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縁なき衆生は度し難し

物事には知るべきタイミングと時期というものがあります。

このタイミングとか時期、そして何処までその出来事から学び、何を理解するべきか・・・と、いうようなことは、先の記事「学びの順番」に書いたように、その人の霊性-霊的成長のレベルに比例していたりします。

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さてさて、人の欲望というのは果てしないもの。

お金が欲しい。成功したい。出世したい。
何不自由ない生活がしたい。お金持ちと結婚したい。
いつまでも若々しくいたい。健康でありたい。
キレイになりたい。痩せて理想的なスタイルになりたい。
異性からモテたい。好きなことをして収入を得たい。
誰もが羨む幸せな結婚がしたい。子供が欲しい。
献身的で優しい、魅力的な恋人が欲しいetc,etc・・・

夢や目的意識を持つのは良いことで、ほどよい野心や欲しいものへの渇望も、あって然るべきもの。物欲や物質は悪ではなく、もちろん否定されるべきものでもなく、それを望むこと自体は罪ではないのです。

物質社会で物質としての肉体を所有して存在している以上、物質は必要ですし、私たちは"かたちあるもの"の世界に、自分を表現して生きる必要があるので。物質から慰めを得たり、悦びや楽しみを得ることも当然のこと。

何が問題かというと、物質偏重主義というか、物質など見えるものに価値の重きを置きすぎて、それ以外のことをないがしろにしてしまうことです。

つまり、物質・・・形あるものがすべてで、優先順位の一番になってしまいすぎ、物質に振り回されてしまっているというところに問題があるのです。

その人の人間性よりも、家柄とか財産とか学歴や肩書きなどが尊重されるのも、その一面ですね。

残念なことに今の時代では、ほとんどの人が、他人や人生に多くのものを期待しすぎていて、欲望を叶えることに執着し、物質の奴隷となる生き方を選んでしまっています。

得てしてそれは『エゴイズム』に操られている状態なんですが。

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本当にそれが自分にとって必要なものなのか、意味のあるものなのか、よく判らない状態のまま、何が自分の本当の幸福であるのか・・・自分を幸せにしてくれるものが何で、どんな生き方をすれば充実感と満足を得られるのか・・・そのような事をきちんと考えず、向き合わうこともせず、物質的なものを得ることや欲望を満たすことがすべてと言わんばかりに、エゴイズムの奴隷になって、操られてしまっているんですね。

そして、人のほとんどの『悩み』は、この『エゴイズム』から派生しているものが大部分だったりします。

でもそれが『エゴイズム』だってことに得てして皆気づいてないもので。

突き詰めてなおかつ単純に言ってしまうと、自分のことにしても、他者との関係にしても仕事や状況のことにしても、みんな、悩みどころは、
"物事や他人が自分の思い通りにならない"って言う欲求不満なんですね。
とどのつまりが。身も蓋もないんだけども。

自分に対する要求に関して、はとりあえず置いておいて、周囲や状況に対するそれは大きな歪みを生む。

恋愛や結婚の相談なども、「相手が○○してくれない」とか、その人が自分の”モノ”になってくれないとか、自分を好きになってくれない、好きになって欲しい、ありのままの自分を受け入れて欲しい、判って欲しいとか。理想の恋人になってくれることを期待したり、相手が自分のリクエストに答えて望む人間に変わってくれることとか。こういう風に感じたり考えて欲しいとか・・・(もはや相手の人格否定。相手のことを好いてるとは言えない)

子供に対しての悩みもそうです。
勉強ができない。希望の学校に入れたい。
言うことをきいてくれない。高収入の職場に就職して欲しい。

こうして欲しい、ああして欲しい・・・など、自分の思い通りにならないことが悩みで、思い通りになってくれることが望みなんです。

みんな状況や他人が自分を満足させてくれることばかり望んでる。与えられることばかり欲して。他人から「与えてもらえる」人間にはなろうとはせず、自分からも決して与えようとはしないのにね。

「くれない、くれない」「ちょうだい、ちょうだい」ばっかり。

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交流原則の基本は、
『過去と他人は変えられない。変えられるのは未来と自分だけ』
なんですが。

自分は変わろうとはしないのに、
他人を変えたがり、変わってくれることばかり欲する。

ありのままの他人を認めようとはしないのに、
ありのままの自分を認めて、受け入れてもらいたがる。

他人を赦すことはしないのに自分ばかり赦してもらいたがる。
他人を理解しようとはしないのに、理解してもらいたがり、
判って欲しいと望み、判ってくれないという。

他人が求めるものには気づこうとしないのに、
自分が求めるものばかり気づいてもらおうとし、
気づいてくれないことに不平不満を抱く。

そして、変わってくれないこと、赦してくれないこと、
与えてくれないこと、判ってくれないこと、気づいてくれないことに、
怒りを覚えて、相手を憎んだり、恨んだりする。
自分を満たしてくれないことに・・・
自分の期待に応えてくれないことに裏切られたとばかりに憤る。

自分だって、他人の望みや求めに応じられてなんかないのに。
相手が与えられたいと欲しているもの、
求めるものを本当に理解して、与えることなんか出来ていないのに。

人って貪欲です。

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そんな風に
自らの欲望を叶えるために周囲の状況や他人を、相手の思考や心でさえも、思い通りに、自分に都合のよいようにコントロール(支配)しようとしている人が、圧倒的に多いのが世の問題点であり、それに気づいていない人ばかりなのが困りもの。

『エゴイズム』から来る欲望は”汚れた欲望”で、誤った考えからくるものですから、これを叶えようとしても、むしろ自分も周囲も苦しめることになります。カルマ(業)にもなりますし、ブループリント⊇魂の計画たるノルマ⊇カルマのレッスン、の一連の流れにも逆らうことにもなるから。

でもねぇ、『エゴイズム』の虜になっている人に、そういう自我の押し付け状態になっていることを指摘しても、大体において、そういう指摘を受け入れないというか、憤慨して逆切れしたり、反発して意固地になったりするから、そこから引き離して納得させるのは難しいところです。

みんなその願望と思い込んでいる汚れた欲望、エゴイズムの奴隷になっていて、それがすべてで、これをどうにか叶えて、手に入れないことには、自分は満たされないって、それしかないと思い込んでいるので。

不安はね、恐れや恐怖もまたエゴイズムだけれども、
それは確かにその恐怖のタネを取り除いていくべき必要があること。

でも希望が見えなくて、明日を信じられなくて今が辛いときには、未来を覗いて、安心を得ることが必要なときもある。少しの希望が、安心を与えて、心に力を持たせることも多いから。だから未来を知りたいと望んだときに、
時と場合(動機)にもよりけりだけれども、未来を垣間見させて、今どうするべきかに繋げるためにも、予知によって不安を取り除くことも今日を生きる糧となりクスリになる。ただ、その適量を見計らないといけないのだけども。

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で、
先に書いた『霊性のレベル』において、下位にいる人の場合、まだまだ"本能"に支配されちゃっている段階だから、欲望のトリコ-エゴイズムの奴隷になっているのも仕方ないというか、自らの経験で痛い思いをして理解してもらっていくしかないんです。できればそこから早く抜け出して欲しいし、知識を身に付けて、痛い思いから学ぶことを終わらせても欲しいけど。

でも、どのレベルにいるとかはこの場合、関係なく、スピリチュアルなことに興味を持って、多少なりとも知識を身に付けたり、学び始めたりした人の場合は別です。

ほんの少しの知識でも、一部のことでも”知った”なら、自分の生活や生き方そのものに役立てていかないと。

うちで以前開いてた講座とかレッスンとかにしても、他所のあれやこれやなスピリチュアルなスクールやセミナーとか、そういう学びの機会があった人でさえ、まだまだ『エゴイズム』の奴隷になっていて、それだけなら仕方ないけれど、スピリチュアルなことを、自らのエゴイズムの目的を叶えることのために、利用しようと考えがちな人が多いのは、とても残念なこと。

自分の思い通りの結果を招くために、状況や他人をコントロールするための方法として、スピリチュアルな知識やサイキカルなテクニックを求め、何かを期待する人は以前として減らならないんですね。

最初の段階では仕方ないんだけど、ちょっとでも学んで知識を得たなら、その仕組みを知った段階で、外にあることではなく、内にある原因に気がついて欲しいなあ、とそう思ってしまうのはやはり私が欲深だからなんだろうか。

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スピリチュアルな智慧にしても、占いもオカルトも、チャネリングもリーディングも過去生を見ることも未来を覗くことも、サイキカルなヒーリングやスキルも、『魔法』や『奇跡を起こす術』じゃない。

『魔法』や『奇跡を起こす術』があったとしても、それは『エゴイズム』のある人は絶対に使うことのできないもの。”賢者の石”は誰の中にも眠っているけれど、『エゴイズム』が一片もなくなってからでないと、決して使うことはできない。

スピリチュアルな智慧にしても、占いもオカルトも、チャネリングもリーディングも過去生を見ることも未来を覗くことも、サイキカルなヒーリングやスキルで出来ることは、

『エゴイズム』の願いを叶えることではなく、奴隷から脱した、その人なりの本当の人生を生きる道を見つけること。だから、『エゴイズム』の奴隷状態で、盲目状態になっている人には、それらは、納得のいく「答え」を与えてくれる方法にはなりえない。

その人が思い通りの人生を生きるのを邪魔しているのは、
何よりもその人の『エゴイズム』で、自分自身なんだ。
外にあるものは内側にあるものの表れであって、
すべては引き寄せているものなんだから。

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さて、とある人がいた。仮に会社を経営しているAさんとしておく。詳細は書けないので説明足らずになってしまうけれども・・・

Aさんは、数年前、事業を大きくしようとした時があったのだけれど、何故かその頃に知り合った人に不快に思いをさせられることになり、一部の人からは逆恨みから、常軌を逸した嫌がらせをされることになってしまった。

嫌がらせというのは、ネットはもちろん、古典的レベルな昔ながらの嫌がらせ。

様々な心労からAさんはすっかり参ってしまい、人に薦められてうちに来ることになった。原因を知って状況を改善することを目的としてきたのではなく、心身を癒し、気力を補うための気分転換の施療を受けに。

本人がそれを知りたいと思い、その方面に目を向けていないでは、聴く耳を持っていないのでは、こちらがそれと判ってても、伝えたくても言えないこと、話せないことがあったりする。聴く耳を持ち、時期が来ていないことには。

Aさん自身が、

「何故、私はこのような目に遭わなければならないのでしょうか?
 彼らから、執拗な嫌がらせを受けたりする理由は何でしょう?
 どうして私はそのことで経済的損失を受け、
 心身の健康を損なわなければいけなかったのでしょうか?」

というようなことを聴いてこない限りには。

そう問われたなら、私は、

「それはあなたが、過去に彼らにしたことに起因しています。
 過去のある戦のあった時代において、
 あなたが彼らの上司として、彼らに対して非道であり、
 理不尽な扱いをして、彼らを苦しめ、死に至らしめたからです。
 また、別の時代の別の国では、やはり雇用主として、
 奴隷であった彼らを、人としては扱わなかったため、
 彼らはあなたに深い恨みを抱いているのです。」

という風に応えるだろう。
そして、その先も話すだろうし、そのことの対処もするだろう。
でも、Aさんはそれを知りたがってはいないし、
受け入れられる段階にはない。

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それに過去に起きたことについて知るばかりが、
Aさんに架せられた十字架なのではない。
別に上記のようなことを知る必要性はないのだ。

肝心なのはそこではない。

今回、今生において降りかかっている災難に対して、Aさんがするべきことは、まず現実的に、理性的な対応をすること。現状の、この国の法律にのっとって、出来る限りの最善を尽くすこと。警察に被害届けを出して、地道に対策を考えて、立法に乗っ取り、まっとうな方法で対処していくこと。

で、ここが一番難しいことなんだけど、彼らを恨んだり憎むことをせず、
誹謗中傷をじっと歯を食いしばって耐えて、人と関わる際に、自分に観る目がなかったのだと、その点をあきらめること。不当かつ理不尽な嫌がらせに関しては、相手を許すことはしなくてもいいけど、人生が上手くいっていないから、自暴自棄になってこんなことをしているのだと、相手は病んでいるのだと、可哀想な人物だと、そう受け止めること。

あと・・・何が問題なのかっていうと、

この問題において、
Aさんは相変わらず、自分のことしか考えてないということだ。

例えば、自分への攻撃が自分以外の人に向いたことに対して、彼らに対して迷惑をかけてしまった申し訳なさとか反省とか、そういう相手への配慮というよりも、

自分が『他人から恨みを買うような人間』だと周囲に知られること、『そのような執拗な嫌がらせをするような、悪質な人間と関係している会社である』というようなことを、他人に思われることを何よりも恐れているということ。

これが、一番の"カルマ"だったりする。

ここで、Aさんが、自分の名誉よりも、様々な関係者や家族に多大な迷惑をかけてしまった・・・ということに心を痛め、申し訳ないと、不快な思いをさせてしまったことに想いをはせる人になっていたならば・・・(いやさ、本来はそうでなくてはいけないことです)

少なくともAさんは、過去生での非道な性格だったときより、進歩したというか人として成長したということでもあり、過去の過ちを償えとばかりに向けられた恨みを、すべてその身に受ける必要もなかったわけなのです。

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そうですね・・・過去世のことも元はと言えば、
他人の"人間性"を認めず、相手の人としての尊厳に敬意を払わず、いつだって自分の立身出世のこと、自己利益のことばかりで、他者への思いやりとか、いたわりの気持ちの欠片もなかったので、それが原因でのこのカルマですから。過去においても、財産を増やすために、手柄を立てるために、とか、自分だけのために利益を追求して、人を人として扱わなかったことが「恨み」を買うことになったんですが、今回、会社を大きくしようとしてのときに『悪縁奇縁』として、互いに引き合ってしまったのも、カルマの配剤と言えましょう。

そういうカルマのある相手として、負債の完済のために出会ったとしても、
Aさんが、他人のことを考えられる人に少しでも成長していれば、カルマの現れ方、『相手からの復讐』もここまでにはならなかったかも知れない。
Aさんに対して無意識のうちに復讐をしかけた彼ら・・・過去の彼らのパーソナリティだって、Aさんが変わっていたならば、悪いところを改めてくれていたならば、そんなAさんを知って少しは成仏(この言い方は正しくはないですが)できていたというか、ここまでAさんを叩きのめしたいという執着に操られはしないで済んだ可能性もあります。

別に過去で何があったかを知るばかりが能ではないのです。

過去まで遡って自分がしたことの原因を知ろうとはせずとも、今回、起きていることを厳粛に受け止め、今の人生での自分を振り返り、自分を助けてくれている人、支えてくれている人への恩や優しさに気づき、それに報いたいと思い、かけている迷惑を心から済まないと思い、そのことに反省したり、
誠意を持って他者と関わりあって行こうとするだけで、それだけでいいんです。過去のことを知らずとも。思い出さずとも。

今のAさんが自ら変わろうとし、誠実な人になって、
そういう生き方をしようと、努力すれば・・・

過去でAさんに苦しめられた、恨み持つ人々も、
救われるし、納得して成仏する道が開けるんです。

何度も重ねて繰り返し言うけど、
Aさんは別に自分の「過去生」及び過去にした所業を思い出して、それを反省するところまでは求められていないんですね。
受け入れられる段階にはないし、本人もそこ知りたいと思ってないし。Aさんに求められているのは、人生で重きを置くべきことは何か・・・一人の人間として大事にすべきこととは本当は何であるのか・・・『人としての大事な道』を見つけ、自分も他人も尊重して生きるということなんです。

お金とか地位とか名誉とか、そんなんではなく。人と人の間にある、大事にすべきものに気づかないと、今の苦境から逃れることはできないし、カルマのレッスンは終わらないんです。

そういうことを理解するための、超痛いレッスンなんです。

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確かに酷い目にあっている被害者ではあるんですが。こんな痛い目に遭うまでに、何度かもっと軽度の出来事で、警告は何度かあったはずなんです。過去の人生で、そして今生でも。それでも気づかないからの、こんな追い詰められ方なんですね。

カルマのレッスンは、痛い思いをして理解するか、それとも知識を学んで法則を知るか・・・そのいずれかしかありません。初期のカルマのレッスンでの『警告』からの学べば、それが一番いいんですが。人ってなかなか、どうして・・・です。

Aさんの場合は、スピリチュアルなことは興味ないし、残念ながら、そういうことに思いをめぐらす段階にはいず、いやさ過去に原因を見つけようとせずとも、いまの状況からいろんなことを吸収して学ぼうとして、人として大きく成長してくれれば、それこそが肝心なのですが、相変わらず「人としての大事なもの」を見つめようとはせず、自分の体裁と経済的損失のことばかりが関心で。

気づくのを待つしかないのがじれったいばかり。
話しても、「聞こえて」ませんから。

人生で重きを置くべきことは何か・・・一人の人間として大事にすべきことは本当は何であるのか・・・『人としての大事な道』を見つけ、自分も他人も尊重して生きるということなんです。
お金とか地位とか名誉とか、そんなんではなく。人と人の間にある、大事にすべきものに気づくことが求められてて、そのことに気づけば、カルマのレッスンは終わるから、このAさんを苦しめている状況は収束に向う…のに、

ここのところ(本当の原因を解決すること)には、皆なかなか関心が行かなくて、Aさんにしても、「どうすれば自分のビジネスで醜聞が立つのを防げるか」という、もうそこしか関心がいかず、気持ちも向かず。

ホント、しょうがないっちゃあ、しょうがないんですが、
(その気持ちもわかりますから)

大体において皆そういう状態の人ばかりです。
そうしたことを理解するための、超痛いレッスンなんですね。

Aさんのように、「問題の『原因』は、そこじゃないんですよ」
って人は多いです。気づこうとしない人、言っても聴かない人。

自分が求めてる状況、望む状況にどうすれば物事を運ぶことが出来るのか…どうすれば、思い通りになるか…思いのままに未来が変わっていくのか…

関心のあるのはみんなそういうことばかり。ほとんどの人が『原因』に興味がないばかりか、耳を貸さない。だからいつだって話は平行線。

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変わりたくない・・・と言い、
自分は変わらずに、周囲が変わってくれることを望む。

他人が自分の要求を聞いてくれないことに対して不平不満ばかり。

魔法を期待して、奇跡が起こるのを待つばかり。

望みの未来が告げられるのを待ち、
それを言われることを欲し、言ってくれる人を探してジプシーする。

だから『霊感商法』に引っかかったり、当たる占いにすがり、スゴイといわれる人を信じて、『何か』を起こしてくれるもの、『幸運』をもたらしてくれるものを買う。モノやパワーに依存して、そのエネルギーはすごいのに、
自分で自分を変えることは難しいと眉を顰める。

でも、得てして説明しても、
「はあ?そんなこと聴いてませんが?」
「そんなこと私の知りたいことではありません」って
なってしまうので、お手上げです。

原因を外に求めて、内側に求めない人、他人や環境や生霊や因縁などのせいにして、自分によもや原因があるとは思わない人。本当の答えを知ろうとせず、そこから耳や目をを背けて、奇跡のワザや魔法が自分にかけられることを期待している人。スピリチュアルなことを勉強しても、都合よく解釈して、まったく何も学ぼうとしてくれない人。過去生でさえも、ヒロイズムに酔ったりするためのネタでしかなく…エゴイズムを指摘してもどっぷり浸かりっぱなしの人。

そういう人には、残念ながら何も力になってあげられません。
 
己の力量のなさに、がっくりして、途方にくれるしかなく… 

まぁ、時期が来ないことには…とか…その人それぞれのレベルとか、タイミングがあるからとか、そういうのもわかっちゃあ~いるけれども。

ついつい、言いたくなっちゃうときはあります。
それも私のスピリチュアルナルシシズムなんですけどね。

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