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贖罪と受容~赦すこと赦されること(中)

時々、個人セッション(過去生セラピーやチャクラ・ヒーリング)において、
下記のような質問を受けることがあります。

「ブログのケース・ファイルを読むと、皆さん、ハードな体験を過去にされ  ていたり、罪を犯した人生があったりするようですけれど、私にはそのような罪深い過去生は無いのですか?」

もしくは、
「なんか、とても悲惨で辛い目にあった人生ばかりのようで、
 被害者というか、幸薄い人生ばかりだったんでしょうか・・・?」

と、言った質問を頂くことも。

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さて…現実社会では、たまに「オレ、昔はワルだったんだぜ」と、過去の悪行自慢をして、素行不良の歴史を勲章のように、いきがるための材料にする人がいるけれど、そういう風に言う人ほど、大したことはしていず、真の悪人には程遠かったりします。いずれにしても、自分のしたことをよく理解していたなら、恥ずかしいを通り越して、申し訳なさと犯した”罪”の重さで押し潰されそうになり、まして自慢しようなどと思うに至らないでしょう。

だからこそ、自慢するような輩は、単なる自分を大きく見せたがる腕白自慢の小物で…そうで無いならば、それをするものはサイコパスや真正の悪人ということになるでしょう。

普通、ほとんどの人が、自分が罪人であるとは・・・悪人であるなどとは思いたがらないもの。できればいつの時代でも自分は善人で、まっとうな生き方をしていたと…望むべくは人に好かれ、慕われ、社会的に認められるような仕事を持ち、生きていたと信じたがります。過去生の自分は、今の自分が認め誇れるような人であって欲しいと・・・望むものです。

でも、人は様々な経験をするために「生を繰り返す」ので、ひとつの魂としてこの世に何度も輪廻転生する過程においては、何人たりとも、ひとつの罪も犯さなかったものはいないのです。私たちは善を知り、悪を超越するためにたくさんのお試しを受けるので。

悪を知り、罪を知り、愛を知り、善を実践し、愛を表現していくまでに、人は何度でもカルマのレッスンに臨みます。常に善の側であり、善のみを実行していた人などはいないのです。他者の過ちを理解するために、自ら罪を犯して、未熟な人を赦すことを覚える必要のある人もいますし、誰かに痛みを与えるために、悪人の立場を受け入れる人もいますので。

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さて、理性があり、人としての情、善悪の自覚がある人は、人に自慢出来ないようなこと、他人や世間から咎められるようなこと、すなわち罪・・・と呼ばれるようなことをした自分に罪悪感を持ち、そのような過ちをした自分を、過去を忘れたいと願うもの。

ここで冒頭の答えになりますが、

己が犯した過去の罪を突き付けられて、平気でいられる人は少ないのです。
それを知る必要のある人、知るべき時期が来ている人を除いては。

また、得てして人は、自虐的かつ内省的に己が罪を振り返るより、問題の種(原因)を外に求めるもので、周囲や他人のせいであると考える傾向にあります。(自分を守るがために)

だから、まず過去生で「傷」になっていること、今の人生に影を落としている過去生の出来事は、被害者的な立場であるときの出来事やそのように捉えている思考の癖が原因となり、影響を及ぼしていることが多かったりします。(事実よりも、その人の感情や意識の受け止め方が全てなので)

その人の意識が目覚めて、精神が成熟して、自分にも他人にも差別意識を持つことなく、あらゆることを受け止めて理解できるようになるまでは・・・
己が犯した罪を知ったとき、その罪の真の意味での功罪と贖罪を理解し、なおかつ自虐的かつ嗜虐的に走ることをせず、自分の人生の血と肉にすることが出来るようになるまで、知らせる必要もないことだから。

幸福で満たされた人生は、癒すべく材料、必要がありません。思い出し、知ることで今の人生の選択に役に立ち、未来への希望やヒントを得られるようであれば、伝えるのに邪魔は入らないのです。けれど、その人の単なる好奇心やエゴイズムを満たすためであれば、知ること、伝えることは罪になるので、教えてはならないことなのです。

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なので、どうしても被害者として記憶されている出来事から受けたダメージ、ネガティブな思い癖の解放とそのダメージを癒すことが先に来ると言うか、最初になってしまうのです。

けれど、ここで注意しなければならないのは、その人が「被害者」として痛みを伴う人生を味わうことになったことにしても、それにはそれなりの理由があるということ。

それは、悪を・・・罪を犯したことに対しての、反省を促すカルマのレッスンとして起きた出来事かも知れませんし、単純に被害者としての痛みを知るためのレッスンだったのかも知れません。その背景にある理由は様々で、人によって異なっています。一つとして同じ理由ということは無いのです。

ある意味で、過去生のトラウマに苦しめられることでさえ、大切な気づきを促すための、レッスンという場合もあります。その場合は、そのトラウマに苦しめられる状況を、安易に癒してはならなかったりします。その人を苦しめ、重荷となっている「悩み」や「障害」の原因を、ただ可哀想と考えて、何故その苦しみがあるのかを理解せず、安直に取り除こうとしたときには、その人がその苦しみの中から気付かなくてはいけないこと、会得しなければいけなかった感情を育てる機会を奪うことも時にあるので。

※この話については、別の過去記事にて例を出して説明しています。

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「なぜ、我々は過去世のことを覚えていないのですか」と誰かが聞いた。

「その方が自分のためだからだ。過去の習慣や欲望に再び執着することなしに進歩するチャンスがあるという聖なる慈悲の一環だ。
もし、現世ではよい宣教師でいる人間がいるとする。何回かの前世のように、飲酒が問題になっていないところまで進化している。
しかし宇宙の記憶の中では、彼のアル中だった部分はまだ生きている。
このような記憶が現世で目覚めてしまうと、古い習慣に後戻りして、再びアル中になる可能性がある。キリスト自身も、畑を耕す時、もう既に耕された溝を見るよりも、次に耕す畝に意識を集中せよ、と言っている」

「メッセンジャー」キリアコス・C・マルキデス著より ダスカロスの講義

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もしも、過去にマリー・アントワネットだった人が、現世に生まれ変わっていたとして、自分が彼女として生きた人生を思い出したとしたならば、その人物は、自分が歴史上に名を記す女王だったことに歓喜するのでしょうか?
そのことを誇らしく、周囲に吹聴し、自慢するのでしょうか・・・?

もし、そうだとしたら、彼女は過去の自分の人生(経験)から何も学んでいないことになりますし、恥というものを知らず、何が善で悪なのかが解らない、考え無しの非常識な、分別のない人間であるのかも知れません。

とはいうものの、マリー・アントワネットという有名人であったことを単純に喜べるならば、その人は自分の過去の人生を思い出すべき時期には来ていないということなのですが。

本当に彼女が思い出すべき時期に来ているのであれば・・・精神的に成熟し、人としての成長を遂げていて、過去に犯した罪や欠点を克服できるレベルに来ているのならば、自分が過去、その人物として生きた人生を客観的に振り返ったとき、己が罪におののき、恥じ入るに違いないのです。

自分の置かれた立場への自覚の無さや愚かな欲望によって、一つの国の国庫を赤字にさせ、民を植えさせ、たくさんの人々から怒りと憎しみを買うことになり、王政を滅ぼさせて、嫁ぎ先と家族をギロチンへと送ることになったのですから。

この思い事実を受け止めて、自分の犯した罪を認識した上で、しっかりとその過ちから学ぶべきことを学び、反省を自分の生き方に反映して、他者への奉仕や愛の実践を通して、今の人生や未来へと生かしていくことの出来る人でなければ、己が罪深い人生を送った過去生を思い出すことには何の意味も無いのです。

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基本的に、「知るべき時期」が来ていない人が、自ら過去生を思い出すことはありません。善と悪、己が罪を理解し、懺悔と悔恨の感情を持ち、自分の過去を贖罪の意識からも、必要な経験であったという真理の認識からも、双方の視点で受け止めることの出来るレベルに達していない限りには・・・

しかし、例外も時にあります。「時期」が来ていなくても、過去の自分の片鱗を見つけてしまう人も、まれにいます。

スピリチュアルなことに興味を持ち、サイキカルな能力を磨くことに専念などした結果の賜物として… あるいは、チャクラを刺激する過度の働きかけをしたり、過去生を思い出すワークや、瞑想などをたくさん行ったことの結果として、あるいは他者のそのような能力を触発するような、人物との出会いなどによって。

「意識の目覚め」がまだ無い段階にある者が、適切な知識や指導者のいない状態で過去生を思い出してしまう状況は…「癒し」が行われ、「気づき」や「学び」をもたらすより先に、その過去生で培った良くない性質(ネガティブな性格)をも、目覚めさせてしまう危険性を大きく伴っています。

理性が感情をコントロール出来ず、愛が十分に育っていないことから、
過去の自分の邪悪な部分(エレメンタル)を超越することが出来ないので。

そのような人は、過去の己が人生の欠点を克服出来ず、失敗から反省を引き出すことも出来ず、再び利己的な自我から生まれた想念の虜となってしまい、リプレイするかのように、捨てたはずの過去を繰り返し生きることになってしまうものです。

残念ながら、そうした人を何人か知っています。

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得てして、そのような状態で取り出された記憶は、エゴイズムによって肝心の部分を忘却され、都合よく脚色されていることが多々あったりします。事実とは異なり、捻じ曲げて理解された過去生の情報は、本人に何の実りも成長も、意識改革ももたらしません。

たまたまの偶然ではありますが、(上)に書いた記事でも、過去生において、ユダヤ人収容所で働いていたであろう女性のことを書いたのですけれど、戦後この日本に転生してきた人物の中には、過去ホロコーストの渦中に生きた人生を持つ人も少なくなく、生徒さんの中にも、あの国の歴史の渦、戦争に人生を狂わされた人がいて、クライアントさんとして出会った方の中にも、今まで幾人かお会いすることになりました。

中には、自ら思い出し、その記憶を語る人もいらっしゃいました。

しかし、残念ながらその人は自らの過去生を振り返ったとき、まったく反省のない人でした。

日本人で、戦後の教育を受け、あの戦争に対しての歴史認識や道徳的意識を学んだ人ならば・・・ナチスドイツが犯した戦争犯罪について、ユダヤ人に対して行った、人類史上において最も忌むべき行為、人が人に対して決して犯してはならない、その非人道的な罪を、良くないことだと…思うはずで、それを自ら口にして語ることなど、憚られるように思うのですが。その方は違っていました。笑顔で嬉々揚々として語られるのです。

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過去生を思い出したと・・・自分が思い出した記憶を、その記憶を輪廻転生という事実からなる、まぎれもない自分の過去の人生であると信じたとき、その組織の一員であり、なおかつ、その犯罪に手を染めていたことなど、恥ずべきこと以外のなにものでもなく…

自分が酷い目に合わせた相手に対して…その命を奪ったであろう相手と現世にて再会したとき、申し訳ないと・・・心がつぶれるくらいの悔恨と懺悔の念を抱き、今生で相手から当時の恨みで殺されても仕方ないくらいに思ったり、その人に対していかにして償いが出来るのか考えたり、その人に対してでなくても、不特定多数の過去の犠牲者の生まれ変わってきた人々や、あるいは自分が過去に犯したような類似の罪の、すべての犠牲者に対して、何かしたいと・・・自分が何か出来ることは無いのかと・・・過去の人生の過ちをどうすれば、ぬぐえるほどの事ができるのか、そう考えるのが、人間らしい「こころ」を持った人であるでしょうし。

「恥」の概念があり、人の「こころ」があるのならば、自分がかような歴史的大罪に関与していたことなど、思い出したくないと、認めたくないことだと思いこそすれ・・・自虐的に過去の自分を恨んだり、責めたり、非人道的な行為を行った自分や運命を憎みこそすれ…

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しかし、それを懐かしい思い出を語るように笑いながら話すなど、自分が人間の心を持たない邪悪な殺人ロボットか、血に飢えた狂人であると宣伝し、自慢しているようなものだと思ったりします。

本当に当時の自分の過去生を思い出しているのなら…自分が罪を犯していると、そう自分の過去生のことを解釈しているのなら、どうして、その邪悪な犯罪におぞましさも感じずに、自分のしたことを棚に上げて、自分が犯し、命を奪った人に、平然と接することが出来るのでしょう?

ナチスの収容所で、自分がユダヤ人たちにしたこと…大勢の人間を残虐に殺し、命を弄び、それを楽しみ、そのようなことを…自分がしたことを思い出していながら、今生で自分が惨殺した人たちに出会ったとき、目の前にいる相手がかつての犠牲者、自らが犯した罪の被害者であることを思い出したとき…

相手が自分に対して生理的嫌悪感を抱き、拒絶反応を示すことに対して理解を示さないばかりか、どうして拒否されることに怒り、自分を受け入れようとはしない相手を咎めることが出来るものなのか…

相手が自分を許さないことに対して、不平不満を言うことが出来るのか…

どうして、そのように自分の過去を1gも後悔しているようには見えず、犯した罪に良心の呵責を感じてるようにも思えない、被害者の傷に塩をなすりつけ、当時の怒りを逆撫でするばかりの生き方をしているような人を、どうして許すことが出来るというのでしょう。

己が罪の重さに恐れおののき、相手に対して、贖罪の心を持ち、自分を戒める心を持った人ならいざ知らず・・・

どうして、そのような人を赦さなければいけないのでしょう? 

受け入れ、赦すのが愛だろうと言わんばかりに、かつての加害者から上から目線でモノを言われ、侮辱され、罵られ、そしりを受けなければならないのでしょう? 被害者である立場のものたちの方が。

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人を赦すことは難しい。

例えば、すべてのことには理由があって、愛を学ぶために、善と悪が存在するのだと知識の上では理解していても。
被害者になることでさえ、輪廻転生の循環の中でも因果応報の法則の流れで、同胞への愛や奉仕のひとつの形であると知識として知ってはいても、感情は必ずしも、その考えについていけるものでは無いのです。

このような仕事をして、人にスピリチュアリズムを教えることをしていても、必ずしも、実践出来ているわけではありません。

私の今生の課題の一つに、他者の過ちを「許すこと」というのがあります。たくさんの人を赦して、人間であるが故の弱さや過ちを理解して、受容しなければいけないのですが…

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数百年前の人生において、古い土着の宗教の帰依者で、とある田舎の村で薬草療法師をしていたのだけれど、キリスト教徒では無かったがために、魔女裁判にかけられ、拷問されたあげく、殺されたことがありました。

この時、それまで親しくしていた隣人たち、患者として自分が助けてきたと思っていた人たちが、助けてくれないばかりか、異口同音に魔女だと誹り、非難し、石を投げつけて、あらゆる嘘を証言してきたことに打ちのめされ…

死へと誘う処刑台に上り、死に至る瞬間まで、そして死んでからも、この人間不信と人々への恨み、ひたすら奉仕してきたことに対する仕打ちへの怒りはずっとずっと消えず、今の人生に持ち越されることになりました。

また、殺されたり、利用されたり、裏切られたりは、その人生だけでなく、その前にも後にも、何度も何度も経験していて、たくさんたくさん、積み重なってしまっていたように思います。

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さて、数年前のこと・・・とあるグループの人たち数人とランチをする約束をしていたのですが、その約束の直前になって、ふいにその全員から、殺された過去があったことを思い出してしまいました。(遊牧民の男性だった時で、宴会の最中に騙し討ちにあって、部下共々殺されたのですね。お酒に毒か痺れ薬のようなものを入れられていて、油断させられたあげく、でした。また、同時にそれ以外の出来事も思い出してしまいましたが)
猛烈なショックと吐き気と生理的嫌悪感で、どうにもならなくなってしまい、とても平静かつ楽しく食事をすることは無理だと、適当な理由を作って、会食を断ることに。

一対一なら、まだ何とかなったかも知れません。けれど、一気に全てのケースを思い出して、その恐怖と対峙して抑制するのは、神経がもたないと思ったのです。(こちらとしては理由を説明出来ないので、その人たちからすると、とても不義理で失礼なことをされたと思われてしまったかと)

怒りや恐怖はそんなに簡単に克服出来るものでは無いです。何故そんな、克服できもしない記憶を、このタイミングで思い出すことになったのか?疑問のほうが強かったのですが、たぶん「お試し」だったのでしょうね。

知っていることを実践できるかどうか・・・

否。

私がその人たちを赦せたかというと、答えはNoになります。

その人たちを笑って赦せるほど、人間的に成熟もしていないですし、愛を受容してもいないし、聖者でも仙人でも、人格者にも程遠いわけです。

私の中にはまだまだたくさんの怒りがあって、納得出来ないこともたくさんあって、当時の自分の「死」の理由を消化できていなかったんですね。

(追記:今はだいぶ昇華出来ました。だいぶ手放して、赦せているとは思います。偉大なる勘違いや思い込みかも知れないけどww)

恐怖はなかなか手放すことが出来ません。
まして、思い出してしまった日には。

無意識の底に沈んでいた、得体の知れない何かの正体を知ることは出来ても、「されたこと」から生じた心の傷や埋め込まれた恐れを、取り除くのは難しいものです。

でも、赦せない自分を、相手のことを愛することが出来ない自分を、
不寛容で狭量だと、愛が足りないと・・・責めることも違うのです。

赦せないのは、その人自身ではなく、その人をして行われた「行為」そのものなのですから。罪があるとするならば、犯す人のほうではなく、罪自身が存在することにあります。

だからといって、加害者を憎み、怒り、恨む心もまた、あって然りで、誰がそれを責めることが出来るのでしょう?

愛する人を殺され、自身もまた屈辱的な殺され方をしたとき、天を恨み、相手の不幸を望み、末代まで呪いたくなるような、そんな慟哭を抱えた人を、「愛が足りない」などという言葉で裁いていいはずがないのです。

被害にあった人に…「それは引き寄せの法則です」「学ぶべきことがあって、起きた出来事なんですよ」なんて言うのは、とても無責任で思いやりのない言葉以外のナニモノでもなく…

愛する人を残虐な方法で殺されて、悲しみにくれている人に、加害者に対して、心が焦げ付きそうなほど、恨みと怒り、そして憎しみの炎を燃やしている人に・・・「これは因果応報の法則が働いたからですよ」なんて・・・そんなの、人が人に言っていいセリフじゃないです。

例え、それが霊的真理で宇宙の、カルマの法則だったとしても、そうしたことを知りたいと、望んで知ろうとする人ではない限り、その段階にない人に・・・そんなことを知りたいとは思っていない人に、かけるべき言葉ではないです、絶対に。

そんなスピリチュアリズムなんて、糞くらえ!とも言えます。

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