー鳥」とか、物語のキーパーソンになる曲もあったし…

主人公たる4人組の一人、ボス格のグレアムが、ピアニストの父にピアノを弾くことを強いられての手習いだったから、クラシックなんかのタイトルも出てきてはいたけれど、ほとんどが変化球の利いた、コアなグループだったように思う。

ちなみにスリー・ドッグ・ナイトというバンド名の由来は「アボリジニが寒さの厳しい夜に3匹の犬と寝る」と言う風習にちなんでいる…とのこと。

結成は1967年でアメリカのバンドです。ボーカルのダニー・ハットンが他の二人のボーカル、コリー・ウェルズとチャック・ネグロンを誘って、3人組グループを組んで、ジミー・グリーンスプーンを初めとした、4人のバック・ミュージシャンをスカウトして、7人編成のバンドを組んだのが始まり。

「Nobody」1968

で、この曲でデビュー。

「One」1969

こちら「ウィズアウト・ユー」でおなじみ、ハリー・ニルソンの曲のカバー。

Harry Nilsson オリジナル 1968

「Mama Told Me Not To Come / ママ・トールド・ミー」1970

こちらのオリジナルは…

Randy Newman オリジナル 1970 

「Joy To The World / 喜びの世界」1971

この曲が全米チャート一位の大ヒットになって、知名度がアップしました。もともとはアメリカのシンガーソングライター、ホイト・アクストンの曲。特別番組「The Happy Song」のために書き下ろされた曲ですが、制作中止になったため、スリー・ドッグ・ナイトに提供されました。

Hoyt Axton  オリジナル 1971

「再会の時」や「フォレスト・ガンプ/一期一会」を始めとして、様々な映画で何度も使用されています。

日本では、ドラマ「ランチの女王」の主題歌に起用されました。

ドラマ「ランチの女王」2002

「Out In the Country」1970

カーペンターズのヒット曲をたくさん作った、ポール・ウィリアムスとロジャー・ニコルズによる作品。

「Old Fashioned Love Song」1971

もともと、カーペンターズのためにポール・ウィリアムズが作った曲ですが、彼らに断られたため、スリー・ドッグ・ナイトが歌うことに。ポール・ウィリアムズやシーカーズ、レターメンなどがカバーしてます。

オリジナル…ていうかセルフカバーですね。

The Muppets Show/Paul Williams

「Shambala」1973

「The show must go on」1974

で、こちら以前取り上げたこともある、レオ・セイヤーの曲ですね。スリー・ドッグ・ナイトが発掘しカバーした曲はヒットする…というジンクスがあるように、この曲もヒットしました。

エレクトリカルパレード

Leo Sayer オリジナル 1974

同じ曲だけど、違って聞こえるのは何故?

でもって、スリー・ドッグ・ナイトは自分たちでは曲を作らず、外部の人の曲を歌うという稀有なバンドでした。

で…

「Black and White」1972

こちらのフォークソングですが、作詞はデイヴィッド・I・アーキン、作曲がアール・ロビンソン。人種分離政策を違法とした1954年の最高裁判決(ブラウン対教育委員会裁判)に触発されて書いた曲とのこと。

Earl Robinson オリジナル

リリースされた時期は解らないけど、1954年以降、その付近なのは間違いない。カテゴリとしてはオールドクラシックフォークのジャンルになりますかね(レッドベリーとかその時代)。

で、ブラウン対教育委員会裁判とかの概要と言うか、曲が生まれた背景については、まんまwikiからペーストしちゃいますね(めんどいから)。

アメリカ合衆国では、19世紀末より「分離すれども平等」という法原理の下に、様々な人種分離政策が長くとられていた。しかし、1954年5月17日に下されたブラウン判決により、黒人と白人の学生を分離した公立学校の設立を定めたカンザス州の州法は違憲とされ、公民権運動への道がついに開かれた[3]。

ロサンゼルスで教員をしていたデイヴィッド・I・アーキンは、やがてハリウッドで舞台美術の仕事に携わるが、マッカーシズムのあおりを受け失職する。ブラウン判決に感動したアーキンは「インクは黒くて/ページは白い/いっしょになって初めて僕らは読んだり書いたりできるようになる」で始まる詞を書いた。

これにアール・ロビンソンが曲をつけ、1956年にピート・シーガーがレコードに吹き込んだ。シーガーのバージョンはアフリカ系アメリカ人の子供たちもいっしょに歌っている。
翌1957年にはロビンソン自身がコンピレーション・アルバム『A Walk in the Sun and other Songs and Ballads』でピアノの弾き語りをした。 オリジナル・バージョンの歌詞には、判決がアール・ウォーレン首席裁判官の法廷において満場一致(9-0)で決定されたことなどが直接盛り込まれている。

彼らの着るローブは黒く、頭は白かった 校舎はどのドアもかたく閉められていたが 9人の裁判官たちは全員その名を書き記した 長い長い恥の歴史を終わらせるために — Black and White(デイヴィッド・I・アーキン)

ところがその後、多くのミュージシャンはこの部分をカットして歌うようになった。1971年、イギリスのレゲエ・バンド、グレイハウンド(Greyhound)がカバーしたバージョンが全英シングルチャート6位を記録。

次にスリー・ドッグ・ナイトが彼らのバージョンを聴き「ブラック・アンド・ホワイト」をカバー。1972年3月発売のアルバム『Seven Separate Fools』に収録され、同年8月にシングルカットされた。リード・ボーカルはダニー・ハットン。

同年9月16日付のビルボード・Hot 100で1位を記録。同イージーリスニング・チャートにおいても1位を記録し、ゴールドディスクに輝いた。カナダとニュージーランドでも1位し、ビルボードの1972年の年間チャートの63位を記録した。

スリー・ドッグ・ナイトは、とくにこの歌の思想的な背景に感銘を受けて…などでセレクトして歌ったわけではないみたいだけど、結果的に埋もれてたこの曲を彼らが歌ったことにより、脚光を浴びさせることになったと言う…はい。

彼らってそういうバンドでした。お蔵入りになった曲とか、他の人にそっぽ向かれた曲とか、なんか押し付けられて歌ったり、提供されて受け入れたり…いいなって思ってカバーしたら、ヒットして、その曲が有名になる…なんかそんなバンドなイメージww

でも、時代はフラワーチルドレンなサイケデリックロックや、ドラッグカルチャーなもんですから、メンバーもコカイン所持とかで逮捕されるなど、そんなこんなで人間関係が悪化してバンド内に不協和音が。

バンド発起人で実質リーダー格のダニーが、1976年に脱退を申し出たことで、バンドは解散。

1981年にベースのジョーを除く、6人で再結成をするも、相次ぐメンバーチェンジとオリジナルメンバーの解雇が続くことに。なんだかんだ、細々と過去の遺産で食いつないでいる印象は否めないのですが、それでも形としては続いていたようです。

で、2015年にジミー・グリーンスプーンが亡くなり、同年にコリー・ウェルズも世を去り、実質の自然解散って感じでしょうか。

ちなみに、日本には1975年に一度来日しただけなのでした。して、今も人気のあるバンドの一つです。


他blogに書いてあるものを、訂正・加筆・リンク修正の上、こちらに再度マガジンとしてまとめてUPしています。

「My Favorites〜音楽のある風景」
 2021/11/08 掲載記事より転載


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